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回天詩史 / 刀水・江戸往来・蝦夷開拓の志と君臣丸の旅

水戶者再矣。皆閱月而歸。庚子之春。擢爲側用人。會公就藩。彪從焉。公嘗憂北虜猖獗。有開拓蝦夷之志。屢建議於幕府。及就藩。亦與閣老往復簡牘。而事情不通。乃託於他事。遣彪於江戶。以通其情。於是庚子辛丑。抵江戶者再矣。因是始獲見閣老濱松(水野越州)松代(眞田信州。信州嘗屢到小石川邸。與公論當世之務。彪與二三同志特命侍宴席。熟知侯之爲人。而其任閣老之後。執謁是爲始)二侯。又與一時有名之吏。矢部駿州(時稱左近將監。爲町奉行)岡本江州(時稱忠次郞。爲勘定吟味役)羽倉外記等相識也。或一閱月。或數閱月而歸。癸卯之春。公參府。將有日光之行。適彪墮馬傷足。就醫於下總扇島。不得從焉。月餘復常。會公召諸公子(五郞君。七郞君。八郞君。九郞君。十郞君)於藩邸。命彪俱就途。公旣拜日光神廟。六月就國。艤船於邸門之前。沿江戶川而下。過墨水抵行德。捨船從陸。館於大森。明日蚤抵木下風。水手隊長佐野勘兵衞。艤所謂君臣丸而待。風帆如飛。刀水兩岸及十六洲之民。爭出小艇。請牽纜。纜短艇多。雜遝諠譁。殆不可制。公命水手接纜以數百丈之繩。

新字:水戸者再矣。皆閲月而帰。庚子之春。擢為側用人。会公就藩。彪従焉。公嘗憂北虜猖獗。有開拓蝦夷之志。屡建議於幕府。及就藩。亦与閣老往復簡牘。而事情不通。乃託於他事。遣彪於江戸。以通其情。於是庚子辛丑。抵江戸者再矣。因是始獲見閣老浜松(水野越州)松代(真田信州。信州嘗屡到小石川邸。与公論当世之務。彪与二三同志特命侍宴席。熟知侯之為人。而其任閣老之後。執謁是為始)二侯。又与一時有名之吏。矢部駿州(時称左近将監。為町奉行)岡本江州(時称忠次郎。為勘定吟味役)羽倉外記等相識也。或一閲月。或数閲月而帰。癸卯之春。公参府。将有日光之行。適彪堕馬傷足。就医於下総扇島。不得従焉。月余復常。会公召諸公子(五郎君。七郎君。八郎君。九郎君。十郎君)於藩邸。命彪倶就途。公既拝日光神廟。六月就国。艤船於邸門之前。沿江戸川而下。過墨水抵行徳。捨船従陸。館於大森。明日蚤抵木下風。水手隊長佐野勘兵衛。艤所謂君臣丸而待。風帆如飛。刀水両岸及十六洲之民。争出小艇。請牽纜。纜短艇多。雑遝諠譁。殆不可制。公命水手接纜以数百丈之縄。

