回天詩史 / 神皇の道と中葉以降・中葉以降の衰えと異端排斥の功
尤重祭祀。配之於政敎。而釋氏旣奪祭祀之權。用之於朝野。施之於政敎。神皇之道僅委諸祠官。周孔之敎降而爲博士之業。皇風之不振。大道之不明。職是之由。中葉以降。皇綱解紐。權歸藤氏。藤氏衰而平氏盛。平氏滅而源氏興。而兵馬之權。遂歸武人。後醍醐天皇憤陪臣跋扈。奮英偉之畧。藉忠義之力。天下翕然。再仰望太平之隆。而中興不遂。併其政柄兵權。爲覇府之有。其間政體萬變。運有汚隆。而皇室之所以衰。未嘗不由大義不明。人心不正。異端邪說。蠱惑風俗之故也。應仁以來海內麻亂。豪傑並爭。民之苦於塗炭亦甚矣。織田右府雄斷果決。深惡佛氏之害。燒伽藍。戮僧徒。天台淨土膽奪氣索。我東照宮聰明英武。救民於水火。以開太平之基。洞察西洋邪敎之害。嚴其禁令。大猷公脩其遺緒。一切拒絶狡黠夷類。二公之於邪敎也。芟夷驅除。夷戮殄滅。永絶其根本。不令遺種於神州。其功烈豈不大哉。我義公亦惡異端之傷風俗。大廢淫祠。逐奸僧。其毀佛寺。以千數矣。今納言公脩其緒。又逐僧毀寺者若干。蓋自欽明帝燒伽藍毀佛像。千百餘年。而始有織田氏。尋有東照大猷二公。又尋有義公。又百數十年。而有納言公。東照大猷二公之功烈。非所敢贊也。而納言公與義公。非有覇府之權。將軍之威。僅守東藩彈丸之地。欲除千餘年之宿弊於一國一郡之間。其勢實難矣。織田氏雖有其權威。然不察禍毒之所由來。欲徒以兵力鋤之。抑亦難矣。至於欽明帝。則其禍猶小。其毒猶淺。苟使當時芟夷驅除。若慶長寬永之於洋敎。則蘇我雖驕。僧徒雖狡。將
新字:尤重祭祀。配之於政教。而釈氏既奪祭祀之権。用之於朝野。施之於政教。神皇之道僅委諸祠官。周孔之教降而為博士之業。皇風之不振。大道之不明。職是之由。中葉以降。皇綱解紐。権帰藤氏。藤氏衰而平氏盛。平氏滅而源氏興。而兵馬之権。遂帰武人。後醍醐天皇憤陪臣跋扈。奮英偉之略。藉忠義之力。天下翕然。再仰望太平之隆。而中興不遂。併其政柄兵権。為覇府之有。其間政体万変。運有汚隆。而皇室之所以衰。未嘗不由大義不明。人心不正。異端邪説。蠱惑風俗之故也。応仁以来海内麻乱。豪傑並争。民之苦於塗炭亦甚矣。織田右府雄断果決。深悪仏氏之害。焼伽藍。戮僧徒。天台浄土胆奪気索。我東照宮聰明英武。救民於水火。以開太平之基。洞察西洋邪教之害。厳其禁令。大猷公脩其遺緒。一切拒絶狡黠夷類。二公之於邪教也。芟夷駆除。夷戮殄滅。永絶其根本。不令遺種於神州。其功烈豈不大哉。我義公亦悪異端之傷風俗。大廃淫祠。逐奸僧。其毀仏寺。以千数矣。今納言公脩其緒。又逐僧毀寺者若干。蓋自欽明帝焼伽藍毀仏像。千百余年。而始有織田氏。尋有東照大猷二公。又尋有義公。又百数十年。而有納言公。東照大猷二公之功烈。非所敢賛也。而納言公与義公。非有覇府之権。将軍之威。僅守東藩弾丸之地。欲除千余年之宿弊於一国一郡之間。其勢実難矣。織田氏雖有其権威。然不察禍毒之所由来。欲徒以兵力鋤之。抑亦難矣。至於欽明帝。則其禍猶小。其毒猶浅。苟使当時芟夷駆除。若慶長寛永之於洋教。則蘇我雖驕。僧徒雖狡。将
書き下し
