回天詩史 / 蝦夷の備え・蝦夷の備えと北門の鎖鑰
後二十八萬人云。其禍毒可勝言哉。大猷公脩東照宮舊典。益明邪敎之禁。又始設外夷之禁。凡蟹文之國。一切拒絶。不得復窺窬。獨以和蘭敎法與西洋諸夷異其宗。特許往來長崎通有無。以爲洋夷間諜。使其歲書西洋事情以上於府。然虜之桀驁冥頑者。猶或犯禁而來者不啻一再。當時國威方熾。必火其船磔其人。無有噍類。洋夷寒膽不窺邊陲者。百數十年。承平日久。武備稍弛。於是鄂諳夷復垂涎於我。而我苟一日之安。或諭而還之。至於其甚。則給薪水米菓而還之。微乙酉之令。則東照大猷二公之貽謀殆荒矣。我納言公夙慨然有攘夷之志。深體祖宗之意。又洞察洋夷之謀。以爲夷之出沒海上。禍心不測。其守備不可不嚴也。然假使彼侵沿海之地。燒我廬舍。害我人民。勢不得久住內地。又假使彼據內地守要害。我人心憤怒激昂。勇氣百倍。苟爲將帥者。善用其鋒。因機制變。以我所長。衝彼所短。則我可以得大捷矣。抑又使彼日往來海上數十里之間。連艦鳴砲。張虛聲以震驚內地。其始也濱海騷擾。不堪奔命。其終也不過肅然不動。使彼自疲於往來。要之彼勢不得不上陸地。決勝敗。則我亦可以逞志矣。由是言之。虜之出沒海上。非不可惡。而其禍不甚大也。今夫蝦夷地方者。神州北門之鎖鑰。而委之於一小諸侯。而諸侯又委之於商賈。以貪互市權場之利。今鄂夷旣開府於加模沙徒加。又進據宇留圖不。其先鋒旣逼我惠登呂府之北。(宇留圖不之地。蝦夷人嘗爲漁獵之場。旣而鄂夷亦來互相漁獵。今鄂夷作廬舍。專據其地。蝦夷人不得復往云。寬政戊午。幕府使近藤十藏守重。按蝦夷。北到惠登呂府。鄂夷旣建其十字柱於是地。時我水戸木村謙從守重而行。守重命。謙拔十字柱。易以木標。謙執雖大書大日本惠登呂府。距今四十七年。而鄂夷用心旣已如此。嗚呼孰謂北虜無圖南之志耶)萬一彼稍稍蠶食。
新字:後二十八万人云。其禍毒可勝言哉。大猷公脩東照宮旧典。益明邪教之禁。又始設外夷之禁。凡蟹文之国。一切拒絶。不得復窺窬。独以和蘭教法与西洋諸夷異其宗。特許往来長崎通有無。以為洋夷間諜。使其歳書西洋事情以上於府。然虜之桀驁冥頑者。猶或犯禁而来者不啻一再。当時国威方熾。必火其船磔其人。無有噍類。洋夷寒胆不窺辺陲者。百数十年。承平日久。武備稍弛。於是鄂諳夷復垂涎於我。而我苟一日之安。或諭而還之。至於其甚。則給薪水米菓而還之。微乙酉之令。則東照大猷二公之貽謀殆荒矣。我納言公夙慨然有攘夷之志。深体祖宗之意。又洞察洋夷之謀。以為夷之出没海上。禍心不測。其守備不可不厳也。然仮使彼侵沿海之地。焼我廬舎。害我人民。勢不得久住内地。又仮使彼拠内地守要害。我人心憤怒激昂。勇気百倍。苟為将帥者。善用其鋒。因機制変。以我所長。衝彼所短。則我可以得大捷矣。抑又使彼日往来海上数十里之間。連艦鳴砲。張虚声以震驚内地。其始也浜海騷擾。不堪奔命。其終也不過粛然不動。使彼自疲於往来。要之彼勢不得不上陸地。決勝敗。則我亦可以逞志矣。由是言之。虜之出没海上。非不可悪。而其禍不甚大也。今夫蝦夷地方者。神州北門之鎖鑰。而委之於一小諸侯。而諸侯又委之於商賈。以貪互市権場之利。今鄂夷既開府於加模沙徒加。又進拠宇留図不。其先鋒既逼我恵登呂府之北。(宇留図不之地。蝦夷人嘗為漁猟之場。既而鄂夷亦来互相漁猟。今鄂夷作廬舎。専拠其地。蝦夷人不得復往云。寛政戊午。幕府使近藤十蔵守重。按蝦夷。北到恵登呂府。鄂夷既建其十字柱於是地。時我水戸木村謙従守重而行。守重命。謙抜十字柱。易以木標。謙執雖大書大日本恵登呂府。距今四十七年。而鄂夷用心既已如此。嗚呼孰謂北虜無図南之志耶)万一彼稍稍蠶食。
書き下し
