回天詩史 / 蝦夷の備え・増封を辞して蝦夷地を請う
併吞蝦夷。則松前旣失其府庫矣。松前不守。則三厩之外皆爲敵國。此其禍豈可與窺邊海者同日而語哉。因竊講其策者日久。初哀公季年國用不足。有司謂本藩封內幅員。比之尾紀二國廣狹懸隔。而儀仗鹵簿及諸事。與二國頡頏。成鼎立之勢。所以常苦於窮乏。元和建櫜。威公尙幼。倘使東照宮追見威公之長。則其增封也必矣。因有請增封之議。而哀公薨。至是國用告急。有司復爲以請。公曰土地人民所以賞有功。夫三百諸侯之浴恩澤者。皆非其祖先蹈鋒鏑冒矢石。則有勳勞於社稷也。今寡人以父祖餘澤。備員三藩。無毫髮報幕府。而徒以窮乏之望增封。何以示訓於諸侯。無已則蝦夷地方乎。有司愕然。公曰居吾語汝。昔者大猷公戒長崎奉行曰。內地戰爭彼此勝負。皆其一家之幸不幸耳。至於沒土地人民於夷狄。則日本之辱孰大焉。雖一寸一口。以死守之可也。夫蝦夷千島本我神州之地。其加模沙斯加者。旣出於蝦夷方言。則其地亦安知非源豫州所經略。(世傳源豫州實不死於奧州。竊遁於蝦夷。今蝦夷之俗。極愚癡。而曰義經則尊崇不啻。世之所傳。亦不偶然。所以公有斯言)而今鄂虜傲然據其地。千島之多。我僅守久奈志利惠登呂府二島。所失之地何啻一寸一尺。豈非千古之憤哉。然則鎭撫之術不可不講。開拓之策不可不盡。而議者皆謂蝦夷之地。瘠鹵不可耕。氣候極寒。陰霧四塞。僅有沿海諸港之可居。而其人愚闇柔弱。不知禮義。得其地不能生穀殖財。得其人不能施敎爲治。此信尋常迂腐之論耳。誠使偉略雄算如神禹者。隨山伐木
新字:併呑蝦夷。則松前既失其府庫矣。松前不守。則三厩之外皆為敵国。此其禍豈可与窺辺海者同日而語哉。因窃講其策者日久。初哀公季年国用不足。有司謂本藩封内幅員。比之尾紀二国広狭懸隔。而儀仗鹵簿及諸事。与二国頡頏。成鼎立之勢。所以常苦於窮乏。元和建櫜。威公尚幼。倘使東照宮追見威公之長。則其增封也必矣。因有請增封之議。而哀公薨。至是国用告急。有司復為以請。公曰土地人民所以賞有功。夫三百諸侯之浴恩沢者。皆非其祖先蹈鋒鏑冒矢石。則有勲労於社稷也。今寡人以父祖余沢。備員三藩。無毫髪報幕府。而徒以窮乏之望增封。何以示訓於諸侯。無已則蝦夷地方乎。有司愕然。公曰居吾語汝。昔者大猷公戒長崎奉行曰。内地戦争彼此勝負。皆其一家之幸不幸耳。至於没土地人民於夷狄。則日本之辱孰大焉。雖一寸一口。以死守之可也。夫蝦夷千島本我神州之地。其加模沙斯加者。既出於蝦夷方言。則其地亦安知非源予州所経略。(世伝源予州実不死於奥州。窃遁於蝦夷。今蝦夷之俗。極愚痴。而曰義経則尊崇不啻。世之所伝。亦不偶然。所以公有斯言)而今鄂虜傲然拠其地。千島之多。我僅守久奈志利恵登呂府二島。所失之地何啻一寸一尺。豈非千古之憤哉。然則鎮撫之術不可不講。開拓之策不可不尽。而議者皆謂蝦夷之地。瘠鹵不可耕。気候極寒。陰霧四塞。僅有沿海諸港之可居。而其人愚闇柔弱。不知礼義。得其地不能生穀殖財。得其人不能施教為治。此信尋常迂腐之論耳。誠使偉略雄算如神禹者。随山伐木
書き下し
蝦夷を併呑せば、則ち松前既に其の府庫を失ふ。松前守らざれば、則ち三厩の外は皆敵国と為らん。此の禍、豈に辺海を窺ふ者と同日にして語るべけんや。因りて竊かに其の策を講ずること日久し。初め哀公の季年、国用足らず。有司謂へらく、本藩の封内の幅員は、尾・紀二国に比して広狭懸隔す。而るに儀仗・鹵簿及び諸事は二国と頡頏し、鼎立の勢を成す。常に窮乏に苦しむ所以なり。元和に櫜を建つ。威公尚ほ幼し。倘し東照宮をして威公の長ずるを追見せしめば、則ち其の増封や必せり、と。因りて増封を請ふの議有り。而して哀公薨ず。是に至りて国用急を告げ、有司復た為に以て請はんとす。公曰く、土地人民は功有るを賞する所以なり。夫れ三百諸侯の恩沢に浴する者は、皆其の祖先の鋒鏑を蹈み矢石を冒し、社稷に勲労有るに非ざる無し。今寡人は父祖の余沢を以て、三藩に備員す。毫髪も幕府に報ゆる無くして、徒らに窮乏の望みを以て増封を請はば、何を以て訓を諸侯に示さん。已む無くんば、則ち蝦夷地方か、と。有司愕然たり。公曰く、居れ、吾れ汝に語げん。昔者大猷公、長崎奉行を戒めて曰く、内地の戦争は、彼此の勝負、皆其の一家の幸不幸のみ。土地人民を夷狄に没するに至りては、則ち日本の辱、孰れか大なるや。