尤も祭祀を重んじ、之を政教に配す。而るに釈氏は既に祭祀の権を奪ひ、之を朝野に用ゐ、之を政教に施す。神皇の道は僅かに祠官に委ね、周孔の教は降りて博士の業と為る。皇風の振はず、大道の明らかならざるは、職として是れに由る。中葉以降、皇綱解紐し、権は藤氏に帰す。藤氏衰へて平氏盛んに、平氏滅びて源氏興り、而して兵馬の権は、遂に武人に帰す。後醍醐天皇は陪臣の跋扈を憤り、英偉の略を奮ひ、忠義の力を藉り、天下翕然として、再び太平の隆を仰望す。而るに中興は遂げず、併せて其の政柄・兵権は覇府の有と為る。其の間、政体は万変し、運に汚隆有り。而して皇室の衰へし所以は、未だ嘗て大義明らかならず人心正しからず、異端邪説の風俗を蠱惑するの故に由らずんばあらず。応仁以来、海内麻のごとく乱れ、豪傑並び争ふ。民の塗炭に苦しむこと亦た甚だし。織田右府は雄断果決にして、深く仏氏の害を悪み、伽藍を焼き僧徒を戮す。天台・浄土は胆奪はれ気索く。我が東照宮は聡明英武にして、民を水火より救ひ、以て太平の基を開き、洞に西洋邪教の害を察して其の禁令を厳にす。大猷公は其の遺緒を脩め、一切狡黠の夷類を拒絶す。二公の邪教に於けるや、芟夷駆除し、夷戮殄滅して、永く其の根本を絶ち、種を神州に遺さしめず。其の功烈、豈に大ならずや。我が義公も亦た異端の風俗を傷ふを悪み、大いに淫祠を廃し、奸僧を逐ふ。其の仏寺を毀つこと、千を以て数ふ。今納言公、其の緒を脩め、又僧を逐ひ寺を毀つこと若干。蓋し欽明帝の伽藍を焼き仏像を毀ちしより千百余年、而して始めて織田氏有り。尋いで東照・大猷二公有り。又尋いで義公有り。又百数十年にして納言公有り。東照・大猷二公の功烈は、敢へて賛する所に非ざるなり。而して納言公と義公とは、覇府の権・将軍の威有るに非ず、僅かに東藩弾丸の地を守り、千余年の宿弊を一国一郡の間に除かんと欲す。其の勢ひ実に難し。織田氏は其の権威有りと雖も、禍毒の由りて来たる所を察せず、徒らに兵力を以て之を鋤かんと欲す。抑も亦た難し。欽明帝に至りては、則ち其の禍は猶ほ小に、其の毒は猶ほ浅し。苟も当時をして芟夷駆除すること、慶長・寛永の洋教に於けるが若くせしめば、則ち蘇我驕ると雖も、僧徒狡なりと雖も、将に
現代語訳
最も祭祀を重んじ、それを政治と教化に結びつけます。ところが釈氏(仏教)はすでに祭祀の権を奪い、それを朝廷にも民間にも用い、政治と教化に施しました。神皇の道はわずかに神職にゆだねられ、周公・孔子の教えは博士の学業に降りてしまいました。皇室の風が振るわず、大道が明らかでないのは、もっぱらこれによります。中葉以降、皇室の綱紀はゆるみ、権力は藤原氏に帰しました。藤原氏が衰えて平氏が盛んになり、平氏が滅んで源氏が興り、兵馬の権は、ついに武人に帰しました。後醍醐天皇は陪臣の跋扈を憤り、優れた策略を奮い、忠義の力を借りて、天下は一つにまとまり、再び太平の隆盛を仰ぎ望みました。しかし中興は遂げられず、政治の実権と兵権も覇府(幕府)のものになりました。その間、政治体制は万変し、運には盛衰がありました。そして皇室が衰えた理由は、大義が明らかでなく、人心が正しくなく、異端邪説が風俗を惑わしたからにほかなりません。応仁以来、国内は麻のように乱れ、豪傑が並び争いました。民が塗炭の苦しみに耐えることも甚だしいものでした。織田右府(信長)は雄断果決で、深く仏教の害を憎み、伽藍を焼き僧徒を殺しました。天台・浄土の宗は肝を奪われ気力を失いました。わが東照宮(家康)は聡明で英武であり、民を水火の苦しみから救い、太平の基を開き、さらに洞察して西洋の邪教の害を察し、その禁令を厳しくしました。大猷公(家光)はその遺業を修め、すべてずる賢い夷類を拒絶しました。