韓非子 / 外儲說左上第三十二
趙主父令工施鈎梯而緣播吾,刻踈人迹其上,廣三尺,長五尺,而勒之曰:「主父常遊於此。」秦昭王令工施鈎梯而上華山,以松栢之心爲博,箭長八尺,棊長八寸,而勒之曰:「昭王嘗與天神博於此矣。」文公反國,至河,令籩豆捐之,席蓐捐之,手足胼胝、面目黧黑者後之。咎犯聞之而夜哭。公曰:「寡人出亡二十年,乃今得反國。咎犯聞之不喜而哭,意不欲寡人反國耶?」犯對曰:「籩豆,所以食也;席蓐,所以卧也,而君捐之。手足胼胝、面目黧黑,勞有功者也,而君後之。今臣有與在後,中不勝其哀,故哭。且臣爲君行詐僞以反國者衆矣,臣尚自惡也,而況於君?」再拜而辭。文公止之曰:「諺曰:『築社者,㩷撅而置之,端冕而祀之。』今子與我取之,而不與我治之;與我置之,而不與我祀之,焉可?」解左驂而盟于河。鄭縣人卜子使其妻爲袴,其妻問曰:「今袴何如?」夫曰:「象吾故袴。」妻子因毁新,令如故袴。鄭縣人有得車軛者,而不知其名,問人曰:「此何種也?」對曰:「此車軛也。」俄又復得一,問人曰:「此是何種也?」對曰:「此車軛也。」問者大怒曰:「曩者曰車軛,今又曰車軛,是何衆也?此女欺我也!」遂與之鬬。衛人有佐弋者,鳥至,因先以其裷麾之,鳥驚而不射也。
新字:趙主父令工施鈎梯而縁播吾,刻疎人迹其上,広三尺,長五尺,而勒之曰:「主父常遊於此。」秦昭王令工施鈎梯而上華山,以松栢之心為博,箭長八尺,棋長八寸,而勒之曰:「昭王嘗与天神博於此矣。」文公反国,至河,令籩豆捐之,席蓐捐之,手足胼胝、面目黧黒者後之。咎犯聞之而夜哭。公曰:「寡人出亡二十年,乃今得反国。咎犯聞之不喜而哭,意不欲寡人反国耶?」犯対曰:「籩豆,所以食也;席蓐,所以臥也,而君捐之。手足胼胝、面目黧黒,労有功者也,而君後之。今臣有与在後,中不勝其哀,故哭。且臣為君行詐偽以反国者衆矣,臣尚自悪也,而況於君?」再拝而辞。文公止之曰:「諺曰:『築社者,㩷撅而置之,端冕而祀之。』今子与我取之,而不与我治之;与我置之,而不与我祀之,焉可?」解左驂而盟于河。鄭県人卜子使其妻為袴,其妻問曰:「今袴何如?」夫曰:「象吾故袴。」妻子因毀新,令如故袴。鄭県人有得車軛者,而不知其名,問人曰:「此何種也?」対曰:「此車軛也。」俄又復得一,問人曰:「此是何種也?」対曰:「此車軛也。」問者大怒曰:「曩者曰車軛,今又曰車軛,是何衆也?此女欺我也!」遂与之闘。衛人有佐弋者,鳥至,因先以其裷麾之,鳥驚而不射也。
書き下し
趙の主父工をして鉤梯を施して播吾に縁らしめ、人の迹を其の上に刻疏せしむ、広さ三尺、長さ五尺、而して之に勒して曰く、「主父常に此に遊ぶ。」秦の昭王工をして鉤梯を施して華山に上らしめ、松柏の心を以て博を為る、箭の長さ八尺、棊の長さ八寸、而して之に勒して曰く、「昭王嘗て天神と此に博せり。」文公国に反り、河に至る、籩豆は之を捐てしめ、席蓐は之を捐てしめ、手足胼胝し面目黧黒なる者は之を後にす。咎犯之を聞きて夜哭す。公曰く、「寡人出亡すること二十年、乃ち今国に反るを得たり。咎犯之を聞きて喜ばずして哭す、意ふに寡人の国に反るを欲せざるか。」犯対へて曰く、「籩豆は、以て食ふ所なり。席蓐は、以て臥す所なり、而るに君之を捐つ。手足胼胝し面目黧黒なるは、労して功有る者なり、而るに君之を後にす。今臣与りて後に在る有り、中其の哀しみに勝へず、故に哭す。且つ臣君の為に詐偽を行ひて以て国に反らしむる者衆し、臣尚ほ自ら悪む、而るを況んや君に於てをや。」再拝して辞す。文公之を止めて曰く、「諺に曰く、社を築く者は、撅を攓げて之を置き、端冕して之を祀る、と。今子我と与に之を取りて、我と与に之を治めず。