回天詩史 / 蝦夷開拓の策・蝦夷開拓の策と老中との問答
訴水得源。直踞其中央。大移內地之民。糞其田。耨其野。以銷其陰霧。變其氣候。則愚者漸智。弱者日强。不出十數年。而宛然爲一大國也必矣。而自非櫛風沐雨。凌寒冒雪。辛楚艱難。從事於萬死。則其大業不易致也。則雖請之於幕府。無愧於心矣。因出所嘗講之策及地圖一匣。上示有司。有司愈益恐怖。公遂書其由。以謀於閣老故小田原侯。(大久保加賀守)實天保五年也。侯得公書。亦大驚。(大久保忠臣嘗語余。時忠臣以側用人。持公之書。謁小田原侯。侯每讀五六行。且驚且感。遂謂忠臣曰。有君如此。其於國事何事不可成。忠臣侯之同族。以故雍蒙獎勸云)然侯近來名宰輔也。常慨洋夷之跋扈。乙酉之令蓋出於侯決斷。以故亦深感公之用心。出人意表。遄往復辨難者數矣。其大要以爲往年幕府以松前家微弱。不能當折衝之任。徒之於梁川。新置松前奉行。從事於鎭撫開拓。旣而又還之於松前家。今欲嚴其鎖鑰。則有循往年故事耳。然長崎奉行二員。每難其選。而更置松前奉行。恐乏其人。公又難曰。昔者東北海路未通。故外夷之患常在長崎。方今蝦夷直與鄂夷爲隣。則今日之患在松前。而不在長崎也。幕府復置松前奉行鎭之。則社稷之福何加焉。今姑息偸安旣不能置奉行。徒以之拒寡人。不亦異乎。其相見於城中。亦屢以爲言。侯持重未有以遽對也。亡幾侯病卒。(間宮林藏者幕府小臣。嘗奉命到蝦夷及唐太滿州。其後往來邊陲。從事於間諜。侯之卒也竊語余曰。小田原往矣。我輩無可復致力也。川路聖謨亦謂余曰。自今以往。才智用事之人或有之。著實愛慮若小田原者不可復見也)公又謀於濱松侯。
新字:訴水得源。直踞其中央。大移内地之民。糞其田。耨其野。以銷其陰霧。変其気候。則愚者漸智。弱者日強。不出十数年。而宛然為一大国也必矣。而自非櫛風沐雨。凌寒冒雪。辛楚艱難。従事於万死。則其大業不易致也。則雖請之於幕府。無愧於心矣。因出所嘗講之策及地図一匣。上示有司。有司愈益恐怖。公遂書其由。以謀於閣老故小田原侯。(大久保加賀守)実天保五年也。侯得公書。亦大驚。(大久保忠臣嘗語余。時忠臣以側用人。持公之書。謁小田原侯。侯毎読五六行。且驚且感。遂謂忠臣曰。有君如此。其於国事何事不可成。忠臣侯之同族。以故雍蒙獎勧云)然侯近来名宰輔也。常慨洋夷之跋扈。乙酉之令蓋出於侯決断。以故亦深感公之用心。出人意表。遄往復弁難者数矣。其大要以為往年幕府以松前家微弱。不能当折衝之任。徒之於梁川。新置松前奉行。従事於鎮撫開拓。既而又還之於松前家。今欲厳其鎖鑰。則有循往年故事耳。然長崎奉行二員。毎難其選。而更置松前奉行。恐乏其人。公又難曰。昔者東北海路未通。故外夷之患常在長崎。方今蝦夷直与鄂夷為隣。則今日之患在松前。而不在長崎也。幕府復置松前奉行鎮之。則社稷之福何加焉。今姑息偸安既不能置奉行。徒以之拒寡人。不亦異乎。其相見於城中。亦屡以為言。侯持重未有以遽対也。亡幾侯病卒。(間宮林蔵者幕府小臣。嘗奉命到蝦夷及唐太満州。其後往来辺陲。従事於間諜。侯之卒也窃語余曰。小田原往矣。我輩無可復致力也。川路聖謨亦謂余曰。自今以往。才智用事之人或有之。著実愛慮若小田原者不可復見也)公又謀於浜松侯。
書き下し
