回天詩史 / 先子の北辺の志・先子幽谷の北辺への憂い
嫖姚定遠不可期文化初年。鄂羅斯屢到蝦夷地方。北邊騷擾。先子嘗有歲旦之詩曰。春來一夜斗廻杓。北顧還憂胡虜驕。投筆自憐班定遠。忘家誰擬霍嫖姚。長蛇應畏神兵利。粒食曾資瑞穗饒。宇內至尊天日嗣。須令萬國仰皇朝。先子夙憤北虜有圖南之志。寬政年間。上書於文公。極陳備豫之計。至是夷虜猖獗日甚。先子慷慨自奮。鬻書裝甲。沽衣買鞍。竊有馳驅朔漠一掃胡塵之志。其詩中所謂。以嫖姚定遠自期者。非寓言也。亡幾北陸有丁卯之變。西邊有戊辰之警。其後十餘年文政初。諳厄利亞航海。再抵相之浦賀。亡幾又上我常北大津之陸。又上薩之寶島。掠牛而去。其他誘漁民於海上。咯以珍異之物。或授以邪敎之書。或鳴巨礮震驚內地者。無歲無之。乙酉之春。幕府大發攘夷之令。凡外夷之船近於海濱者。一切發砲碎之。且嚴禁漁民竊貿易於洋中。自是虜船不復近海岸。
新字:嫖姚定遠不可期文化初年。鄂羅斯屡到蝦夷地方。北辺騷擾。先子嘗有歳旦之詩曰。春来一夜斗廻杓。北顧還憂胡虜驕。投筆自憐班定遠。忘家誰擬霍嫖姚。長蛇応畏神兵利。粒食曽資瑞穂饒。宇内至尊天日嗣。須令万国仰皇朝。先子夙憤北虜有図南之志。寛政年間。上書於文公。極陳備予之計。至是夷虜猖獗日甚。先子慷慨自奮。鬻書装甲。沽衣買鞍。窃有馳駆朔漠一掃胡塵之志。其詩中所謂。以嫖姚定遠自期者。非寓言也。亡幾北陸有丁卯之変。西辺有戊辰之警。其後十余年文政初。諳厄利亜航海。再抵相之浦賀。亡幾又上我常北大津之陸。又上薩之宝島。掠牛而去。其他誘漁民於海上。咯以珍異之物。或授以邪教之書。或鳴巨礮震驚内地者。無歳無之。乙酉之春。幕府大発攘夷之令。凡外夷之船近於海浜者。一切発砲砕之。且厳禁漁民窃貿易於洋中。自是虜船不復近海岸。
書き下し
嫖姚定遠は期すべからず。文化初年、鄂羅斯屢々蝦夷地方に到り、北辺騒擾す。先子嘗て歳旦の詩有りて曰く、春来たりて一夜斗杓を廻らす。北顧すれば還た憂ふ胡虜の驕るを。筆を投じて自ら憐れむ班定遠。家を忘れて誰か擬せん霍嫖姚。長蛇は応に畏るべし神兵の利を。粒食は曾て資とす瑞穂の饒かなるを。宇内の至尊は天日の嗣。須く万国をして皇朝を仰がしむべし、と。先子は夙に北虜の南を図るの志有るを憤る。寛政年間、書を文公に上り、備豫の計を極陳す。是に至りて夷虜の猖獗、日に甚だし。先子慷慨して自ら奮ひ、書を鬻ぎ甲を装ひ、衣を沽(う)りて鞍を買ふ。竊かに朔漠に馳駆して胡塵を一掃するの志有り。其の詩中の所謂、嫖姚・定遠を以て自ら期すとは、寓言に非ざるなり。亡幾(いくばくもなく)北陸に丁卯の変有り、西辺に戊辰の警有り。其の後十余年、文政の初め、諳厄利亜、航海して再び相の浦賀に抵る。亡幾(いくばくもなく)又我が常北の大津の陸に上り、又薩の宝島に上り、牛を掠めて去る。其の他、漁民を海上に誘ひ、咯するに珍異の物を以てし、或いは授くるに邪教の書を以てし、或いは巨礮を鳴らして内地を震驚せしむる者、歳として之無きは無し。乙酉の春、幕府大いに攘夷の令を発し、凡そ外夷の船の海浜に近づく者は、一切砲を発して之を砕く。且つ漁民の竊かに洋中に貿易するを厳禁す。是より虜船復た海岸に近づかず。
現代語訳
嫖姚(霍去病)や定遠(班超)のような功績は、期待できません。文化の初め、ロシアがたびたび蝦夷地方に来航し、北辺が騒然としました。先子(亡父・藤田幽谷)は、かつて元日の詩を作って言いました。春が来て、一夜にして北斗の柄が回りました。北の方を顧みれば、また異国の者の驕りが気がかりです。筆を投げて、班定遠のように功を立てたいと自ら思います。家を忘れ、霍嫖姚のようになろうとする者がだれかいるでしょうか。大蛇のような敵は、神兵の鋭さを畏れるでしょう。穀物の食は、かつて瑞穂の国の豊かさに頼ってきました。天下で至尊なのは、天日の継ぎ手です。ぜひ万国に皇朝を仰がせるべきです、と。先子は早くから、北の夷が南を図る志があることを憤っていました。寛政年間、文公に書を上げて、備えの計をつぶさに述べました。この時に至り、夷虜の勢いはますます盛んになりました。先子は憤慨して自ら奮い、書物を売り、甲冑を整え、衣を売り、鞍を買いました。ひそかに北の砂漠を馳せ、胡の塵を一掃する志を持っていました。その詩の中で、嫖姚・定遠を自分の目標としたのは、たとえ話ではありませんでした。ほどなく北陸に丁卯の変(文化4年)があり、西の辺境に戊辰の警(文化5年、長崎のフェートン号事件)がありました。その後十余年、文政の初めに、イギリスの船が航海して再び相模の浦賀に至りました。ほどなく、わが常陸の北の大津の陸に上がり、また薩摩の宝島に上がり、牛を奪って去りました。