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韓非子 / 問辯第四十一

夫言行者,以功用爲之的彀者也。夫砥礪殺矢而以妄發,其端未嘗不中秋毫也,然而不可謂善射者,無常儀的也。設五寸之的,引十步之遠,非羿、逢蒙不能必中者,有常儀的也。

新字:夫言行者,以功用為之的彀者也。夫砥礪殺矢而以妄発,其端未嘗不中秋毫也,然而不可謂善射者,無常儀的也。設五寸之的,引十歩之遠,非羿、逢蒙不能必中者,有常儀的也。

書き下し

夫れ言行は、功用を以て之が的彀と為す者なり。夫れ殺矢を砥礪して以て妄りに発すれば、其の端未だ嘗て秋毫に中らずんばあらず、然れども善く射る者と謂ふべからざるは、常の儀的無ければなり。五寸の的を設け、十歩の遠きに引くも、羿・逢蒙に非ざれば必ずしも中つる能はざるは、常の儀的有ればなり。

現代語訳

言葉や行いは、功績と効用を的とするものである。鋭い矢を研ぎ澄まして当てずっぽうに放てば、その矢先は秋の獣の細毛ほどの小さな何かに当たらないことはない。それでも弓の名手とはいえないのは、決まった的がないからである。五寸の的を立てて十歩の距離から引いても、羿や逢蒙(古代の弓の名人)でなければ必ず当てることはできないのは、決まった的があるからである。

解説

問辯篇の中心となるたとえです。的を決めずに矢を放てば、どこかの何かには必ず当たるので、名手のように見える。しかし的を定めれば、十歩の距離でも名人でなければ当たらない。言論も同じで、功績と効用という的を決めずに評価すれば、どんな言説ももっともらしく聞こえてしまうと韓非は言います。戦国の弁論家たちの議論が巧みに見えたのは、実際の成果という基準で測られていなかったからだというのです。後から「当たっていた」と言える予測や、何とでも解釈できる提言は、今でも会議や評論の場にあふれています。何をもって成功とするかを先に決めることが、言葉の価値を測る前提になると教えてくれます。

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