回天詩史 / 蝦夷開拓の策・開拓の志と攘夷令の廃止
見於侯大是公之說。蓋侯沈鷙有智略。慮公之銳氣不可當。暫避其鋒耳。而公自信愈厚。有暇則按地圖審形勢。時或寓鷹獵。習身於祁寒霜雪。彪雖辱弱。嘗服先子之遺訓。加之以公之鼓舞作興。於是與二三同志之士。上下其議。慨然有投筆忘家之志者。十餘年一日也。四五年來訛言流行。以爲諳夷將護送我民漂泊夷地者。又淸國爲諳夷所侵。大取敗衂。其說益出於蘭夷。壬寅歲。幕府廢乙酉攘夷之令。用寬政文化之令。於是濱海之國。不得輒碎虜船。天下有志之士。索然而解體矣。公歎曰。天下之事不可爲也。若一國則不可不盡力。洒陳狀於幕府。謂封內民俗愚戇。而漁父釣丁尤甚。日布攘夷之令。猶恐或昵夷人於洋中。今廢其令。則貿易之姦決不可防。請暫沿乙酉之令。以全愚戇之民。幕府不能制也。公益脩武備。繕器械。新鑄大砲者若干。議者或諫以銃數過多。公哂而不應。蓋公之志在極北千里之外。不啻封內二十里之海港也。國中之人猶不能察公之遠略。則讒間之所由生。不爲亡謂矣。前月中閣老阿部勢州。詰我元老中山氏。以七事。其一則曰。公未絶蝦夷之念耶。由是觀之。公之大忠。所以來幕府之大疑。而蝦夷之事尤爲有司所忌可知也。嗚呼公屈萬里飛揚之志。幽處別邸小室之中。彪等亦不得探虎穴。而偃蹇於蝸廬之下。夫天未欲驅除醜虜乎。然則諳夷窺窬邊海者何日而攘。鄂虜蠶食北陲者曷時而遏。東照大猷二公之靈其謂之何。杞人嫠婦之憂。其可已哉。(五月廿七日廿八日錄)
新字:見於侯大是公之説。蓋侯沈鷙有智略。慮公之鋭気不可当。暫避其鋒耳。而公自信愈厚。有暇則按地図審形勢。時或寓鷹猟。習身於祁寒霜雪。彪雖辱弱。嘗服先子之遺訓。加之以公之鼓舞作興。於是与二三同志之士。上下其議。慨然有投筆忘家之志者。十余年一日也。四五年来訛言流行。以為諳夷将護送我民漂泊夷地者。又清国為諳夷所侵。大取敗衂。其説益出於蘭夷。壬寅歳。幕府廃乙酉攘夷之令。用寛政文化之令。於是浜海之国。不得輒砕虜船。天下有志之士。索然而解体矣。公嘆曰。天下之事不可為也。若一国則不可不尽力。洒陳状於幕府。謂封内民俗愚戇。而漁父釣丁尤甚。日布攘夷之令。猶恐或昵夷人於洋中。今廃其令。則貿易之姦決不可防。請暫沿乙酉之令。以全愚戇之民。幕府不能制也。公益脩武備。繕器械。新鋳大砲者若干。議者或諫以銃数過多。公哂而不応。蓋公之志在極北千里之外。不啻封内二十里之海港也。国中之人猶不能察公之遠略。則讒間之所由生。不為亡謂矣。前月中閣老阿部勢州。詰我元老中山氏。以七事。其一則曰。公未絶蝦夷之念耶。由是観之。公之大忠。所以来幕府之大疑。而蝦夷之事尤為有司所忌可知也。嗚呼公屈万里飛揚之志。幽処別邸小室之中。彪等亦不得探虎穴。而偃蹇於蝸廬之下。夫天未欲駆除醜虜乎。然則諳夷窺窬辺海者何日而攘。鄂虜蠶食北陲者曷時而遏。東照大猷二公之霊其謂之何。杞人嫠婦之憂。其可已哉。(五月廿七日廿八日録)
書き下し
侯に見ゆるに、侯大いに公の説を是とす。蓋し侯は沈鷙にして智略有り、公の鋭気の当たるべからざるを慮り、暫く其の鋒を避くるのみ。而るに公は自信愈々厚く、暇有れば則ち地図を按じて形勢を審らかにし、時に或いは鷹猟に寓して、身を祁寒霜雪に習はす。彪は懦弱なりと雖も、嘗て先子の遺訓に服し、加ふるに公の鼓舞作興を以てす。是に於いて二三の同志の士と、上下して其の議を為し、慨然として筆を投じ家を忘るるの志有る者、十余年一日なり。四五年来、訛言流行して、以為らく、諳夷将に我が民の夷地に漂泊する者を護送せんとす、と。又清国は諳夷の侵す所と為り、大いに敗衂を取る。其の説、益々蘭夷より出づ。壬寅の歳、幕府は乙酉の攘夷の令を廃し、寛政・文化の令を用ゐる。