我と与に之を置きて、我と与に之を祀らず、焉んぞ可ならんや。」左驂を解きて河に盟ふ。鄭県の人卜子其の妻をして袴を為らしむ、其の妻問ひて曰く、「今の袴は何如。」夫曰く、「吾が故袴に象れ。」妻子因りて新しきを毀ち、故袴の如くならしむ。鄭県の人に車軛を得る者有り、而して其の名を知らず、人に問ひて曰く、「此れ何の種ぞや。」対へて曰く、「此れ車軛なり。」俄にして又復た一を得、人に問ひて曰く、「此れ是れ何の種ぞや。」対へて曰く、「此れ車軛なり。」問ふ者大いに怒りて曰く、「曩者には車軛と曰ひ、今又車軛と曰ふ、是れ何ぞ衆きや。此れ女我を欺くなり。」遂に之と闘ふ。衛人に弋を佐くる者有り、鳥至る、因りて先づ其の裷を以て之を麾く、鳥驚きて射ず。
現代語訳
趙の主父(武霊王)は職人に鉤のついたはしごを掛けさせて播吾山に登らせ、山の上に人の足跡を刻ませた。幅三尺、長さ五尺で、そこに「主父は常にここに遊ぶ」と彫りつけさせた。秦の昭王は職人に鉤のついたはしごを掛けさせて華山に登らせ、松と柏の芯で双六盤を作らせた。矢(駒を進める棒)の長さは八尺、駒の長さは八寸で、そこに「昭王はかつてここで天の神と双六をした」と彫りつけさせた。晋の文公が亡命から国に帰る途中、黄河まで来ると、(亡命中に使った)食器を捨てさせ、敷物を捨てさせ、手足にたこができ顔が日焼けして黒くなった者たちを後ろに回した。咎犯(狐偃)はこれを聞いて夜に泣いた。文公は言った。「私は二十年も亡命して、今ようやく国に帰れるのだ。咎犯がこれを聞いて喜ばずに泣くのは、私が国に帰るのを望まないということか。」咎犯は答えた。「食器は食べるためのもの、敷物は寝るためのものなのに、君はそれを捨てられた。手足にたこができ顔が黒くなったのは、苦労して功のあった者たちなのに、君はそれを後回しにされた。今、私もその後回しにされる中に入っており、胸の内の悲しみに耐えられず泣いたのです。それに、私は君を国に帰らせるために数多くの偽りやはかりごとを行いました。私でさえ自分が嫌になるのですから、君はなおさらでしょう。」そして再拝して去ろうとした。文公はこれを止めて言った。「諺に『社を築く者は、裾をからげて働いて建て、礼服を着てこれを祭る』という。今、あなたは私と一緒に国を取りながら、一緒に治めようとしない。一緒に社を建てながら、一緒に祭ろうとしない。それでよいはずがあろうか。」そして左の添え馬を解いて、黄河に誓いを立てた。鄭県の人の卜子が妻に袴を作らせた。妻が「今度の袴はどのようにしますか」と尋ねると、夫は「私の古い袴にそっくりにしてくれ」と言った。妻はそこで新しい袴を傷つけて、古い袴のようにしてしまった。鄭県の人で車の軛を拾った者がいたが、それが何という物か知らなかった。人に「これは何という物か」と尋ねると、「それは車の軛です」と答えた。しばらくしてまた一つ拾ったので、人に「これは何という物か」と尋ねると、「それは車の軛です」と答えた。尋ねた者はひどく怒って言った。「さっきも車の軛と言い、今も車の軛と言う。どうしてそんなにたくさんあるのか。お前は私をだましているのだな。」そしてその人と喧嘩になった。衛の人で、鳥を射る狩りの手伝いをする者がいた。鳥が来ると、先に自分の頭巾を振って合図したので、鳥は驚いて逃げ、射ることができなかった。
解説