後二十八万人と云ふ。其の禍毒、勝げて言ふべけんや。大猷公は東照宮の旧典を脩め、益々邪教の禁を明らかにし、又始めて外夷の禁を設く。凡そ蟹文の国は一切拒絶して、復た窺窬するを得ず。独り和蘭の教法の西洋諸夷と其の宗を異にするを以て、特に長崎に往来し有無を通ずるを許し、以て洋夷の間諜と為し、歳々其の西洋の事情を書して以て府に上らしむ。然れども虜の桀驁冥頑なる者、猶ほ或いは禁を犯して来たる者、啻に一再ならず。当時国威方に熾んにして、必ず其の船を火きて其の人を磔にし、噍類有る無し。洋夷寒胆して辺陲を窺はざること、百数十年。承平日久しく、武備稍々弛む。是に於いて鄂諳夷復た我に垂涎す。而るに我は一日の安を苟くし、或いは諭して之を還し、其の甚だしきに至りては、薪水・米菓を給して之を還す。乙酉の令微かりせば、則ち東照・大猷二公の貽謀、殆ど荒れなん。我が納言公は夙に慨然として攘夷の志有り、深く祖宗の意を体し、又洋夷の謀を洞察し、以為らく、夷の海上に出没するは、禍心測られず、其の守備は厳ならざるべからず。然れども仮使彼れ沿海の地を侵し、我が廬舎を焼き、我が人民を害すとも、勢ひ久しく内地に住まる得ず。又仮使彼れ内地に据りて要害を守らば、我が人心は憤怒激昂して勇気百倍す。苟も将帥たる者、善く其の鋒を用ゐ、機に因りて変を制し、我が長ずる所を以て彼の短なる所を衝かば、則ち我れ以て大捷を得べし。抑も又彼をして日々海上数十里の間に往来し、艦を連ね砲を鳴らし、虚声を張りて以て内地を震驚せしむとも、其の始めや濱海騒擾して奔命に堪へず、其の終はりや肅然として動かざるに過ぎず、彼をして自ら往来に疲れしむ。要するに彼の勢ひ、陸地に上りて勝敗を決せざるを得ず。則ち我れ亦た以て志を逞しくすべし。是に由りて言へば、虜の海上に出没するは、悪むべからざるに非ざれども、其の禍は甚だ大ならず。今夫れ蝦夷地方は神州北門の鎖鑰なり。而して之を一小諸侯に委ね、諸侯又之を商賈に委ね、以て互市権場の利を貪る。今鄂夷既に府を加模沙徒加に開き、又進みて宇留図不に拠る。其の先鋒既に我が恵登呂府の北に逼る。(宇留図不の地は、蝦夷人嘗て漁猟の場と為す。既にして鄂夷も亦た来たりて互ひに漁猟す。今鄂夷は廬舎を作り、専ら其の地に拠り、蝦夷人は復た往くを得ずと云ふ。寛政戊午、幕府は近藤十蔵守重をして蝦夷を按ぜしむ。北のかた恵登呂府に到るに、鄂夷既に其の十字柱を是の地に建つ。時に我が水戸の木村謙、守重に従ひて行く。守重、謙に命じて十字柱を抜き、易ふるに木標を以てせしむ。謙は執りて大いに書す、大日本恵登呂府、と。今を距つること四十七年にして、鄂夷の用心、既に此くの如し。嗚呼孰(たれ)か北虜に南を図るの志無しと謂はんや)万一彼れ稍々蠶食し、
現代語訳
後二十八万人に及んだということです。その禍毒は、言い尽くせるでしょうか。大猷公(家光)は東照宮(家康)の旧典を整え、いっそう邪教の禁を明らかにし、また初めて外国の禁を設けました。横文字を使う国はすべて拒絶して、再びうかがわせないようにしました。ただ、オランダの教法は西洋の他の諸国と宗を異にするとして、特に長崎への往来と有無の交易を許し、洋夷の間諜の役割を担わせ、毎年西洋の事情を書いて幕府に上げさせました。しかし、荒々しく頑なな異国の者の中には、なお禁を犯して来る者が一度や二度ではありませんでした。当時は国威が盛んで、必ずその船を焼き、その人を磔にし、生き残る者はいませんでした。洋夷は肝を冷やして辺境をうかがうことが、百数十年なくなりました。太平が長く続き、武備はしだいに緩みました。ここでロシアとイギリスの夷が再びわが国をうらやむようになりました。しかし、わが方は一日の安逸を求め、諭して帰らせたり、甚だしい場合は、薪・水・米・菓子を与えて帰らせたりしました。