水を訴り源を得、直ちに其の中央に踞し、大いに内地の民を移し、其の田を糞し、其の野を耨し、以て其の陰霧を銷し、其の気候を変ぜば、則ち愚者は漸く智に、弱者は日々に強に、十数年を出でずして、宛然として一大国と為ること必せり。而して櫛風沐雨、寒を凌ぎ雪を冒し、辛楚艱難して、万死に従事するに非ざるよりは、則ち其の大業は致し易からず。則ち幕府に請ふと雖も、心に愧づる無し、と。因りて嘗て講ぜし所の策及び地図一匣を出だし、上げて有司に示す。有司愈々益々恐怖す。公遂に其の由を書し、以て閣老故小田原侯(大久保加賀守)に謀る。実に天保五年なり。侯、公の書を得て亦た大いに驚く。(大久保忠臣嘗て余に語る。時に忠臣は側用人を以て、公の書を持ち、小田原侯に謁す。侯は毎に読むこと五六行にして、且つ驚き且つ感ず。遂に忠臣に謂ひて曰く、君の此くの如き有らば、其の国事に於いて何事か成るべからざらん、と。忠臣は侯の同族なり。以て雍蒙獎勧せらると云ふ)然れども侯は近来の名宰輔なり。常に洋夷の跋扈を慨く。乙酉の令は蓋し侯の決断に出づ。以て亦た深く公の用心の人の意表に出づるに感ず。遄かに往復辨難すること数たびなり。其の大要は以為らく、往年幕府は松前家の微弱にして折衝の任に当たる能はざるを以て、之を梁川に徙し、新たに松前奉行を置き、鎮撫・開拓に従事せしむ。既にして又之を松前家に還す。今其の鎖鑰を厳にせんと欲せば、則ち往年の故事に循ふ有るのみ。然れども長崎奉行は二員、毎に其の選を難しとす。而るに更に松前奉行を置かば、恐らく其の人に乏しからん、と。公又難じて曰く、昔者東北の海路未だ通ぜず、故に外夷の患ひは常に長崎に在り。方今蝦夷は直ちに鄂夷と隣を為す。則ち今日の患ひは松前に在りて、長崎に在らざるなり。幕府復た松前奉行を置きて之を鎮めば、則ち社稷の福、何ぞ加へん。今、姑息偸安し、既に奉行を置く能はずして、徒らに之を以て寡人を拒む、亦た異ならずや、と。其の城中に相見るや、亦た屢々以て言を為す。侯は持重して未だ以て遽かに対ふる有らず。亡幾(いくばくもなく)侯病みて卒す。(間宮林蔵は幕府の小臣。嘗て命を奉じて蝦夷及び唐太・満洲に到り、其の後辺陲に往来し、間諜に従事す。侯の卒するや、竊かに余に語りて曰く、小田原往きぬ。我が輩復た力を致すべき無し、と。川路聖謨も亦た余に謂ひて曰く、今より以往、才智用事の人は或いは之有らん。着実に愛慮すること小田原の若き者は復た見るべからず、と)公又濱松侯に謀る。
現代語訳
水に従って源を得て、真っすぐにその中央に拠り、内地の民を大いに移し、田に肥料をやり、野を耕し草を取り、霧を消し、気候を変えれば、愚かな者は次第に賢くなり、弱い者は日々に強くなって、十数年を出ないうちに、まるで一つの大国になるに違いありません。しかし、風に櫛け雨に沐し、寒さを凌ぎ雪を冒して、辛苦と困難の中に万死をもって従事するのでなければ、その大事業は成し遂げにくいのです。そうであれば、幕府に請うても、心に恥じることはありません、と。そこで、かねて練っていた策と地図一箱を出して、役人に示しました。役人はいよいよ恐れました。公はついにその次第を書いて、老中の故小田原侯(大久保加賀守)に相談しました。実に天保5年のことです。侯は公の書を得て、これまた大いに驚きました。(大久保忠臣がかつて私に語りました。当時、忠臣は側用人として公の書を持ち、小田原侯に拝謁しました。侯は五、六行読むごとに、驚き、感じ入りました。そしてついに忠臣に言いました。このような主君がいれば、国事において何事が成らないことがあろうか、と。忠臣は侯と同族であるため、特別に励まされたということです)それでも侯は近ごろの名宰相でした。常に洋夷の跋扈を嘆いていました。乙酉の令(異国船打払令)は、おそらく侯の決断から出たものです。