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『韓非子』外儲說左上第三十二曰く、「寧ろ度を信ずとも、自ら信ずること無きなり。」四。王登中牟の令と為り、上りて襄主に言ひて曰く、「中牟に士の中章・胥己と曰ふ者有り、其の身甚だ修まり、其の学甚だ博し、君何ぞ之を挙げざる。」主曰く、「子之に見えよ、我将に中大夫と為さんとす。」相室諫めて曰く、「中大夫は、晋の重列なり、今功無くして受くるは、晋臣の意に非ず。君其れ之を耳にして未だ之を目にせざるか。」襄主曰く、「我登を取る、既に之を耳にして之を目にせり。登の取る所、又之を耳にして之を目にせば、是れ人を耳目すること絶えて已む無し。」王登一日にして二中大夫を見えしめ、之に田宅を予ふ。中牟の人其の田耘を棄て、宅圃を売りて文学に随ふ者、邑の半ばなり。叔向坐に御す、平公事を請ふ、公腓痛み足痺れ転筋して敢て坐を壊らず。晋国之を聞き、皆曰く、「叔向は賢者なり、平公之を礼し、転筋して敢て坐を壊らず。」晋国の仕を辞し託して叔向を慕ふ者、国の錘なり。鄭県の人に屈公なる者有り、敵を聞きて、恐れ、因りて死す。恐れ已みて、因りて生く。趙の主父李疵をして中山の攻むべきや不やを視しむ。還りて報じて曰く、「中山伐つべきなり。君亟やかに伐たずんば、将に斉・燕に後れんとす。」主父曰く、「何の故に攻むべき。」李疵対へて曰く、「其の君巌穴の士を見ることを好み、蓋を傾け車を与にして以て窮閭隘巷の士に見ゆる所の者十を以て数へ、礼を伉して布衣の士に下る者百を以て数ふ。」君曰く、「子の言を以て論ずれば、是れ賢君なり、安んぞ攻むべけんや。」疵曰く、「然らず。
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説苑・復恩晋の文公亡ぐるの時、陶叔狐従ふ、文公国に反り、三たび賞を行ひて陶叔狐に及ばず、陶叔狐咎犯に見えて曰く、「吾君に従ひて亡ぐること十有三年、顔色黎黒、手足胼胝せり、今君国に反りて三たび賞を行ふも我に及ばず、意ふに君我を忘れたるか、我大故有るか、子試みに我が為に之を君に言へ」と。咎犯之を文公に言ふ、文公曰く、「嘻、我豈に是の子を忘れんや。夫れ高明至賢、徳行全誠、我を道を以て耽しませ、我を仁を以て説ばしめ、我が行ひを暴かに浣ひ、我が名を昭明にし、我をして成人為らしめし者は、吾以て上賞と為さん。我を礼を以て防ぎ、我を誼を以て諫め、我を蕃援して我をして非を為すを得ざらしめ、数々我を賢人の門に引きて請ひし者は、吾以て次賞と為さん。夫れ勇壮強禦、難前に在れば則ち前に居り、難後に在れば則ち後に居り、我を患難の中より免れしめし者は、吾又以て之が次と為さん。且つ子独り聞かざるか、人を死せしむる者は、人の身を存するに如かず、人を亡ぼす者は、人の国を存するに如かず、三行の賞の後にして、労苦の士之に次ぐ、夫れ労苦の士は、是れ子固に首為り、豈に敢へて子を忘れんや」と。周の内史叔輿之を聞きて曰く、「文公其れ霸たらんか。昔聖王は徳を先にして力を後にす、文公其れ之に当れり、詩に云く、『率履越えず』とは、此を之れ謂ふなり」と。晋の文公国に入るに、河に至り、籩豆茵席を棄てしめ、顔色黎黒、手足胼胝せる者を後に在らしむ、咎犯之を聞き、中夜にして哭す、文公曰く、「吾亡ぐること十有九年なり、今将に国に反らんとするに、夫子喜ばずして哭するは、何ぞや、其れ吾が国に反るを欲せざるか」と。対へて曰く、「籩豆茵席は、官する所以なるに、之を棄て、顔色黎黒、手足胼胝せるは、労苦を執る所以なるに、皆之を後にす、臣聞く、国君士を蔽へば、忠臣を取る所無く、大夫遊を蔽へば、忠友を取る所無し、と。今国に至るに、臣蔽ふ所の中に在り、其の哀しみに勝へず、故に哭するなり」と。文公曰く、「禍福利害咎氏と之を同じくせざれば、白水有るが如し」と、之を祝して、璧を刀にて沈めて盟す。