乙酉の令(文政8年の異国船打払令)がなければ、東照・大猷の二公が残した計は、ほとんど荒れ果てたでしょう。わが納言公(斉昭)は早くから慨然として攘夷の志を持ち、祖宗の意を深く体し、また洋夷の企みを見抜いて、考えました。夷が海上に出没するのは、禍心が計り知れず、その守備は厳重にしなければならない。ただ、たとえ彼が沿海の地を侵し、わが家屋を焼き、わが人民を害したとしても、長く内地に居座ることはできない。また、たとえ彼が内地に拠って要害を守ったとしても、わが人心は憤怒して奮い立ち、勇気が百倍になる。将帥たる者が、その鋒を巧みに用い、機に応じて変化を制し、わが長所で彼の短所を突くなら、大勝利を得られるであろう。また、彼が毎日海上の数十里の間を往来し、艦隊を連ね砲を鳴らし、虚勢を張って内地を驚かせても、その始めは沿海が騒がしくて対応に疲れるが、その終わりには、粛然として動かずにいれば、彼が自ら往来に疲れるだけである。要するに、彼の勢いは陸地に上がって勝敗を決せざるをえない。そうなれば、わが方も志を遂げられる。こう考えれば、異国の者が海上に出没することは、憎むべきでないわけではないが、その禍はそれほど大きくない。いま蝦夷地方は、日本の北の門の鍵です。それを小さな一大名に任せ、大名はまたそれを商人に任せて、交易の利益を貪っています。いまロシアはすでにカムチャツカに役所を開き、さらに進んでウルップ島を拠点としています。その先鋒はすでにわが恵登呂府(エトロフ)の北に迫っています。(ウルップの地は、蝦夷の人がかつて漁猟の場としていました。やがてロシア人も来て互いに漁猟しました。いまロシア人は家屋を建て、もっぱらその地に拠り、蝦夷の人は再び行けなくなったということです。寛政10年戊午、幕府は近藤十蔵守重に蝦夷を調査させました。北のかた恵登呂府に至ると、ロシア人はすでに十字の柱をこの地に建てていました。そのとき水戸の木村謙が守重に従って行きました。守重は謙に十字の柱を抜かせ、木標に替えさせました。謙はそれを手に取って大書しました。大日本恵登呂府、と。今から47年前のことで、ロシアの用心はすでにこのようでした。ああ、北の異国に南を図る志がないと、誰が言えるでしょうか)万が一、彼らがしだいに蚕食し、
解説
この章句が説くこと
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『回天詩史』・蝦夷開拓の策・開拓の志と攘夷令の廃止侯に見ゆるに、侯大いに公の説を是とす。蓋し侯は沈鷙にして智略有り、公の鋭気の当たるべからざるを慮り、暫く其の鋒を避くるのみ。而るに公は自信愈々厚く、暇有れば則ち地図を按じて形勢を審らかにし、時に或いは鷹猟に寓して、身を祁寒霜雪に習はす。彪は懦弱なりと雖も、嘗て先子の遺訓に服し、加ふるに公の鼓舞作興を以てす。是に於いて二三の同志の士と、上下して其の議を為し、慨然として筆を投じ家を忘るるの志有る者、十余年一日なり。四五年来、訛言流行して、以為らく、諳夷将に我が民の夷地に漂泊する者を護送せんとす、と。又清国は諳夷の侵す所と為り、大いに敗衂を取る。其の説、益々蘭夷より出づ。壬寅の歳、幕府は乙酉の攘夷の令を廃し、寛政・文化の令を用ゐる。是に於いて濱海の国は輒ち虜船を砕くを得ず。天下有志の士、索然として解体す。公歎じて曰く、天下の事は為すべからざるなり。一国の若きは則ち力を尽くさざるべからず、と。洒ぎて状を幕府に陳べ、謂へらく、封内の民俗は愚戇にして、漁父・釣丁尤も甚だし。日々攘夷の令を布くも、猶ほ恐らくは或いは夷人に洋中に昵むを。