そのほか、漁民を海上に誘い、珍しい品でもてなし、あるいは邪教の書を授け、あるいは大砲を鳴らして内地を震わせるようなことが、毎年ありました。乙酉の春(文政8年)、幕府は大いに攘夷の令を出しました。およそ外国船で海浜に近づくものは、一切砲撃して砕くというものです。また漁民がひそかに洋上で貿易することを厳禁しました。それ以来、異国の船は再び海岸に近づかなくなりました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公七年 猶ほ鐘声を聞く秋、邾を伐ち、范門に及ぶ。猶ほ鍾聲を聞く。大夫諫むるも、聽かず。茅成子、吳に告げんことを請ふ。許さずして曰く、「魯は柝を擊てば邾に聞こゆ。吳は二千里、三月ならずんば至らず。何ぞ我に及ばん。且つ國內豈に足らざらんや」と。成子、茅を以て叛く。師遂に邾に入り、其の公宮に處る。眾師晝に掠む。邾の眾は繹に保つ。師宵に掠む。邾子益を以て來り、亳社に獻じ、諸を負瑕に囚ふ。負瑕、故に繹有り。邾の茅夷鴻、束帛乘韋を以て、自ら救ひを吳に請ひて曰く、「魯は晉を弱しとして吳を遠しとし、其の眾を馮恃して君の盟に背き、君の執事を辟(さ)けて、以て我が小國を陵ぐ。邾は敢へて自ら愛むに非ず。君の威の立たざるを懼るるなり。君の威の立たざるは、小國の憂ひなり。若し夏に鄫衍に盟ひて、秋にして之に背き、求むるを成して違はずんば、四方の諸侯、其れ何を以てか君に事へん。且つ魯の賦は八百乘、君の貳なり。邾の賦は六百乘、君の私なり。私を以て貳に奉ずるは、唯だ君之を圖れ」と。吳子之に從ふ。宋人曹を圍む。鄭の桓子思曰く、「宋人曹を有たば、鄭の患ひなり。以て救はざるべからず」と。
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『講孟余話』公孫丑上 第四章此の章両つの「是の時に及びて」の語を下す。朱註並びに「惟れ日も足らざるの意」と云ふ、最も妙なり、味はふべし。今や東墨西欧駸々として来り逼る、官皆枉げて其の意に適従す。輿地図を披きて是れを検するに、蝦夷のクシュンコタン既に魯人の城塁を築く。松前の箱館、伊豆の下田已に墨人の互市場となる。肥前の長崎、暗払の来航頻々なり。其の他武蔵の神奈川、志摩の鳥羽、摂津の難波等、夷人已に去ると雖も、腥膻の気汗染して未だ去らず。然らば則ち神州の其の汗を受けざる者幾許ぞや。事已に茲に至る、間暇又幾時ぞや。幸に今数年の災を紓ぶ、実は不治の病を護す。是の時に乗じ惟れ日も足らずとして、日夜刻苦勉励、上に在りては其の政教を修め、士大夫に在りては其の学芸を錬り、農工商賈は各々其の業を勤め、務めて牖戸を綢繆し、下民の侮を禦ぐべし。然るに今は然らず、是の時に乗じ惟れ日も足らず日夜般楽怠敖すること何事ぞや。古今同慨なるかな。
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『春秋左氏伝』成公七年 懼るるを知る七年春、吳郯を伐つ。郯成す。季文子曰く、「中國旅を振るはず、蠻夷入りて伐つ。而して之を或いは恤ふる莫し。弔ふ者無きなり夫。詩に曰く、『昊天に弔(いた)まれず、亂定まる靡し』と。其れ此の謂か。上に弔はざる有らば、其れ誰か亂を受けざらん。吾が亡ぶること日無からん」と。君子曰く、「懼るるを知ること是くの如くならば、斯に亡びず」と。鄭の子良成公に相として以て晉に如きて見え、且つ師を拜す。夏、曹の宣公來朝す。秋、楚の子重鄭を伐ち、氾に師す。諸侯鄭を救ふ。鄭の共仲・侯羽、楚の師に軍し、鄖公鍾儀を囚へて、諸を晉に獻ず。
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『春秋左氏伝』定公六年 乃ち今為すべし四月己丑、吳の大子終纍、楚の舟師を敗り、潘子臣・小惟子及び大夫七人を獲。楚國大いに惕れ、亡びんことを懼る。子期、又陵師を以て繁揚に敗る。令尹子西、喜びて曰く、「乃ち今為すべし」と。是に於いてか郢を鄀に遷して、其の政を改紀し、以て楚國を定む。周の儋翩、王子朝の徒を率ゐ、鄭人に因りて將に以て亂を周に作さんとす。鄭、是に於いてか馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外を伐つ。六月、晉の閻沒、周を戍り、且つ胥靡に城く。
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論語・泰伯篇子曰く、『学ぶこと及ばざるが如く、なおこれを失うことを恐る。』

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