是に於いて濱海の国は輒ち虜船を砕くを得ず。天下有志の士、索然として解体す。公歎じて曰く、天下の事は為すべからざるなり。一国の若きは則ち力を尽くさざるべからず、と。洒ぎて状を幕府に陳べ、謂へらく、封内の民俗は愚戇にして、漁父・釣丁尤も甚だし。日々攘夷の令を布くも、猶ほ恐らくは或いは夷人に洋中に昵むを。今其の令を廃せば、則ち貿易の姦は決して防ぐべからず。請ふ、暫く乙酉の令に沿ひ、以て愚戇の民を全くせん、と。幕府は制する能はず。公は益々武備を脩め、器械を繕ひ、新たに大砲を鋳ること若干。議者或いは諫むるに銃数の過多なるを以てす。公は哂ひて応へず。蓋し公の志は極北千里の外に在り、啻に封内二十里の海港のみならざるなり。国中の人、猶ほ公の遠略を察する能はざるは、則ち讒間の由りて生ずる所、亡謂(いはれなし)と為さざるなり。前月中、閣老阿部勢州、我が元老中山氏を詰るに七事を以てす。其の一に曰く、公は未だ蝦夷の念を絶たざるか、と。是に由りて之を観れば、公の大忠、幕府の大疑を来す所以にして、蝦夷の事の尤も有司の忌む所たること知るべし。嗚呼、公は万里飛揚の志を屈し、別邸小室の中に幽処す。彪ら亦た虎穴を探る得ずして、蝸廬の下に偃蹇す。夫れ天は未だ醜虜を駆除せんと欲せざるか。然らば則ち諳夷の辺海を窺窬する者は何れの日にか攘はん。鄂虜の北陲を蠶食する者は曷れの時にか遏めん。東照・大猷二公の霊、其れ之を何と謂はんや。杞人嫠婦の憂ひ、其れ已むべけんや。(五月廿七日廿八日録す)
現代語訳
(老中の)侯に会うと、侯は公の説を大いに是としました。侯は沈着で猛禽のように鋭く、智略があり、公の鋭気が当たりがたいと考え、しばらくその鋒を避けただけでした。しかし公は自信をますます厚くし、暇があれば地図を調べて形勢を明らかにし、時に鷹狩りに寄せて、厳しい寒さや霜雪に身を慣らしました。私は懦弱ではありますが、かつて先子の遺訓に従い、さらに公の鼓舞と奮起の働きかけを受けました。そこで二、三の同志の士と、上下の立場を超えて議論し、慨然として筆を投げ、家を忘れる志をもつ者として、十余年を一日のごとく過ごしました。四、五年来、デマが流行して、イギリスが、わが民で異国の地に漂流した者を護送しようとしている、と言われました。また清国がイギリスに侵されて大敗を喫し、その説はますますオランダから出ています。壬寅の年(天保13年)、幕府は乙酉の攘夷の令を廃し、寛政・文化年間の令を用いることにしました。これにより、沿海の国々はみだりに異国船を砕くことができなくなりました。天下の志ある士は、がっかりして気持ちが解けてしまいました。公は嘆いて言いました。天下の事は、もはや為すことができない。一国についてだけは、力を尽くさなければならない、と。そこで公は、幕府に状を陳述して言いました。領内の民の風俗は愚直で、特に漁師や釣り人が甚だしい。毎日攘夷の令を布いても、洋上で夷人と親しむのではないかと恐れる。いまその令を廃せば、貿易の姦は決して防げない。しばらく乙酉の令に従い、愚直な民を守りたい、と。幕府は制止できませんでした。公はますます武備を整え、武器を修繕し、新しく大砲を若干鋳造しました。議論する者の中には、銃の数が多すぎると諫める者もいましたが、公は笑って応じませんでした。公の志は、極北千里の外にあり、領内二十里の海港だけではなかったのです。藩の人々が公の遠大な計略を察せられないことが、讒言が生じる原因となることは、理由のないことではありません。先月、老中の阿部勢州(正弘)は、わが元老の中山氏を七つの事で詰問しました。その一つに、公は蝦夷の念をまだ絶っていないのか、とありました。