介子推曰く、「献公の子九人、唯だ君のみ在るのみ、天未だ晋を絶たず、必ず主有らん、晋祀を主る者君に非ずして何ぞや、唯だ二三子の者以て己が力と為すは、亦た誣ならずや」と。文公即位するも、賞推に及ばず、推が母曰く、「盍ぞ亦た之を求めざる」と。推曰く、「尤めて之に效はば、罪又甚し、且つ怨言を出だせば、其の食を食らはず」と。其の母曰く、「亦た知らしめよ」と。推曰く、「言は身の文なり、身将に隠れんとす、安んぞ文を用ゐん」と。其の母曰く、「能く是の如くんば、若と俱に隠れん」と。死に至るまで復た推に見えず。従者之を憐みて、乃ち書を宮門に懸けて曰く、「龍有り矯矯たり、頃其の所を失ふ、五蛇之に従ひ、天下を周遍す、龍飢ゑて食無し、一蛇股を割く、龍其の淵に反り、其の壤土に安んず、四蛇穴に入り、皆処る所有り、一蛇穴無く、中野に号す」と。文公出でて書を見て曰く、「嗟此れ介子推なり、吾方に王室を憂ひて其の功を図らず」と。人をして之を召さしむるに則ち亡ぐ、遂に其の在る所を求む、其の綿上山中に入るを聞く。是に於て文公綿上山中を表して之を封じ、以て介推の田と為し、号して介山と曰ふ。
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『韓非子』外儲說左上第三十二一。明主の道は、有若の密子に応ずるが如し。人主の言を聴くや、其の弁を美とし、其の行を観るや、其の遠きを賢とす。故に群臣士民の言を道ふ者は迂弘にして、其の身を行ふや世を離る。其の説は田鳩の荊王に対ふるに在り。故に墨子木鳶を為り、謳癸武宮を築く。夫れ薬酒忠言は、明君聖主の以て独り知る所なり。二。人主の言を聴くや、功用を以て的と為さざれば、則ち説く者に棘刺・白馬の説多し。儀的を以て関と為さざれば、則ち射る者皆羿の如し。人主の説に於けるや、皆燕王の道を学ぶが如きなり。而して長説する者は、皆鄭人の年を争ふが如きなり。是を以て言に繊察微難にして務に非ざる有り、故に季・恵・宋・墨は皆画策なり。論に迂深閎大にして、用に非ざる有り、故に魏・長・瞻・陳・荘は皆鬼魅なり。行に払難堅確にして、功に非ざる有り、故に務・卞・鮑・介・田仲は皆堅瓠なり。且つ虞慶匠を詘して屋壊れ、范且工を窮して弓折る。是の故に其の誠を求むる者は、帰餉に非ざれば可ならず。三。夫の相為にするを挟めば則ち責望し、自ら為にすれば則ち事行はる。故に父子或いは怨譙し、庸を取りて作る者は美羹を進む。説は文公の先づ宣言すると勾践の如皇を称するとに在り。故に桓公蔡の怒りを蔵して楚を攻め、呉起瘳ゆるを懐ひて実に傷を吮ふ。且つ先王の賦頌、鍾鼎の銘は、皆播吾の跡、華山の博なり。然れども先王の期する所の者は利なり、用ふる所の者は力なり。築社の諺は、自ら辞説するなり。請ふ学者を許して宛曼を先王に行ふは、或いは今に宜しからざるか。是の如くんば、更むること能はざるなり。鄭県の人車厄を得るなり、衛人の弋を佐くるなり、卜子の妻の弊袴を写すなり、而して其の少者の長者に侍して飲むなり。
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『韓非子』外儲說左上第三十二孔子曰く、「人君為る者は猶ほ盂のごときなり、民は猶ほ水のごときなり。盂方なれば水方に、盂圜なれば水圜なり。」鄒君長纓を服することを好み、左右皆長纓を服す、纓甚だ貴し。鄒君之を患ひ、左右に問ふ、左右曰く、「君服することを好めば、百姓亦多く服す、是を以て貴し。」君因りて先づ自ら其の纓を断ちて出づ、国中皆長纓を服せず。君下令して百姓の為に服度を為して以て之を禁ずること能はず、纓を断ちて出でて以て民に先んじて示す、是れ先づ戮して以て民に蒞むなり。