春秋左氏伝 / 哀公七年 猶ほ鐘声を聞く
秋。伐邾。及范門。猶聞鍾聲。大夫諫。不聽。茅成子請告於吳。不許。曰。魯擊柝聞於邾。吳二千里。不三月不至。何及於我。且國內豈不足。成子以茅叛。師遂入邾。處其公宮。眾師晝掠。邾眾保于繹。師宵掠。以邾子益來。獻于亳社。囚諸負瑕。負瑕故有繹。邾茅夷鴻以束帛乘韋。自請救於吳。曰。魯弱晉而遠吳。馮恃其眾而背君之盟。辟君之執事。以陵我小國。邾非敢自愛也。懼君威之不立。君威之不立。小國之憂也。若夏盟於鄫衍。秋而背之。成求而不違。四方諸侯。其何以事君。且魯賦八百乘。君之貳也。邾賦六百乘。君之私也。以私奉貳。唯君圖之。吳子從之。宋人圍曹。鄭桓子思曰。宋人有曹。鄭之患也。不可以不救。
新字:秋。伐邾。及范門。猶聞鍾声。大夫諫。不聴。茅成子請告於呉。不許。曰。魯撃柝聞於邾。呉二千里。不三月不至。何及於我。且国内豈不足。成子以茅叛。師遂入邾。処其公宮。衆師昼掠。邾衆保于繹。師宵掠。以邾子益来。献于亳社。囚諸負瑕。負瑕故有繹。邾茅夷鴻以束帛乗韋。自請救於呉。曰。魯弱晋而遠呉。馮恃其衆而背君之盟。辟君之執事。以陵我小国。邾非敢自愛也。懼君威之不立。君威之不立。小国之憂也。若夏盟於鄫衍。秋而背之。成求而不違。四方諸侯。其何以事君。且魯賦八百乗。君之貳也。邾賦六百乗。君之私也。以私奉貳。唯君図之。呉子従之。宋人囲曹。鄭桓子思曰。宋人有曹。鄭之患也。不可以不救。
書き下し
秋、邾を伐ち、范門に及ぶ。猶ほ鍾聲を聞く。大夫諫むるも、聽かず。茅成子、吳に告げんことを請ふ。許さずして曰く、「魯は柝を擊てば邾に聞こゆ。吳は二千里、三月ならずんば至らず。何ぞ我に及ばん。且つ國內豈に足らざらんや」と。成子、茅を以て叛く。師遂に邾に入り、其の公宮に處る。眾師晝に掠む。邾の眾は繹に保つ。師宵に掠む。邾子益を以て來り、亳社に獻じ、諸を負瑕に囚ふ。負瑕、故に繹有り。邾の茅夷鴻、束帛乘韋を以て、自ら救ひを吳に請ひて曰く、「魯は晉を弱しとして吳を遠しとし、其の眾を馮恃して君の盟に背き、君の執事を辟(さ)けて、以て我が小國を陵ぐ。邾は敢へて自ら愛むに非ず。君の威の立たざるを懼るるなり。君の威の立たざるは、小國の憂ひなり。若し夏に鄫衍に盟ひて、秋にして之に背き、求むるを成して違はずんば、四方の諸侯、其れ何を以てか君に事へん。且つ魯の賦は八百乘、君の貳なり。邾の賦は六百乘、君の私なり。私を以て貳に奉ずるは、唯だ君之を圖れ」と。吳子之に從ふ。宋人曹を圍む。鄭の桓子思曰く、「宋人曹を有たば、鄭の患ひなり。以て救はざるべからず」と。
現代語訳
秋、魯は邾を攻め、(邾の都の)范門まで迫った。それでも邾の宮中からは鐘の音が聞こえていた(邾子は音楽にふけっていた)。邾の大夫たちが諫めたが、邾子は聞き入れなかった。茅成子(ぼうせいし、茅夷鴻)が呉に急を告げたいと願い出たが、邾子は許さずに言った。「魯で拍子木を打てば邾に聞こえるほど近い。呉は二千里も離れていて、三か月たたなければ着かない。どうしてわが国の役に立とう。それに国内の力だけで足りないことがあろうか」。成子は茅の邑ごと背いた。魯の軍はついに邾に入り、その公宮に陣取った。魯の諸軍は昼に略奪した。邾の人々は繹山に立てこもった。魯の軍は夜にも略奪した。邾子益を連れて帰り、亳社(はくしゃ、殷の遺民の社)に捕虜として献じ、負瑕に幽閉した。負瑕に繹という地名(邾から連れてきた人々の居住地)があるのはこのためである。邾の茅夷鴻は、束ねた絹と四枚のなめし革を携え、自ら呉に救援を求めて言った。「魯は晋を弱いと見くびり、呉を遠いと侮って、兵の多さを頼みに君との盟約に背き、君の役人がたを避けて、わが小国をしのぎました。邾は自分の身を惜しんで申すのではありません。君の威信が立たなくなることを恐れているのです。君の威信が立たないのは、小国にとっての憂いです。もし夏に鄫衍で盟約を結び、秋にはそれに背いたのに、魯が望みを遂げて咎めもなければ、四方の諸侯は何を頼みに君に仕えましょうか。それに魯の兵賦は戦車八百乗で、君に匹敵する相手です。