これによって見れば、公の大きな忠心が、幕府の大きな疑いを招く原因であり、蝦夷のことが役人に最も忌まれていることがわかります。ああ、公は万里に飛び立つ志を屈して、別邸の小さな部屋に幽居されています。私たちも虎穴を探ることができず、かたつむりの家のような住まいで気ままにしています。天はまだ醜い夷を駆除させようとは思っておられないのでしょうか。そうであれば、イギリスが辺海をうかがうのをいつ払い、ロシアが北の辺境を蚕食するのをいつ止められるのでしょう。東照・大猷の二公の霊は、これをどうお思いになるでしょう。杞人(空が落ちるのを憂えた人)や寡婦の憂いのようなこの心配を、やめることができるでしょうか。(五月二十七日・二十八日に記す)
解説
この章句が説くこと
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『回天詩史』・蝦夷の備え・蝦夷の備えと北門の鎖鑰後二十八万人と云ふ。其の禍毒、勝げて言ふべけんや。大猷公は東照宮の旧典を脩め、益々邪教の禁を明らかにし、又始めて外夷の禁を設く。凡そ蟹文の国は一切拒絶して、復た窺窬するを得ず。独り和蘭の教法の西洋諸夷と其の宗を異にするを以て、特に長崎に往来し有無を通ずるを許し、以て洋夷の間諜と為し、歳々其の西洋の事情を書して以て府に上らしむ。然れども虜の桀驁冥頑なる者、猶ほ或いは禁を犯して来たる者、啻に一再ならず。当時国威方に熾んにして、必ず其の船を火きて其の人を磔にし、噍類有る無し。洋夷寒胆して辺陲を窺はざること、百数十年。承平日久しく、武備稍々弛む。是に於いて鄂諳夷復た我に垂涎す。而るに我は一日の安を苟くし、或いは諭して之を還し、其の甚だしきに至りては、薪水・米菓を給して之を還す。乙酉の令微かりせば、則ち東照・大猷二公の貽謀、殆ど荒れなん。我が納言公は夙に慨然として攘夷の志有り、深く祖宗の意を体し、又洋夷の謀を洞察し、以為らく、夷の海上に出没するは、禍心測られず、其の守備は厳ならざるべからず。然れども仮使彼れ沿海の地を侵し、我が廬舎を焼き、我が人民を害すとも、勢ひ久しく内地に住まる得ず。又仮使彼れ内地に据りて要害を守らば、我が人心は憤怒激昂して勇気百倍す。苟も将帥たる者、善く其の鋒を用ゐ、機に因りて変を制し、我が長ずる所を以て彼の短なる所を衝かば、則ち我れ以て大捷を得べし。抑も又彼をして日々海上数十里の間に往来し、艦を連ね砲を鳴らし、虚声を張りて以て内地を震驚せしむとも、其の始めや濱海騒擾して奔命に堪へず、其の終はりや肅然として動かざるに過ぎず、彼をして自ら往来に疲れしむ。要するに彼の勢ひ、陸地に上りて勝敗を決せざるを得ず。則ち我れ亦た以て志を逞しくすべし。是に由りて言へば、虜の海上に出没するは、悪むべからざるに非ざれども、其の禍は甚だ大ならず。今夫れ蝦夷地方は神州北門の鎖鑰なり。而して之を一小諸侯に委ね、諸侯又之を商賈に委ね、以て互市権場の利を貪る。今鄂夷既に府を加模沙徒加に開き、又進みて宇留図不に拠る。其の先鋒既に我が恵登呂府の北に逼る。(宇留図不の地は、蝦夷人嘗て漁猟の場と為す。既にして鄂夷も亦た来たりて互ひに漁猟す。今鄂夷は廬舎を作り、専ら其の地に拠り、蝦夷人は復た往くを得ずと云ふ。寛政戊午、幕府は近藤十蔵守重をして蝦夷を按ぜしむ。北のかた恵登呂府に到るに、鄂夷既に其の十字柱を是の地に建つ。時に我が水戸の木村謙、守重に従ひて行く。守重、謙に命じて十字柱を抜き、易ふるに木標を以てせしむ。謙は執りて大いに書す、大日本恵登呂府、と。今を距つること四十七年にして、鄂夷の用心、既に此くの如し。嗚呼孰(たれ)か北虜に南を図るの志無しと謂はんや)万一彼れ稍々蠶食し、