そのため、公の用心が人の予想を超えていることに深く感じ入り、すぐに何度も往復して問答しました。その要点は、往年幕府は松前家が微弱で折衝の任に当たれないため、松前家を梁川に移し、新たに松前奉行を置いて鎮撫と開拓に当たらせたが、やがて再び松前家に戻した。いまその北の門の鍵を厳重にしたいなら、往年の故事にならうだけである。ただし長崎奉行は二人いて、いつもその人選に苦労している。さらに松前奉行を置けば、おそらく人材が足りないだろう、というものでした。公はまた反論して言いました。昔は東北の海路がまだ通じていなかったので、外夷の患いは常に長崎にあった。いま蝦夷はロシアと直接に隣り合っている。つまり、今日の患いは松前にあり、長崎にはない。幕府が再び松前奉行を置いて鎮めるなら、社稷の福はこれ以上ない。今、姑息に目先の安逸を貪り、奉行も置けず、ただそれを理由に私を拒むのは、おかしいではないか、と。城中で会うたびに、何度もそのことを述べました。侯は慎重に構え、すぐには答えませんでした。ほどなく侯は病で亡くなりました。(間宮林蔵は幕府の小臣です。かつて命を受けて蝦夷や樺太・満洲に行き、その後は辺境を往来して偵察に従事しました。侯が亡くなったとき、ひそかに私に語りました。小田原侯は去ってしまった。われわれはもう力を尽くす余地がない、と。川路聖謨も私に言いました。これから先、才智があって事に当たる人は、あるかもしれない。だが、着実に憂え慮ることが小田原侯のような人は、再び見ることができないだろう、と)公はさらに浜松侯に相談しました。
解説
この章句が説くこと
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『回天詩史』・蝦夷開拓の策・開拓の志と攘夷令の廃止侯に見ゆるに、侯大いに公の説を是とす。蓋し侯は沈鷙にして智略有り、公の鋭気の当たるべからざるを慮り、暫く其の鋒を避くるのみ。而るに公は自信愈々厚く、暇有れば則ち地図を按じて形勢を審らかにし、時に或いは鷹猟に寓して、身を祁寒霜雪に習はす。彪は懦弱なりと雖も、嘗て先子の遺訓に服し、加ふるに公の鼓舞作興を以てす。是に於いて二三の同志の士と、上下して其の議を為し、慨然として筆を投じ家を忘るるの志有る者、十余年一日なり。四五年来、訛言流行して、以為らく、諳夷将に我が民の夷地に漂泊する者を護送せんとす、と。又清国は諳夷の侵す所と為り、大いに敗衂を取る。其の説、益々蘭夷より出づ。壬寅の歳、幕府は乙酉の攘夷の令を廃し、寛政・文化の令を用ゐる。是に於いて濱海の国は輒ち虜船を砕くを得ず。天下有志の士、索然として解体す。公歎じて曰く、天下の事は為すべからざるなり。一国の若きは則ち力を尽くさざるべからず、と。洒ぎて状を幕府に陳べ、謂へらく、封内の民俗は愚戇にして、漁父・釣丁尤も甚だし。日々攘夷の令を布くも、猶ほ恐らくは或いは夷人に洋中に昵むを。今其の令を廃せば、則ち貿易の姦は決して防ぐべからず。請ふ、暫く乙酉の令に沿ひ、以て愚戇の民を全くせん、と。幕府は制する能はず。公は益々武備を脩め、器械を繕ひ、新たに大砲を鋳ること若干。議者或いは諫むるに銃数の過多なるを以てす。公は哂ひて応へず。蓋し公の志は極北千里の外に在り、啻に封内二十里の海港のみならざるなり。国中の人、猶ほ公の遠略を察する能はざるは、則ち讒間の由りて生ずる所、亡謂(いはれなし)と為さざるなり。前月中、閣老阿部勢州、我が元老中山氏を詰るに七事を以てす。