邾の兵賦は六百乗で、君の手の内にある国です。手の内の国を、匹敵する相手に差し出してしまうのかどうか、どうか君がお考えください」。呉子はこれに従った。宋が曹を包囲した。鄭の桓子思(かんしし、国参)が言った。「宋が曹を手に入れれば、鄭にとっての患いとなる。救わないわけにはいかない」。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』定公六年 乃ち今為すべし四月己丑、吳の大子終纍、楚の舟師を敗り、潘子臣・小惟子及び大夫七人を獲。楚國大いに惕れ、亡びんことを懼る。子期、又陵師を以て繁揚に敗る。令尹子西、喜びて曰く、「乃ち今為すべし」と。是に於いてか郢を鄀に遷して、其の政を改紀し、以て楚國を定む。周の儋翩、王子朝の徒を率ゐ、鄭人に因りて將に以て亂を周に作さんとす。鄭、是に於いてか馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外を伐つ。六月、晉の閻沒、周を戍り、且つ胥靡に城く。
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『春秋左氏伝』成公七年 懼るるを知る七年春、吳郯を伐つ。郯成す。季文子曰く、「中國旅を振るはず、蠻夷入りて伐つ。而して之を或いは恤ふる莫し。弔ふ者無きなり夫。詩に曰く、『昊天に弔(いた)まれず、亂定まる靡し』と。其れ此の謂か。上に弔はざる有らば、其れ誰か亂を受けざらん。吾が亡ぶること日無からん」と。君子曰く、「懼るるを知ること是くの如くならば、斯に亡びず」と。鄭の子良成公に相として以て晉に如きて見え、且つ師を拜す。夏、曹の宣公來朝す。秋、楚の子重鄭を伐ち、氾に師す。諸侯鄭を救ふ。鄭の共仲・侯羽、楚の師に軍し、鄖公鍾儀を囚へて、諸を晉に獻ず。
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『驢鞍橋』卷上一日去る長老来云、某此比坐禅の時、只今死す死すと云ふ気少しの間起る也。是れは気のへりたる儀なるへしや。師聞て曰く、夫れは内より我に授くる也、第一能事也。此機起らさる者は、外より授くる事也。
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説苑・善說蘧伯玉使いして楚に至る。公子皙に濮水の上に逢う。子皙草を接げて待ちて曰く、「敢えて問う上客將に何くにか之かんとする。」蘧伯玉之が爲に車に軾す。公子皙曰く、「吾聞く、上士は以て色を託すべく、中士は以て辭を託すべく、下士は以て財を託すべし、三者固より身を託すを得べきか。」蘧伯玉曰く、「謹んで命を受けん。」蘧伯玉楚王に見ゆ。使事畢りて、坐して談話し、從容として言い士に至る。楚王曰く、「何れの國か最も士多き。」蘧伯玉曰く、「楚最も士多し。」楚王大いに悅ぶ。蘧伯玉曰く、「楚最も士多くして楚用うる能わず。」王造然として曰く、「是れ何の言ぞや。」蘧伯玉曰く、「伍子胥楚に生まれて之を吳に逃る。吳受けて之を相とす。兵を發して楚を攻め、平王の墓を墮す。伍子胥楚に生まれて、吳善く之を用う。蚡黃を釁して楚に生まれ、之を晉に走らしめ、七十二縣を治め、道遺を拾わず、民妄りに得ず、城郭閉ざさず、國に盜賊無し。蚡黃楚に生まれて晉善く之を用う。今者臣の來るや、公子皙に濮水の上に逢う。辭に言う、『上士は以て色を託すべく、中士は以て辭を託すべく、下士は以て財を託すべし、三者固より身を託すを得べきか。』又た公子皙將に何くにか治めんとするかを知らず。」是に於て楚王使い一駟を發し、副使二乘、公子皙を濮水の上に追う。子皙楚に還り重んぜらる、蘧伯玉の力なり。故に詩に曰く、「誰か能く魚を烹ん、之を釜鬵に溉がん、孰か將に西に歸らんとす、之に好音を懷かん。」此れを之れ謂うなり。物の相得るは、固より微甚たり。
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