回天詩史 / 神皇の道と中葉以降・神皇の道と仏教伝来以後の歴史
而詳。然載在古典者。昭然不可誣也。神武天皇。敬神奮武。恢弘天業。奠都秩祀。開萬世之基。崇神天皇。加之以厚生利用之政。黎庶樂業。蠻夷率服。應神天皇。取於人爲善。始聞儒敎。仁德天皇。謙讓慈仁。四海悅服。當是時。大義明。人心正。德澤中洽。威武外振。豈不盛且美歟。及欽明天皇之時。佛敎西來。使我人民。奉其胡敎。拜其胡鬼。幾何其不率爲夷狄也。是中物二氏之所以憤激諫爭。天皇明斷。擿其僧徒。燒其伽藍。毀其佛像。而奸臣蘇我佞其敎。一意尊崇。遂以瀰滿。遺永世之禍。而子孫罪惡貫盈。遂構天地以來未曾有之禍。佛敎之害。可勝言哉。天智天皇。慨然懷廓淸之志。中臣鎌子。輔翼贊成。攘除姦兇。大振皇綱。爾來明良相踵。世濟其美。大化大寶之治。冠絶古今。當是之際。在上之人。能明其本末。原神皇之道。翼之以周孔之敎。明國體叙彝倫。以定其典章制度。則佛敎雖狡。自委靡潰敗。無所施其能矣。而當時徒眩西土之文華。捨此取彼摸倣是務。譬諸山林之人羨市井之繁盛。衣服居室凡百器用。悉倣商賈風俗。以爲得計。特不知子孫捨本趨末。利口捷給。泯然失淳厚質樸之故態。豈不大可憾乎。且夫物之美者易消。而惡者易長。天地之常理。正直者憚而疎之。邪曲者狎而親之。亦人之常情也。然則明皇道資儒敎。以臨天下。猶恐惡者之長而邪曲之不禁也。而當時未聞有其舉。其於佛敎。則旣營寺觀於畿內。又建國分寺於各國。擧兆民之衆。納之於釋氏之軌物。宜乎其浸淫人心。牢固不拔。至今日而不悟也。夫神皇之道聖賢之敎。
新字:而詳。然載在古典者。昭然不可誣也。神武天皇。敬神奮武。恢弘天業。奠都秩祀。開万世之基。崇神天皇。加之以厚生利用之政。黎庶楽業。蠻夷率服。応神天皇。取於人為善。始聞儒教。仁徳天皇。謙譲慈仁。四海悦服。当是時。大義明。人心正。徳沢中洽。威武外振。豈不盛且美歟。及欽明天皇之時。仏教西来。使我人民。奉其胡教。拝其胡鬼。幾何其不率為夷狄也。是中物二氏之所以憤激諫争。天皇明断。擿其僧徒。焼其伽藍。毀其仏像。而奸臣蘇我佞其教。一意尊崇。遂以瀰満。遺永世之禍。而子孫罪悪貫盈。遂構天地以来未曽有之禍。仏教之害。可勝言哉。天智天皇。慨然懐廓清之志。中臣鎌子。輔翼賛成。攘除姦兇。大振皇綱。爾来明良相踵。世済其美。大化大宝之治。冠絶古今。当是之際。在上之人。能明其本末。原神皇之道。翼之以周孔之教。明国体叙彝倫。以定其典章制度。則仏教雖狡。自委靡潰敗。無所施其能矣。而当時徒眩西土之文華。捨此取彼摸倣是務。譬諸山林之人羨市井之繁盛。衣服居室凡百器用。悉倣商賈風俗。以為得計。特不知子孫捨本趨末。利口捷給。泯然失淳厚質樸之故態。豈不大可憾乎。且夫物之美者易消。而悪者易長。天地之常理。正直者憚而疎之。邪曲者狎而親之。亦人之常情也。然則明皇道資儒教。以臨天下。猶恐悪者之長而邪曲之不禁也。而当時未聞有其舉。其於仏教。則既営寺観於畿内。又建国分寺於各国。挙兆民之衆。納之於釈氏之軌物。宜乎其浸淫人心。牢固不抜。至今日而不悟也。夫神皇之道聖賢之教。
書き下し
詳らかにすべからず。然れども古典に載せ在るものは、昭然として誣ふべからざるなり。神武天皇は、神を敬ひ武を奮ひ、天業を恢弘し、都を奠め秩祀を行ひ、万世の基を開く。崇神天皇は、之に加ふるに厚生利用の政を以てし、黎庶は業を楽しみ、蛮夷は率ひ服す。応神天皇は、人より取りて善を為し、始めて儒教を聞く。仁徳天皇は、謙譲慈仁にして、四海悦服す。是の時に当たり、大義明らかに人心正しく、徳沢中に洽く、威武外に振ふ。豈に盛んにして且つ美ならずや。欽明天皇の時に及び、仏教西より来たり、我が人民をして其の胡教を奉じ、其の胡鬼を拝せしむ。幾何ぞ率ゐて夷狄と為らざらんや。是れ中臣・物部の二氏の憤激諫争する所以にして、天皇の明断あり、其の僧徒を擿き、其の伽藍を焼き、其の仏像を毀つ。而るに奸臣蘇我は其の教に佞し、一意に尊崇し、遂に以て瀰満す。永世の禍を遺し、子孫は罪悪貫盈して、遂に天地以来未曾有の禍を構ふ。仏教の害、勝げて言ふべけんや。天智天皇は慨然として廓清の志を懐き、中臣鎌子は輔翼して賛成し、姦兇を攘除して大いに皇綱を振るふ。爾来明良相踵ぎ、世々其の美を済す。大化・大宝の治は、古今に冠絶す。