韓非子 / 外儲說左上第三十二
楚厲王有警,爲鼓以與百姓爲戍。飲酒醉,過而撃之也,民大驚。使人止之,曰:「吾醉而與左右戲,過撃之也。」民皆罷。居數月,有警,撃鼓而民不赴。乃更令明號而民信之。李悝警其兩和,曰:「謹警敵人,旦暮且至撃汝。」如是者再三而敵不至。兩和懈怠,不信李悝。居數月,秦人求襲之,至幾奪其軍。此不信患也。一曰:李悝與秦人戰,謂左和曰:「速上!右和已上矣。」又馳而至右和曰:「左和已上矣。」左右和曰:「上矣。」於是皆爭上。其明年,與秦人戰。秦人襲之,至幾奪其車。此不信之患。
新字:楚厲王有警,為鼓以与百姓為戍。飲酒酔,過而撃之也,民大驚。使人止之,曰:「吾酔而与左右戯,過撃之也。」民皆罷。居数月,有警,撃鼓而民不赴。乃更令明号而民信之。李悝警其両和,曰:「謹警敵人,旦暮且至撃汝。」如是者再三而敵不至。両和懈怠,不信李悝。居数月,秦人求襲之,至幾奪其軍。此不信患也。一曰:李悝与秦人戦,謂左和曰:「速上!右和已上矣。」又馳而至右和曰:「左和已上矣。」左右和曰:「上矣。」於是皆争上。其明年,与秦人戦。秦人襲之,至幾奪其車。此不信之患。
書き下し
楚の厲王警有り、鼓を為りて以て百姓と戍を為す。酒を飲みて酔ひ、過ちて之を撃つなり、民大いに驚く。人をして之を止めしめて曰く、「吾酔ひて左右と戯れ、過ちて之を撃てり。」民皆罷む。居ること数月、警有り、鼓を撃つも民赴かず。乃ち令を更め号を明らかにして民之を信ず。李悝其の両和を警めて曰く、「謹んで敵人を警めよ、旦暮に且に至りて汝を撃たんとす。」是の如き者再三にして敵至らず。両和懈怠し、李悝を信ぜず。居ること数月、秦人求めて之を襲ひ、至りて幾ど其の軍を奪はんとす。此れ信ならざるの患なり。一に曰く、李悝秦人と戦ふ、左和に謂ひて曰く、「速かに上れ、右和已に上れり。」又馳せて右和に至りて曰く、「左和已に上れり。」左右和曰く、「上れり。」是に於て皆争ひ上る。其の明年、秦人と戦ふ。秦人之を襲ひ、至りて幾ど其の車を奪はんとす。此れ信ならざるの患なり。
現代語訳
楚の厲王は、敵襲の警報のために太鼓を作り、民とともに守りを固める合図としていた。ある時、酒に酔って誤ってその太鼓を打ってしまい、民は大いに驚いた。王は人をやって騒ぎを止めさせ、「私は酔って側近とふざけていて、誤って打ってしまったのだ」と言わせた。民はみな引き揚げた。数か月後、本当に敵襲があって太鼓を打ったが、民は駆けつけなかった。そこで命令を改め合図をはっきりさせて、ようやく民は信じるようになった。魏の李悝は左右の陣(両和)に警告して言った。「敵によく警戒せよ。朝か夕方には攻めて来てお前たちを討つぞ。」こうしたことが二度三度あったが、敵は来なかった。左右の陣は気が緩み、李悝の言うことを信じなくなった。数か月後、秦軍が隙をうかがって襲い、あやうく軍を奪われるところだった。これは信のないことの害である。別の伝えでは、こうである。李悝は秦軍と戦ったとき、左の陣に言った。「早く攻め上れ。右の陣はもう攻め上ったぞ。」さらに馬を走らせて右の陣に行き、「左の陣はもう攻め上ったぞ」と言った。左右の陣は「それなら我々も上ろう」と言い、みな先を争って攻め上った。翌年、また秦軍と戦ったとき、秦軍が襲いかかり、あやうく戦車を奪われるところだった。これは信のないことの害である。
解説
関連する章句
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『韓非子』外儲說左上第三十二賞罰信ならざれば則ち禁令行はれず、説は文公の原を攻むると箕鄭の餓を救ふとに在り。是を以て呉起故人を須ちて食し、文侯虞人に会して猟す。故に明主信を表すこと、曾子の彘を殺すが如きなり。患は厲王の警鼓を撃つと李悝の両和を謾くとに在り。一。宓子賤単父を治む。有若之を見て曰く、「子何ぞ臞せたるや。」宓子曰く、「君賤の不肖を知らず、単父を治めしむ、官事急にして、心之を憂ふ、故に臞せたり。」有若曰く、「昔者舜五絃を鼓し、南風の詩を歌ひて天下治まる。今単父の細を以て、之を治めて憂ふ、天下を治むるは将に奈何せんとするや。故に術有りて之を御すれば、身廟堂の上に坐し、処女子の色有るも、治に害無し。術無くして之を御すれば、身瘁臞すと雖も、猶ほ未だ益有らず。楚王田鳩に謂ひて曰く、「墨子は、顕学なり。其の身体は則ち可なり、其の言多くして弁ならざるは、何ぞや。」曰く、「昔秦伯其の女を晋の公子に嫁がしむ、晋をして之が為に装を飾らしめ、文衣の媵七十人を従へしむ。晋に至る、晋人其の妾を愛して公女を賤しむ。此れ善く妾を嫁がしむと謂ふべくして、未だ善く女を嫁がしむと謂ふべからざるなり。