今其の令を廃せば、則ち貿易の姦は決して防ぐべからず。請ふ、暫く乙酉の令に沿ひ、以て愚戇の民を全くせん、と。幕府は制する能はず。公は益々武備を脩め、器械を繕ひ、新たに大砲を鋳ること若干。議者或いは諫むるに銃数の過多なるを以てす。公は哂ひて応へず。蓋し公の志は極北千里の外に在り、啻に封内二十里の海港のみならざるなり。国中の人、猶ほ公の遠略を察する能はざるは、則ち讒間の由りて生ずる所、亡謂(いはれなし)と為さざるなり。前月中、閣老阿部勢州、我が元老中山氏を詰るに七事を以てす。其の一に曰く、公は未だ蝦夷の念を絶たざるか、と。是に由りて之を観れば、公の大忠、幕府の大疑を来す所以にして、蝦夷の事の尤も有司の忌む所たること知るべし。嗚呼、公は万里飛揚の志を屈し、別邸小室の中に幽処す。彪ら亦た虎穴を探る得ずして、蝸廬の下に偃蹇す。夫れ天は未だ醜虜を駆除せんと欲せざるか。然らば則ち諳夷の辺海を窺窬する者は何れの日にか攘はん。鄂虜の北陲を蠶食する者は曷れの時にか遏めん。東照・大猷二公の霊、其れ之を何と謂はんや。杞人嫠婦の憂ひ、其れ已むべけんや。(五月廿七日廿八日録す)
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・蝦夷地の備えと平時の防備の必要性大猷公以來長崎の方は黑田鍋島へ防禦の事永續被仰付たる上にも、事有候時は其節に臨み能武將を撰び被遣事見へたれども、裏門の蝦夷に於ては實に御手薄き事とて、非常の節良將を被遣迄持こたへ、何も安心守らざる事也、昔は蝦夷の北は無人なりしが、今は昔と違ひ、魯西亞も廣大に成り、且はカンサツカへも能湊出來、ラツコ島まで奪れたれば、昔の御見通しにては大に異なるべし、されば文化の明斷を繼給ひて、蝦夷の地は公邊にて處置し給ひて、蝦夷地中便宜の土地を撰びて本城を御出來、郡村迄も追ゝに御おき、何事も無之內に人數も繁衍すべきやう御仕向け、海岸平路の地へは出城にても所々へ出來、大筒人數共常ゝ夫ゝ備え給ひて、萬々一の時も此方より御人數出し給ふまでもなく、小事は防ぎ留べく、又大事に成候ても御人數着至迄の持こたへ位は成るべき也、北狄の模樣昔と違ひ强大に成りて、且又、蝦夷の離島も追ゝ奪れたる上は、大猷公にて、黑船よりも明は近きに寄て御油斷不相成との尊意を以考ふれば、今は明よりも魯西亞の方はるかに近ければ、長崎よりは蝦夷の方御油斷なりがたき事に思ひ侍るなり、上意に、異國みだると聞ば云々との御諚乍憚御尤至極の御事にて、異國亂るゝよし聞たらば嚴重御備被遊べきは勿論なり、扨又日本は海國故、いつ何時夷狄押寄來らんも難計ければ、常ゝ浦々津々油斷すべからざれども、別て北狄の戰爭無之靜謐の時も防禦の備へ怠るべからず、是昔と今と敵國の模樣替りたる故也、扨近來浦賀等の海岸夫ゝ御手厚に備へ給ひしが、愚考にては未御十分には不奉存を、何れよりの建呈にて二ヶ年も不立內に、
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『回天詩史』・蝦夷開拓の策・蝦夷開拓の策と老中との問答水を訴り源を得、直ちに其の中央に踞し、大いに内地の民を移し、其の田を糞し、其の野を耨し、以て其の陰霧を銷し、其の気候を変ぜば、則ち愚者は漸く智に、弱者は日々に強に、十数年を出でずして、宛然として一大国と為ること必せり。而して櫛風沐雨、寒を凌ぎ雪を冒し、辛楚艱難して、万死に従事するに非ざるよりは、則ち其の大業は致し易からず。則ち幕府に請ふと雖も、心に愧づる無し、と。因りて嘗て講ぜし所の策及び地図一匣を出だし、上げて有司に示す。有司愈々益々恐怖す。