二公の邪教に対するやり方は、刈り除き駆除し、殺戮して滅ぼし、永くその根本を絶ち、種を日本に残させないというものでした。その功績は大きくありませんか。わが義公(光圀)もまた異端が風俗を損なうのを憎み、淫祠を大いに廃し、悪僧を追い払いました。その取り壊した仏寺は、千をもって数えます。今の納言公(斉昭)は、その事業を修め、また僧を追い寺を壊すこと若干です。おそらく、欽明帝が伽藍を焼き仏像を壊してから千百余年、そしてようやく織田氏があり、次に東照・大猷の二公があり、また次に義公があり、さらに百数十年後に納言公がありました。東照・大猷の二公の功績は、あえて賛えるところではありません。そして納言公と義公は、覇府の権や将軍の威力を持たず、わずかに東藩という小さな領地を守り、千余年の宿弊を一国一郡の間で除こうとしました。その情勢は実に困難でした。織田氏は権威があったものの、禍毒が由来するところを察せず、ただ兵力で刈り取ろうとしました。これもまた難しいことでした。欽明帝の時代なら、その禍はまだ小さく、その毒はまだ浅かった。もし当時、慶長・寛永の洋教に対するように刈り除き駆除していたなら、蘇我氏が驕っても、僧徒がずる賢くとも、まもなく
解説
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『弘道館記述義』・皇化陵夷・皇化が衰える理由と盛んになる理由皇化陵夷。臣彪謹んで案ずるに、大一統の業は橿原に成り、磯城島に弘まり、軽島に隆んなり。夫の典章制度の若きは、豊崎に大いに備はり、而して葛城実に之を賛く。上世は淳朴にして、君臣名を称し、而も亦尊号を奉る。神日本磐余彦と曰ひ、御肇国と曰ひ、胎中と曰ひ、天万豊日と曰ひ、天命開別と曰ふ。或いは其の徳を頌し、或いは其の霊を述ぶ。蓋し皆当時の賛美の称なり。中世文物漸く盛んにして、乃ち謚号を追奉す。神武と曰ひ、崇神と曰ひ、応神と曰ひ、孝徳と曰ひ、天智と曰ふ。皆切に其の実に中る。其の他、纏向の垂仁たる、高津の仁徳たる、亦敢へて一字を苟もせず。今恭しく当時の尊号に本づき、又其の謚号に因りて、以て列聖の徳業を想像せば、則ち稽古の義思ひ半ばに過ぎん。是に由りて之を言へば、武を尚び神を敬ひ、仁以て民を愛し、智以て物を明らかにする者は、蓋し列聖経綸の大端なり。之に遵へば則ち天業恢弘し、之に違へば則ち皇化陵夷す。汙隆の機、影響よりも捷し。古は神を祭るや、天皇親らし、皇女侍し、明神の裔主たり。其の不服を征するや、亦親臨し、或いは皇子を遣はし、或いは重臣に命ず。其の民を治むるや、税斂を薄くし徭役を寛くし、上を損して下を益す。其の庶務を理むるや、名分を明らかにし国体を慎み、公道を布き実効を励ます。此れ天業の恢弘する所以なり。中葉以降、上下仏に佞して、敬神の道岐れ、王公大人手に兵を知らずして、尚武の俗移り、奢侈日に長じ、聚斂掊克して、愛民の仁衰へ、淫風相競ひ、宮壺粛ならず、名実錯乱し、官其の守を失ひ、格例に拘はり辺幅を脩めて、明物の智蔽はる。皇化陵夷職として是に由る。悲しきかな。然りと雖も旧章故実未だ全くは頽敗せず、流風遺俗未だ尽くは淪喪せず。故に英明の君一たび出づれば能く其の緒を脩め、則ち法度綱紀翕然として復た挙がる。光仁、桓武、宇多、後三条、後醍醐の諸帝の若き、或いは乾綱を総攬し、或いは兇賊を殄滅す。