書き下し

水戸に抵ること再びす。皆月を閲して帰る。庚子の春、擢でられて側用人と為る。会〻公国に就く。彪、従う。公、嘗て北虜の猖獗を憂い、蝦夷を開拓するの志有り。屢〻議を幕府に建つ。国に就くに及び、亦閣老と簡牘を往復す。而れども事情通ぜず。乃ち他事に託し、彪を江戸に遣わして以て其の情を通ぜしむ。是に於いて庚子・辛丑、江戸に抵る者再びす。是れに因りて始めて閣老の浜松(水野越州)・松代(真田信州。信州嘗て屢〻小石川邸に到り、公と当世の務めを論ず。彪、二三の同志と特に宴席に侍することを命ぜらる。熟く侯の人と為りを知る。而れども其の閣老に任ぜられて後、執謁するは是れ始めと為す)の二侯に見ゆるを獲たり。又一時の有名の吏、矢部駿州(時に左近将監と称す。町奉行たり)・岡本江州(時に忠次郎と称す。勘定吟味役たり)・羽倉外記等と相識る。或いは一閲月、或いは数閲月にして帰る。癸卯の春、公参府し、将に日光の行有らんとす。適〻彪、馬より墜ちて足を傷つけ、医に下総の扇島に就く。従うを得ず。月餘にして常に復す。会〻公、諸公子(五郎君・七郎君・八郎君・九郎君・十郎君)を藩邸に召し、彪に命じて俱に途に就かしむ。公、既に日光の神廟を拝し、六月国に就く。船を邸門の前に艤し、江戸川に沿いて下り、墨水を過ぎて行徳に抵る。船を捨てて陸に従い、大森に館す。明日蚤に木下に抵る。風水手隊長佐野勘兵衛、所謂君臣丸を艤して待つ。風帆飛ぶが如し。刀水両岸及び十六洲の民、争って小艇を出し、纜を牽かんことを請う。纜短く艇多く、雑沓諠譁して殆ど制すべからず。公、水手に命じて、接ぐに数百丈の縄を以てす。

現代語訳

水戸に二度行き、いずれも一か月ほどして帰りました。天保十一年(庚子)の春、私は抜擢されて側用人になりました。ちょうど公が国元に帰られ、私も従いました。公はかつて北方の異国の勢いが盛んであることを憂え、蝦夷を開拓する志を持っておられました。たびたび幕府に意見を申し上げていました。国元に帰ってからも、老中と書簡を往復しましたが、事情が通じません。そこで他の用事にかこつけて、私を江戸に遣わして事情を通じさせました。こうして天保十一年・十二年、二度江戸に行きました。これにより初めて老中の浜松(水野越前守)と松代(真田信濃守。信濃守はかつて何度も小石川の邸に来て、公と当世の務めを論じた。私は二、三の同志とともに特に宴席に侍するよう命じられ、侯の人柄をよく知った。ただし、老中に任じられてから面会したのはこれが初めてである)の二侯に会うことができました。また当時の有名な役人であった矢部駿河守(当時は左近将監と称した。町奉行)、岡本近江守(当時は忠次郎と称した。勘定吟味役)、羽倉外記らと知り合いました。ある時は一か月、ある時は数か月して帰りました。天保十四年(癸卯)の春、公が参府し、日光に行かれることになりました。ちょうど私は落馬して足を傷め、下総の扇島で医者にかかっていました。お供に従うことができませんでした。一か月あまりで元に戻りました。ちょうど公が公子たち(五郎君・七郎君・八郎君・九郎君・十郎君)を藩邸に召し、私に命じてともに旅立たせました。公はすでに日光の神廟を拝まれ、六月に国元に戻られました。船を邸の門前に用意し、江戸川を下り、墨田川を過ぎて行徳に着きました。船を降りて陸路を行き、大森に泊まりました。翌日の朝、木下に着きました。風水手隊長の佐野勘兵衛が、いわゆる君臣丸を用意して待っていました。帆は風を受けて飛ぶようでした。利根川の両岸と十六洲の民は、争って小舟を出し、船の綱を引かせてほしいと願いました。綱は短く舟は多く、ごった返してさわぐさまは、ほとんど制しきれませんでした。公は水夫に命じて、数百丈の縄を継ぎ足しました。

解説

藩主は、北方の脅威への備えとして蝦夷開拓を幕府に建議しましたが、情報が通じず、作者を使者に立てました。ここで分かるのは、重要な構想ほど書簡だけでは伝わらず、人と人の直接の対話が必要だということです。管理職は、提案が通らないとき、資料の量や文面を増やす前に、決定権者との関係構築や直接の説明を検討する価値があります。また、船の綱を引きたいと民が集まる場面は、日ごろの信頼が自発的な協力を生むことを示しています。リーダーの誠実さは、行事の場でも表れます。

この章句が説くこと

回天詩史藤田東湖蝦夷開拓側用人君臣丸幕府との折衝

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