公遂に其の由を書し、以て閣老故小田原侯(大久保加賀守)に謀る。実に天保五年なり。侯、公の書を得て亦た大いに驚く。(大久保忠臣嘗て余に語る。時に忠臣は側用人を以て、公の書を持ち、小田原侯に謁す。侯は毎に読むこと五六行にして、且つ驚き且つ感ず。遂に忠臣に謂ひて曰く、君の此くの如き有らば、其の国事に於いて何事か成るべからざらん、と。忠臣は侯の同族なり。以て雍蒙獎勧せらると云ふ)然れども侯は近来の名宰輔なり。常に洋夷の跋扈を慨く。乙酉の令は蓋し侯の決断に出づ。以て亦た深く公の用心の人の意表に出づるに感ず。遄かに往復辨難すること数たびなり。其の大要は以為らく、往年幕府は松前家の微弱にして折衝の任に当たる能はざるを以て、之を梁川に徙し、新たに松前奉行を置き、鎮撫・開拓に従事せしむ。既にして又之を松前家に還す。今其の鎖鑰を厳にせんと欲せば、則ち往年の故事に循ふ有るのみ。然れども長崎奉行は二員、毎に其の選を難しとす。而るに更に松前奉行を置かば、恐らく其の人に乏しからん、と。公又難じて曰く、昔者東北の海路未だ通ぜず、故に外夷の患ひは常に長崎に在り。方今蝦夷は直ちに鄂夷と隣を為す。則ち今日の患ひは松前に在りて、長崎に在らざるなり。幕府復た松前奉行を置きて之を鎮めば、則ち社稷の福、何ぞ加へん。今、姑息偸安し、既に奉行を置く能はずして、徒らに之を以て寡人を拒む、亦た異ならずや、と。其の城中に相見るや、亦た屢々以て言を為す。侯は持重して未だ以て遽かに対ふる有らず。亡幾(いくばくもなく)侯病みて卒す。(間宮林蔵は幕府の小臣。嘗て命を奉じて蝦夷及び唐太・満洲に到り、其の後辺陲に往来し、間諜に従事す。侯の卒するや、竊かに余に語りて曰く、小田原往きぬ。我が輩復た力を致すべき無し、と。川路聖謨も亦た余に謂ひて曰く、今より以往、才智用事の人は或いは之有らん。着実に愛慮すること小田原の若き者は復た見るべからず、と)公又濱松侯に謀る。
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『回天詩史』・先子の北辺の志・先子幽谷の北辺への憂い嫖姚定遠は期すべからず。文化初年、鄂羅斯屢々蝦夷地方に到り、北辺騒擾す。先子嘗て歳旦の詩有りて曰く、春来たりて一夜斗杓を廻らす。北顧すれば還た憂ふ胡虜の驕るを。筆を投じて自ら憐れむ班定遠。家を忘れて誰か擬せん霍嫖姚。長蛇は応に畏るべし神兵の利を。粒食は曾て資とす瑞穂の饒かなるを。宇内の至尊は天日の嗣。須く万国をして皇朝を仰がしむべし、と。先子は夙に北虜の南を図るの志有るを憤る。寛政年間、書を文公に上り、備豫の計を極陳す。是に至りて夷虜の猖獗、日に甚だし。先子慷慨して自ら奮ひ、書を鬻ぎ甲を装ひ、衣を沽(う)りて鞍を買ふ。竊かに朔漠に馳駆して胡塵を一掃するの志有り。其の詩中の所謂、嫖姚・定遠を以て自ら期すとは、寓言に非ざるなり。亡幾(いくばくもなく)北陸に丁卯の変有り、西辺に戊辰の警有り。其の後十余年、文政の初め、諳厄利亜、航海して再び相の浦賀に抵る。亡幾(いくばくもなく)又我が常北の大津の陸に上り、又薩の宝島に上り、牛を掠めて去る。其の他、漁民を海上に誘ひ、咯するに珍異の物を以てし、或いは授くるに邪教の書を以てし、或いは巨礮を鳴らして内地を震驚せしむる者、歳として之無きは無し。乙酉の春、幕府大いに攘夷の令を発し、凡そ外夷の船の海浜に近づく者は、一切砲を発して之を砕く。且つ漁民の竊かに洋中に貿易するを厳禁す。是より虜船復た海岸に近づかず。

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