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『回天詩史』・蝦夷開拓の策・蝦夷開拓の策と老中との問答水を訴り源を得、直ちに其の中央に踞し、大いに内地の民を移し、其の田を糞し、其の野を耨し、以て其の陰霧を銷し、其の気候を変ぜば、則ち愚者は漸く智に、弱者は日々に強に、十数年を出でずして、宛然として一大国と為ること必せり。而して櫛風沐雨、寒を凌ぎ雪を冒し、辛楚艱難して、万死に従事するに非ざるよりは、則ち其の大業は致し易からず。則ち幕府に請ふと雖も、心に愧づる無し、と。因りて嘗て講ぜし所の策及び地図一匣を出だし、上げて有司に示す。有司愈々益々恐怖す。公遂に其の由を書し、以て閣老故小田原侯(大久保加賀守)に謀る。実に天保五年なり。侯、公の書を得て亦た大いに驚く。(大久保忠臣嘗て余に語る。時に忠臣は側用人を以て、公の書を持ち、小田原侯に謁す。侯は毎に読むこと五六行にして、且つ驚き且つ感ず。遂に忠臣に謂ひて曰く、君の此くの如き有らば、其の国事に於いて何事か成るべからざらん、と。忠臣は侯の同族なり。以て雍蒙獎勧せらると云ふ)然れども侯は近来の名宰輔なり。常に洋夷の跋扈を慨く。乙酉の令は蓋し侯の決断に出づ。以て亦た深く公の用心の人の意表に出づるに感ず。遄かに往復辨難すること数たびなり。其の大要は以為らく、往年幕府は松前家の微弱にして折衝の任に当たる能はざるを以て、之を梁川に徙し、新たに松前奉行を置き、鎮撫・開拓に従事せしむ。既にして又之を松前家に還す。今其の鎖鑰を厳にせんと欲せば、則ち往年の故事に循ふ有るのみ。然れども長崎奉行は二員、毎に其の選を難しとす。而るに更に松前奉行を置かば、恐らく其の人に乏しからん、と。公又難じて曰く、昔者東北の海路未だ通ぜず、故に外夷の患ひは常に長崎に在り。方今蝦夷は直ちに鄂夷と隣を為す。則ち今日の患ひは松前に在りて、長崎に在らざるなり。幕府復た松前奉行を置きて之を鎮めば、則ち社稷の福、何ぞ加へん。今、姑息偸安し、既に奉行を置く能はずして、徒らに之を以て寡人を拒む、亦た異ならずや、と。其の城中に相見るや、亦た屢々以て言を為す。侯は持重して未だ以て遽かに対ふる有らず。亡幾(いくばくもなく)侯病みて卒す。(間宮林蔵は幕府の小臣。嘗て命を奉じて蝦夷及び唐太・満洲に到り、其の後辺陲に往来し、間諜に従事す。侯の卒するや、竊かに余に語りて曰く、小田原往きぬ。我が輩復た力を致すべき無し、と。川路聖謨も亦た余に謂ひて曰く、今より以往、才智用事の人は或いは之有らん。着実に愛慮すること小田原の若き者は復た見るべからず、と)公又濱松侯に謀る。
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『回天詩史』・蝦夷の備え・増封を辞して蝦夷地を請う蝦夷を併呑せば、則ち松前既に其の府庫を失ふ。松前守らざれば、則ち三厩の外は皆敵国と為らん。此の禍、豈に辺海を窺ふ者と同日にして語るべけんや。因りて竊かに其の策を講ずること日久し。初め哀公の季年、国用足らず。有司謂へらく、本藩の封内の幅員は、尾・紀二国に比して広狭懸隔す。而るに儀仗・鹵簿及び諸事は二国と頡頏し、鼎立の勢を成す。常に窮乏に苦しむ所以なり。元和に櫜を建つ。威公尚ほ幼し。倘し東照宮をして威公の長ずるを追見せしめば、則ち其の増封や必せり、と。因りて増封を請ふの議有り。而して哀公薨ず。是に至りて国用急を告げ、有司復た為に以て請はんとす。