叔向猟を賦す、功多き者は多きを受け、功少き者は少きを受く。韓の昭侯申子に謂ひて曰く、「法度甚だ行ひ易からざるなり。」申子曰く、「法は、功を見て賞を与へ、能に因りて官を受く。今君法度を設けて左右の請を聴く、此れ行ひ難き所以なり。」昭侯曰く、「吾今より以来法を行ふを知れり、寡人奚ぞ聴かん。」一日、申子其の従兄を官に仕へしめんことを請ふ。昭侯曰く、「子に学ぶ所に非ざるなり。子の謁を聴きて、子の道を敗らんか、亡た子の謁を用ひんか。」申子舎を辟けて罪を請ふ。六。晋の文公原を攻む、十日の糧を裹み、遂に大夫と十日を期す。原に至りて十日にして原下らず、金を撃ちて退き、兵を罷めて去る。士に原中より出づる者有り、曰く、「原三日にして即ち下らん。」群臣左右諫めて曰く、「夫れ原の食竭き力尽く、君姑く之を待て。」公曰く、「吾士と十日を期す、去らずんば、是れ吾が信を亡ふなり。原を得て信を失ふは、吾為さざるなり。」遂に兵を罷めて去る。原人聞きて曰く、「君の彼の如く其れ信なる有り、帰する無かるべけんや。」乃ち公に降る。衛人聞きて曰く、「君の彼の如く其れ信なる有り、従ふ無かるべけんや。」乃ち公に降る。孔子聞きて之を記して曰く、「原を攻めて衛を得たる者は、信なり。」文公箕鄭に問ひて曰く、「餓を救ふこと奈何。」対へて曰く、「信なり。」公曰く、「安んぞ信ならん。」曰く、「名に信に、事に信に、義に信なり。
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『韓非子』內儲說下六微第三十一左右に私かに善からざる者有り、乃ち之が為に王に請ひて曰く、「公子甚だ貧しく、馬甚だ痩す、王何ぞ之に馬食を益さざる。」王許さず。左右因りて微かに夜芻廐を焼かしむ。王以て賤公子と為すや、乃ち之を誅す。魏に老儒有りて済陽君に善からず。客に老儒と私怨有る者有り、因りて老儒を攻めて之を殺し、以て済陽君に徳として曰く、「臣其の君に善からざるが為なり、故に君の為に之を殺せり。」済陽君因りて察せずして之を賞す。一に曰く、済陽君に少庶子有り、知られずして君に愛を入れんと欲する者有り。斉老儒をして薬を馬梨の山に掘らしむ、済陽の少庶子以て功と為さんと欲し、入りて君に見えて曰く、「斉老儒をして薬を馬梨の山に掘らしむ、名は薬を掘るなるも、実は君の国を間するなり。君之を殺さずんば、是れ将に済陽君を以て罪を斉に抵さんとす。臣請ふ之を刺さん。」君曰く、「可なり。」是に於て明日之を城陰に得て之を刺す、済陽君還りて益ます之を親しむ。四。陳需は、魏王の臣なり、荊王に善し、而して荊をして魏を攻めしむ。荊魏を攻む、陳需因りて魏王の為に行きて之を解かんことを請ひ、因りて荊の勢を以て魏に相たり。韓の昭侯の時、黍種嘗て貴きこと甚し。昭侯人をして廩を覆さしむ、吏果して黍種を竊みて之を糶ること甚だ多し。昭奚恤の荊に用ひらるるや、倉廥窌を焼く者有りて其の人を知らず。昭奚恤吏をして茅を販ぐ者を執へて之を問はしむ、果して焼けり。昭僖侯の時、宰人食を上るに羹中に生肝有り、昭侯宰人の次を召して之を誚めて曰く、「若何為れぞ生肝を寡人の羹中に置く。」宰人頓首して死罪に服して曰く、「竊かに尚宰人を去らんと欲するなり。」一に曰く、僖侯浴す、湯中に礫有り。僖侯曰く、「尚浴免ぜらるれば、則ち当に代るべき者有るか。」左右対へて曰く、「有り。」僖侯曰く、「召して来れ。」之を譙めて曰く、「何為れぞ礫を湯中に置く。」対へて曰く、「尚浴免ぜらるれば、則ち臣之に代るを得ん、是を以て礫を湯中に置く。」
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