当此の際、上に在る人、能く其の本末を明らかにし、神皇の道に原づき、之を翼くるに周孔の教を以てし、国体を明らかにし彝倫を叙し、以て其の典章制度を定めば、則ち仏教は狡なりと雖も、自ら委靡潰敗して、其の能を施す所無からん。而るに当時は徒らに西土の文華に眩み、此を捨てて彼を取り、模倣を是れ務む。譬へば山林の人、市井の繁盛を羨み、衣服居室凡百の器用、悉く商賈の風俗に倣ひて、以て計を得たりと為すが如し。特に子孫の本を捨て末に趨り、利口捷給にして、泯然として淳厚質朴の故態を失ふを知らず。豈に大いに憾むべからずや。且つ夫れ物の美なる者は消え易く、悪なる者は長じ易きは、天地の常理なり。正直なる者は憚りて之を疎み、邪曲なる者は狎れて之に親しむも、亦た人の常情なり。然らば則ち皇道を明らかにし儒教を資け、以て天下に臨むも、猶ほ恐る、悪なる者の長じて邪曲の禁ぜられざることを。而るに当時、未だ其の挙有るを聞かず。其の仏教に於いては、則ち既に寺観を畿内に営み、又国分寺を各国に建て、兆民の衆を挙げて、之を釈氏の軌物に納む。宜なるかな其の人心に浸淫し、牢固として抜けず、今日に至るも悟らざるや。夫れ神皇の道・聖賢の教え、
現代語訳
詳しくは知ることができません。けれども古典に載せられているものは、明らかで偽ることができません。神武天皇は、神を敬い武を奮い、天業を広め、都を定め祭祀を行い、万世の基礎を開きました。崇神天皇は、それに加えて民を豊かにし、物を利用する政治を行い、民は仕事を楽しみ、蛮夷は従い服しました。応神天皇は、人から善を取り入れて善を行い、初めて儒教を聞きました。仁徳天皇は、謙譲で慈しみ深く、四海は喜んで服しました。この当時は、大義が明らかで人心は正しく、徳の恩沢は国内に行きわたり、武威は外に振るいました。なんと盛んで美しいことではありませんか。欽明天皇の時になって、仏教が西から来て、わが人民にその胡(異国)の教えを奉じさせ、その異国の鬼を拝ませました。ほとんど、そのまま夷狄になってしまうところでした。これは中臣氏・物部氏の二氏が憤激して諫め争った理由で、天皇は明断して、その僧徒を退け、その伽藍を焼き、その仏像を壊しました。しかし奸臣の蘇我氏はその教えにへつらい、一途に尊崇して、ついに国中に満ちました。永い世の禍を残し、子孫は罪悪が満ちて、天地開闢以来かつてない禍を作りました。仏教の害は、言い尽くせるでしょうか。天智天皇は憤然として、世を清める志を懐き、中臣鎌子が補佐して賛成し、悪者を払い、皇室の綱紀を大いに振るいました。それ以来、名君と賢臣が相次ぎ、代々その美を成し遂げました。大化・大宝の治は、古今に抜きんでています。この時、上に立つ人が、その本と末を明らかにし、神皇の道に基づいて、周公・孔子の教えで補い、国体を明らかにし人の常道を整え、その典章制度を定めたなら、仏教がずるくとも、自ずから衰え崩れて、その能力を発揮するところがなかったでしょう。ところが当時は、むなしく西の文化の華やかさに目がくらみ、これを捨ててあれを取り、模倣に努めました。たとえば、山林に住む人が市井の繁栄をうらやみ、衣服や住居、あらゆる道具類を、すべて商人の風俗にならって、得策だと考えるようなものです。ただ、子孫が根本を捨てて末端に走り、口が達者で機転がきくだけで、素朴で厚い昔の姿を失ってしまうことを知らないのです。大いに残念ではありませんか。そもそも物事のよいものは消えやすく、悪いものは育ちやすいのは、天地の常の理です。正直な者は憚って疎まれ、邪で曲がった者は馴れ親しまれるのも、人の常の情です。そうであれば、皇道を明らかにし儒教を助けて、天下に臨んでも、なお恐れるのは、悪い者が育ち、邪曲が禁じられないことです。ところが当時、そうした施策があったとは聞きません。仏教に対しては、すでに畿内に寺を営み、また各国に国分寺を建て、万民の大衆を、釈氏の規範の中に納めました。それならば、その教えが人心にしみ込み、固く抜けず、今日に至っても悟らないのも当然です。そもそも神皇の道、聖賢の教えは、
解説
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