公曰く、土地人民は功有るを賞する所以なり。夫れ三百諸侯の恩沢に浴する者は、皆其の祖先の鋒鏑を蹈み矢石を冒し、社稷に勲労有るに非ざる無し。今寡人は父祖の余沢を以て、三藩に備員す。毫髪も幕府に報ゆる無くして、徒らに窮乏の望みを以て増封を請はば、何を以て訓を諸侯に示さん。已む無くんば、則ち蝦夷地方か、と。有司愕然たり。公曰く、居れ、吾れ汝に語げん。昔者大猷公、長崎奉行を戒めて曰く、内地の戦争は、彼此の勝負、皆其の一家の幸不幸のみ。土地人民を夷狄に没するに至りては、則ち日本の辱、孰れか大なるや。一寸一口と雖も、死を以て之を守るべし、と。夫れ蝦夷千島は本我が神州の地なり。其の加模沙斯加は、既に蝦夷の方言に出づれば、則ち其の地も亦た安んぞ源予州の経略する所に非ざるを知らん。(世に伝ふ、源予州は実は奥州に死せず、竊かに蝦夷に遁る、と。今蝦夷の俗、極めて愚癡なるに、義経と曰へば則ち尊崇すること啻ならず。世の伝ふる所も亦た偶然に非ず。公に斯の言有る所以なり)而るに今鄂虜傲然として其の地に拠り、千島の多き、我れ僅かに久奈志利・恵登呂府の二島を守る。失ふ所の地は何ぞ啻に一寸一尺のみならん。豈に千古の憤りに非ずや。然らば則ち鎮撫の術は講ぜざるべからず、開拓の策は尽くさざるべからず。而るに議者皆謂ふ、蝦夷の地は、瘠鹵にして耕すべからず、気候極寒にして陰霧四塞し、僅かに沿海諸港の居るべき有るのみ。其の人は愚闇柔弱にして礼義を知らず。其の地を得ても穀を生じ財を殖やす能はず、其の人を得ても教を施し治を為す能はず、と。此れ信に尋常迂腐の論のみ。誠に偉略雄算神禹の如き者をして、山に随ひて木を伐り
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『回天詩史』・先子の北辺の志・先子幽谷の北辺への憂い嫖姚定遠は期すべからず。文化初年、鄂羅斯屢々蝦夷地方に到り、北辺騒擾す。先子嘗て歳旦の詩有りて曰く、春来たりて一夜斗杓を廻らす。北顧すれば還た憂ふ胡虜の驕るを。筆を投じて自ら憐れむ班定遠。家を忘れて誰か擬せん霍嫖姚。長蛇は応に畏るべし神兵の利を。粒食は曾て資とす瑞穂の饒かなるを。宇内の至尊は天日の嗣。須く万国をして皇朝を仰がしむべし、と。先子は夙に北虜の南を図るの志有るを憤る。寛政年間、書を文公に上り、備豫の計を極陳す。是に至りて夷虜の猖獗、日に甚だし。先子慷慨して自ら奮ひ、書を鬻ぎ甲を装ひ、衣を沽(う)りて鞍を買ふ。竊かに朔漠に馳駆して胡塵を一掃するの志有り。其の詩中の所謂、嫖姚・定遠を以て自ら期すとは、寓言に非ざるなり。亡幾(いくばくもなく)北陸に丁卯の変有り、西辺に戊辰の警有り。其の後十余年、文政の初め、諳厄利亜、航海して再び相の浦賀に抵る。亡幾(いくばくもなく)又我が常北の大津の陸に上り、又薩の宝島に上り、牛を掠めて去る。其の他、漁民を海上に誘ひ、咯するに珍異の物を以てし、或いは授くるに邪教の書を以てし、或いは巨礮を鳴らして内地を震驚せしむる者、歳として之無きは無し。乙酉の春、幕府大いに攘夷の令を発し、凡そ外夷の船の海浜に近づく者は、一切砲を発して之を砕く。且つ漁民の竊かに洋中に貿易するを厳禁す。是より虜船復た海岸に近づかず。