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『韓非子』內儲說上七術第三十人争ひて之を徙す。乃ち令を下して曰く、「明日且に亭を攻めんとす。能く先に登る者有らば、之を国大夫に仕へしめ、之に上田宅を賜はん」と。人争ひて之に趨く。是に於て亭を攻め、一朝にして之を抜く。李悝、魏の文侯の為に上地の守と為りて、人の善く射んことを欲す。乃ち令を下して曰く、「人の狐疑の訟有る者は、之をして的を射しめ、之に中つる者は勝ち、中てざる者は負けん」と。令下りて人皆疾く射を習ひ、日夜休まず。秦人と戦ふに及び、大いに之を敗る、人の善く戦射するを以てなり。宋の崇門の巷人、喪に服して毀して甚だ瘠す。上以て親に慈愛なりと為し、挙げて以て官師と為す。明年、人の毀を以て死する所の者、歳に十余人。子の親の喪に服する者は、之を愛するが為なり、而るに尚ほ賞を以て勧むべきなり、況んや君上の民に於けるをや。越王、呉を伐たんことを慮り、人の死を軽んぜんことを欲す。出でて怒鼃を見て、乃ち之が為に式す。従者曰く、「奚ぞ此を敬する」と。王曰く、「其の気有るが為の故なり」と。明年の頭を以て王に献ぜんことを請ふ者、歳に十余人。此に由りて之を観れば、誉は以て人を殺すに足る。一に曰く、越王勾践、怒鼃を見て之に式す。御者曰く、「何為れぞ式する」と。王曰く、「鼃に気有ること此の如し、式すること無かるべけんや」と。士人之を聞きて曰く、「鼃に気有れば、王猶ほ式を為す、況んや士人の勇有る者をや」と。是の歳、人に自剄して死し、其の頭を以て献ずる者有り。故に越王将に呉に復せんとして其の教へを試む。台を燔きて之を鼓し、民をして火に赴かしむる者は、賞火に在ればなり。江に臨みて之を鼓し、人をして水に赴かしむる者は、賞水に在ればなり。戦に臨みて人をして頭を絶ち腹を刳きて顧みる心無からしむる者は、賞兵に在ればなり。又況んや法に拠りて賢を進むれば、其の勧むること此より甚だし。
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『韓非子』內儲說下六微第三十一久しく語りて懐刷す、小資なり、猶ほ以て富を成す、況んや吏勢に於てをや。晋の厲公の時、六卿貴し。胥僮・長魚矯諫めて曰く、「大臣貴重にして、主に敵して事を争ひ、外に市して党を樹て、下は国法を乱し、上は以て主を劫かす、而して国危からざる者は、未だ嘗て有らざるなり。」公曰く、「善し。」乃ち三卿を誅す。胥僮・長魚矯又諫めて曰く、「夫れ同罪の人偏く誅して尽くさざるは、是れ怨みを懐かしめて之に間を借すなり。」公曰く、「吾一朝にして三卿を夷す、予尽くすに忍びざるなり。」長魚矯対へて曰く、「公之を忍びざれば、彼将に公を忍ばんとす。」公聴かず。居ること三月、諸卿難を作し、遂に厲公を殺して其の地を分つ。州侯荊に相として、貴くして主断す。荊王之を疑ひ、因りて左右に問ふ、左右対へて無しと曰ふこと、一口より出づるが如し。燕人惑ふこと無し、故に狗矢に浴す。燕人、其の妻士に私通する有り、其の夫早く外より来り、士適ま出づ。夫曰く、「何の客ぞや。」其の妻曰く、「客無し。」左右に問ふに、左右無しと言ふこと、一口より出づるが如し。其の妻曰く、「公惑易せり。」因りて之に浴するに狗矢を以てす。一に曰く、燕人李季好んで遠く出づ、其の妻私かに士に通ずる有り、季突として至る、士内中に在り、妻之を患ふ。其の室婦曰く、「公子をして裸にして髪を解き、直ちに門を出でしめよ、吾が属佯りて見ざらん。」是に於て公子其の計に従ひ、疾く走りて門を出づ。季曰く、「是れ何人ぞや。」家室皆曰く、「無し。」季曰く、「吾鬼を見たるか。」婦人曰く、「然り。」「之を為すこと奈何。」曰く、「五牲の矢を取りて之に浴せよ。」季曰く、「諾。」乃ち浴するに矢を以てす。