其の一に曰く、公は未だ蝦夷の念を絶たざるか、と。是に由りて之を観れば、公の大忠、幕府の大疑を来す所以にして、蝦夷の事の尤も有司の忌む所たること知るべし。嗚呼、公は万里飛揚の志を屈し、別邸小室の中に幽処す。彪ら亦た虎穴を探る得ずして、蝸廬の下に偃蹇す。夫れ天は未だ醜虜を駆除せんと欲せざるか。然らば則ち諳夷の辺海を窺窬する者は何れの日にか攘はん。鄂虜の北陲を蠶食する者は曷れの時にか遏めん。東照・大猷二公の霊、其れ之を何と謂はんや。杞人嫠婦の憂ひ、其れ已むべけんや。(五月廿七日廿八日録す)
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『回天詩史』・蝦夷の備え・増封を辞して蝦夷地を請う蝦夷を併呑せば、則ち松前既に其の府庫を失ふ。松前守らざれば、則ち三厩の外は皆敵国と為らん。此の禍、豈に辺海を窺ふ者と同日にして語るべけんや。因りて竊かに其の策を講ずること日久し。初め哀公の季年、国用足らず。有司謂へらく、本藩の封内の幅員は、尾・紀二国に比して広狭懸隔す。而るに儀仗・鹵簿及び諸事は二国と頡頏し、鼎立の勢を成す。常に窮乏に苦しむ所以なり。元和に櫜を建つ。威公尚ほ幼し。倘し東照宮をして威公の長ずるを追見せしめば、則ち其の増封や必せり、と。因りて増封を請ふの議有り。而して哀公薨ず。是に至りて国用急を告げ、有司復た為に以て請はんとす。公曰く、土地人民は功有るを賞する所以なり。夫れ三百諸侯の恩沢に浴する者は、皆其の祖先の鋒鏑を蹈み矢石を冒し、社稷に勲労有るに非ざる無し。今寡人は父祖の余沢を以て、三藩に備員す。毫髪も幕府に報ゆる無くして、徒らに窮乏の望みを以て増封を請はば、何を以て訓を諸侯に示さん。已む無くんば、則ち蝦夷地方か、と。有司愕然たり。公曰く、居れ、吾れ汝に語げん。昔者大猷公、長崎奉行を戒めて曰く、内地の戦争は、彼此の勝負、皆其の一家の幸不幸のみ。土地人民を夷狄に没するに至りては、則ち日本の辱、孰れか大なるや。一寸一口と雖も、死を以て之を守るべし、と。夫れ蝦夷千島は本我が神州の地なり。其の加模沙斯加は、既に蝦夷の方言に出づれば、則ち其の地も亦た安んぞ源予州の経略する所に非ざるを知らん。(世に伝ふ、源予州は実は奥州に死せず、竊かに蝦夷に遁る、と。今蝦夷の俗、極めて愚癡なるに、義経と曰へば則ち尊崇すること啻ならず。世の伝ふる所も亦た偶然に非ず。公に斯の言有る所以なり)而るに今鄂虜傲然として其の地に拠り、千島の多き、我れ僅かに久奈志利・恵登呂府の二島を守る。失ふ所の地は何ぞ啻に一寸一尺のみならん。豈に千古の憤りに非ずや。然らば則ち鎮撫の術は講ぜざるべからず、開拓の策は尽くさざるべからず。而るに議者皆謂ふ、蝦夷の地は、瘠鹵にして耕すべからず、気候極寒にして陰霧四塞し、僅かに沿海諸港の居るべき有るのみ。其の人は愚闇柔弱にして礼義を知らず。其の地を得ても穀を生じ財を殖やす能はず、其の人を得ても教を施し治を為す能はず、と。此れ信に尋常迂腐の論のみ。誠に偉略雄算神禹の如き者をして、山に随ひて木を伐り