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『回天詩史』・刀水・江戸往来・蝦夷開拓の志と君臣丸の旅水戸に抵ること再びす。皆月を閲して帰る。庚子の春、擢でられて側用人と為る。会〻公国に就く。彪、従う。公、嘗て北虜の猖獗を憂い、蝦夷を開拓するの志有り。屢〻議を幕府に建つ。国に就くに及び、亦閣老と簡牘を往復す。而れども事情通ぜず。乃ち他事に託し、彪を江戸に遣わして以て其の情を通ぜしむ。是に於いて庚子・辛丑、江戸に抵る者再びす。是れに因りて始めて閣老の浜松(水野越州)・松代(真田信州。信州嘗て屢〻小石川邸に到り、公と当世の務めを論ず。彪、二三の同志と特に宴席に侍することを命ぜらる。熟く侯の人と為りを知る。而れども其の閣老に任ぜられて後、執謁するは是れ始めと為す)の二侯に見ゆるを獲たり。又一時の有名の吏、矢部駿州(時に左近将監と称す。町奉行たり)・岡本江州(時に忠次郎と称す。勘定吟味役たり)・羽倉外記等と相識る。或いは一閲月、或いは数閲月にして帰る。癸卯の春、公参府し、将に日光の行有らんとす。適〻彪、馬より墜ちて足を傷つけ、医に下総の扇島に就く。従うを得ず。月餘にして常に復す。会〻公、諸公子(五郎君・七郎君・八郎君・九郎君・十郎君)を藩邸に召し、彪に命じて俱に途に就かしむ。公、既に日光の神廟を拝し、六月国に就く。船を邸門の前に艤し、江戸川に沿いて下り、墨水を過ぎて行徳に抵る。船を捨てて陸に従い、大森に館す。明日蚤に木下に抵る。風水手隊長佐野勘兵衛、所謂君臣丸を艤して待つ。風帆飛ぶが如し。刀水両岸及び十六洲の民、争って小艇を出し、纜を牽かんことを請う。纜短く艇多く、雑沓諠譁して殆ど制すべからず。公、水手に命じて、接ぐに数百丈の縄を以てす。
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『回天詩史』・武備と海防・鐘を大砲に 仏寺整理と神道公嘗て封内の銅仏及び梵鐘を毀ち、鋳て以て熕銃を造る。議者或いは之を難ず。公曰く、昔者大猷公、松平豆州をして大仏を毀ち、以て銭を鋳せしむ。他無し、無益を変じて有用と為すなり。且つ夫れ仏は能く衆生を済度し、鐘は能く怠惰を戒む。今変じて海防に用ゐ、腥膻の夷賊を塵(はら)ひ、神州の生霊を済(すく)ひ、以て天下の怠惰を振起せんとす。其の用、亦た大にして且つ広からずや、と。是に於いて人皆公の識に服す。而るに其の憤る者より之を観れば、則ち益々憤る。公は夙に神道を興隆するの志有り。(神道は所謂神道者流の見に非ず。其の大意は公の作る所の弘道館記に見ゆ)蓋し威公(公は嘗て神道を萩原兼従に受く。每に日本武尊の人と為りを慕ふ有り)の遺志にして、義公の述ぶる所なり。是に至りて神祇の祭儀の浮屠に混ずる者は、務めて清潔に帰せしむ。破戒の僧を逐ふ者若干人、其の罪を畏れて自ら逃ぐる者も亦た若干人。仏寺を毀つ者、前後二百数十区。其の所謂修験の徒は、或いは転じて祠官と為り、或いは降りて農夫と為るの類、枚挙に遑あらず。葬祭の礼、殆ど都鄙に布く。是に於いて人皆公の果断に服す。而るに其の怒る者より之を観れば、則ち益々怒る。其の他、二百年紛淆の経界を正し、三千載未だ嘗て有らざるの学校を建つ。(公の国事に於けるや、経界・学校尤も大業と為す。而して経界は殊に難し。彪不肖にして其の政府に在るや、明らかに公命を奉じ、二大業に従事す。以て頗る其の本末曲折を詳らかにす。而して百千言の尽くす所に非ず。請ふ、別に二事を論述し、後人をして考ふる所有らしめん。今は復た贅せず)凡そ公の為す所は、皆人の意表に出づ。其の所謂忌憚妬嫉憤怒する者、環りて之を讒すれば、則ち公の奇禍に遭ふも、亦た偶然に非ず。然りと雖も今日の事、豈に公一身の禍ならんや。抑も独り本藩の不幸ならんや。噫(五月二十三日、二十四日、二十五日録す)

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