一寸一口と雖も、死を以て之を守るべし、と。夫れ蝦夷千島は本我が神州の地なり。其の加模沙斯加は、既に蝦夷の方言に出づれば、則ち其の地も亦た安んぞ源予州の経略する所に非ざるを知らん。(世に伝ふ、源予州は実は奥州に死せず、竊かに蝦夷に遁る、と。今蝦夷の俗、極めて愚癡なるに、義経と曰へば則ち尊崇すること啻ならず。世の伝ふる所も亦た偶然に非ず。公に斯の言有る所以なり)而るに今鄂虜傲然として其の地に拠り、千島の多き、我れ僅かに久奈志利・恵登呂府の二島を守る。失ふ所の地は何ぞ啻に一寸一尺のみならん。豈に千古の憤りに非ずや。然らば則ち鎮撫の術は講ぜざるべからず、開拓の策は尽くさざるべからず。而るに議者皆謂ふ、蝦夷の地は、瘠鹵にして耕すべからず、気候極寒にして陰霧四塞し、僅かに沿海諸港の居るべき有るのみ。其の人は愚闇柔弱にして礼義を知らず。其の地を得ても穀を生じ財を殖やす能はず、其の人を得ても教を施し治を為す能はず、と。此れ信に尋常迂腐の論のみ。誠に偉略雄算神禹の如き者をして、山に随ひて木を伐り
現代語訳
蝦夷を併呑されれば、松前はもう財貨の蔵を失います。松前が守れなければ、三厩の外はすべて敵国になるでしょう。この禍は、辺海をうかがう者と同日に語ることはできません。そこでひそかにその策を講じることを、長く続けてきました。初め、哀公の末年、国の費用が足りませんでした。役人は言いました。わが藩の領内の広さは、尾張・紀伊の二国と比べて広狭に隔たりがあります。しかし儀仗や行列、その他の事は二国と肩を並べ、鼎立の勢いを成しています。常に窮乏に苦しむ理由です。元和年間に武器を収めたとき、威公はまだ幼かった。もし東照宮が威公の成長をその後に見ていたなら、増封は必ずあったでしょう、と。そこで増封を請う議論が起こりましたが、哀公が亡くなりました。この時に至り、国の費用が急を告げ、役人はまた増封を請おうとしました。公は言いました。土地や人民は、功のある者を賞するものである。三百の大名で恩沢を受けている者は、皆その祖先が鋒鏑を踏み、矢石を冒して、国家に功労があったからではないか。いま私は父祖の余沢により、三藩の末席に名を連ねている。毫も幕府に報いることなく、ただ窮乏を理由に増封を請えば、諸侯にどう範を示せようか。やむを得ないなら、蝦夷地方である、と。役人は驚き愕然としました。公は言いました。座れ、お前たちに話そう。昔、大猷公(家光)が長崎奉行を戒めて言った。内地の戦争は、あれこれの勝負も、すべてその一家の幸不幸にすぎない。土地や人民を夷狄に没することになれば、日本の恥として、これより大きいものがあろうか。一寸の土地、一人の口でも、死んで守れ、と。蝦夷・千島はもともとわが神州の地である。そのカムチャツカという名は、すでに蝦夷の方言から出ているのだから、その地もまた、源予州(義経)が経略した所でないとどうして言えようか。(世に伝わる話では、源予州(義経)は実は奥州で死なず、ひそかに蝦夷に逃れた、とされます。今、蝦夷の人々の風俗は極めて愚かで素朴なのに、義経と言えば尊崇することは並一通りではありません。世の伝えも偶然ではありません。公がこの言葉を言う理由です)それなのに、いまロシアは傲然とその地に居座り、千島の多くの島のうち、わが方はわずかにクナシリ・エトロフの二島を守るだけである。失った土地は、一寸一尺どころではない。千年の憤りではないか。そうであれば、鎮撫の術は講じなければならず、開拓の策は尽くさなければならない。ところが議論する者は皆言います。蝦夷の地はやせて塩気があり耕せず、気候は極寒で霧が四方に立ちこめ、わずかに沿海の諸港に住める所があるだけである。その人は愚かで柔弱で、礼義を知らない。その地を得ても穀物を育て財を増やせず、その人を得ても教化を施して治めることができない、と。これは実に尋常で迂遠な腐った論にすぎません。もし、偉大な策略と雄大な計算を持つ神禹(夏の禹王)のような者が、山に従って木を伐り
解説
この章句が説くこと
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