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『韓非子』外儲說左上第三十二名に信なれば、則ち群臣職を守り、善悪踰えず、百事怠らず。事に信なれば、則ち天の時を失はず、百姓踰えず。義に信なれば、則ち近親勧勉して遠き者之に帰す。」呉起出でて、故人に遇ひて之を止めて食せしむ。故人曰く、「諾、今返りて御せん。」呉子曰く、「公を待ちて食せん。」故人暮に至るも来らず、起食せずして之を待つ。明日早く、人をして故人を求めしむ。故人来り、方に之と食す。魏の文侯虞人と猟を期す。明日、会ま天疾風す、左右文侯を止む、聴かず、曰く、「風疾きの故を以て信を失ふべからず、吾為さざるなり。」遂に自ら車を駆りて往き、風を犯して虞人を罷む。曾子の妻市に之く、其の子之に随ひて泣く。其の母曰く、「女還れ、顧反して女の為に彘を殺さん。」適ま市より来る、曾子彘を捕へて之を殺さんと欲す。妻之を止めて曰く、「特だ嬰児と戯るるのみ。」
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『韓非子』內儲說下六微第三十一大夫何ぞ呉を釈きて越を患へしめざる。」大夫種書を受けて之を読み、太息して歎じて曰く、「之を殺せ、越と呉と命を同じくす。」大成牛趙より申不害に韓に謂ひて曰く、「韓を以て我を趙に重くせよ、請ふ趙を以て子を韓に重くせん、是れ子に両韓有り、我に両趙有るなり。」司馬喜は、中山君の臣なり、而して趙に善し、嘗て中山の謀を以て微かに趙王に告ぐ。呂倉は、魏王の臣なり、而して秦・荊に善し。微かに秦・荊に諷して之をして魏を攻めしめ、因りて行きて和せんことを請ひて以て自ら重くす。宋石は、魏の将なり。衛君は、荊の将なり。両国難を搆へ、二子皆将たり。宋石衛君に書を遺りて曰く、「二軍相当り、両旗相望む、唯だ一戦すること毋かれ、戦へば必ず両存せず。此れ乃ち両主の事なり、子と私怨有ること無し、善き者は相避くるなり。」白圭魏に相たり、暴譴韓に相たり。白圭暴譴に謂ひて曰く、「子韓を以て我を魏に輔けよ、我魏を以て子を韓に待たん、臣長く魏に用ひられ、子長く韓に用ひられん。」三。斉の中大夫に夷射なる者有り、王に御飲し、酔ふこと甚しくして出で、郎門に倚る。門者の刖跪請ひて曰く、「足下之に余瀝を賜ふに意無きか。」夷射叱して曰く、「去れ。刑余の人、何事ぞ乃ち敢て長者に飲を乞ふ。」刖跪走り退く。
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『韓非子』外儲說左上第三十二曰く、「寧ろ度を信ずとも、自ら信ずること無きなり。」四。王登中牟の令と為り、上りて襄主に言ひて曰く、「中牟に士の中章・胥己と曰ふ者有り、其の身甚だ修まり、其の学甚だ博し、君何ぞ之を挙げざる。」主曰く、「子之に見えよ、我将に中大夫と為さんとす。」相室諫めて曰く、「中大夫は、晋の重列なり、今功無くして受くるは、晋臣の意に非ず。君其れ之を耳にして未だ之を目にせざるか。」襄主曰く、「我登を取る、既に之を耳にして之を目にせり。登の取る所、又之を耳にして之を目にせば、是れ人を耳目すること絶えて已む無し。」王登一日にして二中大夫を見えしめ、之に田宅を予ふ。中牟の人其の田耘を棄て、宅圃を売りて文学に随ふ者、邑の半ばなり。叔向坐に御す、平公事を請ふ、公腓痛み足痺れ転筋して敢て坐を壊らず。晋国之を聞き、皆曰く、「叔向は賢者なり、平公之を礼し、転筋して敢て坐を壊らず。」晋国の仕を辞し託して叔向を慕ふ者、国の錘なり。鄭県の人に屈公なる者有り、敵を聞きて、恐れ、因りて死す。恐れ已みて、因りて生く。趙の主父李疵をして中山の攻むべきや不やを視しむ。還りて報じて曰く、「中山伐つべきなり。君亟やかに伐たずんば、将に斉・燕に後れんとす。」主父曰く、「何の故に攻むべき。」李疵対へて曰く、「其の君巌穴の士を見ることを好み、蓋を傾け車を与にして以て窮閭隘巷の士に見ゆる所の者十を以て数へ、礼を伉して布衣の士に下る者百を以て数ふ。」君曰く、「子の言を以て論ずれば、是れ賢君なり、安んぞ攻むべけんや。」疵曰く、「然らず。