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『回天詩史』・蝦夷の備え・蝦夷の備えと北門の鎖鑰後二十八万人と云ふ。其の禍毒、勝げて言ふべけんや。大猷公は東照宮の旧典を脩め、益々邪教の禁を明らかにし、又始めて外夷の禁を設く。凡そ蟹文の国は一切拒絶して、復た窺窬するを得ず。独り和蘭の教法の西洋諸夷と其の宗を異にするを以て、特に長崎に往来し有無を通ずるを許し、以て洋夷の間諜と為し、歳々其の西洋の事情を書して以て府に上らしむ。然れども虜の桀驁冥頑なる者、猶ほ或いは禁を犯して来たる者、啻に一再ならず。当時国威方に熾んにして、必ず其の船を火きて其の人を磔にし、噍類有る無し。洋夷寒胆して辺陲を窺はざること、百数十年。承平日久しく、武備稍々弛む。是に於いて鄂諳夷復た我に垂涎す。而るに我は一日の安を苟くし、或いは諭して之を還し、其の甚だしきに至りては、薪水・米菓を給して之を還す。乙酉の令微かりせば、則ち東照・大猷二公の貽謀、殆ど荒れなん。我が納言公は夙に慨然として攘夷の志有り、深く祖宗の意を体し、又洋夷の謀を洞察し、以為らく、夷の海上に出没するは、禍心測られず、其の守備は厳ならざるべからず。然れども仮使彼れ沿海の地を侵し、我が廬舎を焼き、我が人民を害すとも、勢ひ久しく内地に住まる得ず。又仮使彼れ内地に据りて要害を守らば、我が人心は憤怒激昂して勇気百倍す。苟も将帥たる者、善く其の鋒を用ゐ、機に因りて変を制し、我が長ずる所を以て彼の短なる所を衝かば、則ち我れ以て大捷を得べし。抑も又彼をして日々海上数十里の間に往来し、艦を連ね砲を鳴らし、虚声を張りて以て内地を震驚せしむとも、其の始めや濱海騒擾して奔命に堪へず、其の終はりや肅然として動かざるに過ぎず、彼をして自ら往来に疲れしむ。要するに彼の勢ひ、陸地に上りて勝敗を決せざるを得ず。則ち我れ亦た以て志を逞しくすべし。是に由りて言へば、虜の海上に出没するは、悪むべからざるに非ざれども、其の禍は甚だ大ならず。今夫れ蝦夷地方は神州北門の鎖鑰なり。而して之を一小諸侯に委ね、諸侯又之を商賈に委ね、以て互市権場の利を貪る。今鄂夷既に府を加模沙徒加に開き、又進みて宇留図不に拠る。其の先鋒既に我が恵登呂府の北に逼る。(宇留図不の地は、蝦夷人嘗て漁猟の場と為す。既にして鄂夷も亦た来たりて互ひに漁猟す。今鄂夷は廬舎を作り、専ら其の地に拠り、蝦夷人は復た往くを得ずと云ふ。寛政戊午、幕府は近藤十蔵守重をして蝦夷を按ぜしむ。北のかた恵登呂府に到るに、鄂夷既に其の十字柱を是の地に建つ。時に我が水戸の木村謙、守重に従ひて行く。守重、謙に命じて十字柱を抜き、易ふるに木標を以てせしむ。謙は執りて大いに書す、大日本恵登呂府、と。今を距つること四十七年にして、鄂夷の用心、既に此くの如し。嗚呼孰(たれ)か北虜に南を図るの志無しと謂はんや)万一彼れ稍々蠶食し、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・蝦夷地の備えと平時の防備の必要性大猷公以來長崎の方は黑田鍋島へ防禦の事永續被仰付たる上にも、事有候時は其節に臨み能武將を撰び被遣事見へたれども、裏門の蝦夷に於ては實に御手薄き事とて、非常の節良將を被遣迄持こたへ、何も安心守らざる事也、昔は蝦夷の北は無人なりしが、今は昔と違ひ、魯西亞も廣大に成り、且はカンサツカへも能湊出來、ラツコ島まで奪れたれば、昔の御見通しにては大に異なるべし、されば文化の明斷を繼給ひて、蝦夷の地は公邊にて處置し給ひて、蝦夷地中便宜の土地を撰びて本城を御出來、郡村迄も追ゝに御おき、何事も無之內に人數も繁衍すべきやう御仕向け、海岸平路の地へは出城にても所々へ出來、大筒人數共常ゝ夫ゝ備え給ひて、萬々一の時も此方より御人數出し給ふまでもなく、小事は防ぎ留べく、又大