其の功或いは成り或いは終らざるも、其の成る者は必ず能く神皇の道に遵ひ、其の終らざる者は必ず之に反する者なり。豈に惟だ中興の君のみ然らんや。藤原なり、平なり、源なり、鎌倉なり、室町なり、人臣の大権を把持する、其の故一に非ざれども、其の祖先の盛んにして且つ興る所以を原ぬれば、未だ嘗て仁厚勇武倹素忠誠の道を仮らずんばあらず。其の子孫の廃衰する所以を観れば、亦未だ嘗て其の道に反せざる者有らざるなり。蓋し大臣と曰ひ、関白と曰ひ、将軍と曰ひ、名位殊なると雖も、其の実は皆天工に代はりて皇化を弘むる所以なり。故に神聖の謨訓を奉ずれば則ち栄え、一己の私欲に従へば則ち辱めらる。戒めざるべけんや。
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『弘道館記述義』・中世以降・仏教が広まった事情と日本への伝来五経より数十百倍多し。其の盛んなること推して知るべし。是の際に当たり九州糜乱し、政教廃欠す。其の儒と称する者は皆虚無を以て宗と為し、雕琢を以て文と為す。其の宗を挙げて寂滅の教に合せ、其の文を騁せて誇誕の説を潤飾す。故に朱熹謂へらく、晋宋の間、釈氏の文字も亦只だ老荘の説を以て鋪張すと。蘇軾謂へらく、仏経の訳は必ず儒の能く言ふ者に託し、然る後に遠く伝はると。然らば則ち仏法の世に大いに行はるる所以の者は、文人学士力有りと。其の罪誅するに勝ふべけんや。神州の仏有るは、欽明の朝より漸み、用明・推古の間に瀰漫す。蓋し神皇の道は正大簡易にして、仲哀以上は率由して愆たず、応神以降始めて儒教を資る。而して当時の群臣は未だ叙旨を推し弘めて以て斯の道を培養せず。又不幸にして国家に故多く、雄略・武烈の間、皇統幾んど危ふく、民聊かも生きず。列聖の神を敬ひ民を愛するの道、是に至りて大いに荒る。亡幾くもなく蘇我稲目大臣に任じ、実に浮図の端を啓く。然れども神皇の徳沢の人に入ること深く、物部尾輿、中臣鎌子の若きは、侃侃として正議し余力を遺さず。当時の天皇も亦能く英断し、屢々仏を水火に投ず。固より夫の東漢の君臣の無識に比するに非ざるなり。独り蘇我氏のみ禍心を包蔵すること、一朝一夕の故に非ず。且つ祖先の勲を挟み、(蘇我氏は武内宿禰の後なり。)外戚の親に拠り、大臣の権を握る。而して又上宮太子一意に仏を奉じ、之が内応を為す有り。則ち奸謀の稔熟し邪教の瀰漫するも怪しむに足らず。終に用明は仏に帰し、(至尊の仏に帰すること、帝を始めと為す。)崇峻は暴崩し、(人臣の弑逆、蘇我馬子を始めと為す。)推古は寺観を創立して大いに其の法を弘む。中宗の英明、大織冠の智略を以てすと雖も、其の禍を洞察して以て其の根本を絶つこと能はず。聖武の自ら三宝の奴と称し、孝謙の妖僧に爵するに法王を以てするに至りて、横流極まれり。所謂道先づ廃れて然る後に異端入るとは、神州と西土と、彼此一轍なり。世を惑はし民を誣ひ、永く道の大蠹と為る。亦深く慨くべからずや。抑も浮屠の害は、古人之を論ずること詳らかなり。其の怪妄虚誕は固より道ふに足らず。而るに其の熾んなること彼の若き者は其の故何ぞや。曰く、愚冥の民は信じて之を奉じ、智巧の士は利して之を使ひ、純明剛毅の人は悪みて之を排し、姦詐狡猾の賊は
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