事に成候ても御人數着至迄の持こたへ位は成るべき也、北狄の模樣昔と違ひ强大に成りて、且又、蝦夷の離島も追ゝ奪れたる上は、大猷公にて、黑船よりも明は近きに寄て御油斷不相成との尊意を以考ふれば、今は明よりも魯西亞の方はるかに近ければ、長崎よりは蝦夷の方御油斷なりがたき事に思ひ侍るなり、上意に、異國みだると聞ば云々との御諚乍憚御尤至極の御事にて、異國亂るゝよし聞たらば嚴重御備被遊べきは勿論なり、扨又日本は海國故、いつ何時夷狄押寄來らんも難計ければ、常ゝ浦々津々油斷すべからざれども、別て北狄の戰爭無之靜謐の時も防禦の備へ怠るべからず、是昔と今と敵國の模樣替りたる故也、扨近來浦賀等の海岸夫ゝ御手厚に備へ給ひしが、愚考にては未御十分には不奉存を、何れよりの建呈にて二ヶ年も不立內に、
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『回天詩史』・文献志と讒言・文献志の再興と朋党の讒言臣に東藩文献志を修めしむ。公薨じて果たさず。是に至りて会沢・鈴木等、以為らく、中興の業を成さんと欲すれば、則ち宜しく先ず祖宗の典刑を修め、斟酌増損して以て至当に帰すべしと。乃ち議を建てて復た文献志を修め、局を城中に設く。政府の有志の徒、時に其の局に往来す。小人、因りて会沢・鈴木等を讒するに朋党を以てす。遂に会沢を出だして史館総裁と為し、鈴木・原田(名は成祐、兵介と称す)・荻を以て馬廻と為す。政府の正議、一網打尽、復た子遺無し。深沢(名は敦忠、甚五兵衛と称す)も亦四人と局を同じくして相親しむ。是に至りて病に移りて出でず。彪、同僚と議して以為らく、郡宰は本〻疎外の職なり。而れども頗る枢要の地と為る者は、公の専ら吾が儕を信任するを以てなり。今、政府の変革此の如し。凡そ吾が儕の建議する者、皆中より之を制せられ、上下の情を隔絶せば、則ち公の盛意孤ならんと。因りて書を上りて屢〻小人を退け君子を進め、正気を挽回する所以の説を陳ぶ。凡そ駅使の江戸に往来する者、毎月六次、未だ嘗て一次も郡宰の上書無きことは無し。公も亦時に親書を下して慰む。而れども讒謗先入し、奈何ともする無し。明年壬辰の春、深沢も亦坐して廃せらる(所謂小普請組)。彪、料るに口舌を以て争うべからず。即日、亦病に移りて出でず。朋党の論、益〻熾んなり。公、赫然として震怒し、遽かに川瀬・石河の二人を江邸に召し、問うに事情を以てす。二人、侃然として正議し、余力を遺さず。公、釈然として悟り、彪を転じて通事と為し、江戸に徙す。鈴木子賢、代わる。会沢伯民の資格を進め、而して原田・深沢・荻の徒も、亦往往にして任用せらる。通事(今の小姓頭取)の職たる、中奥に宿直す(後宮を称して大奥と為す。而して正寝及び近臣の宿直する所は皆中奥と称す)。日に左右に昵近す。生長して近臣の間に在るに非ざる自りは、則ち坐作言動、或いは法の如くする能わず。而るに彪、野人を以て其の職を任じ、又常に公の駕に扈従するの命を蒙る(所謂定御供)。更に所謂衣紋・猿楽等の事を掌り、其の用心尤も苦し。是れ彪が閑地を乞うて閑を得ざるの二なり。乙未の夏、転じて政府の吏と為る。己亥の歳、公令を発し、将に明年庚子を以て国に就かんとす。時に公、方に武備を修むるに務め、又士大夫を戒め、田禄の多寡に因りて兵馬器械を備えしむ。而るに巨室世家、皆軍用に乏し。

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