回天詩史 / 自驚塵垢盈皮膚・獄中の暮らしと正気歌の餞別
余以本月二日發家。而前數日獲疾。以故不浴者殆三句。今旣瘳矣。爲水之乏。僅盥漱洗面而止。當是夏日。蒸熱逼人。發汗淋漓。衣服日汚。臭氣衝鼻。因一搔皮膚。則蝨亦入爪。不啻子厚所謂塵垢也。古諺云。湯沐具而蟣蝨相弔。余之具湯沐。不知在何日。則蟣蝨相慶。而樂年豐於褌衣之間。必矣。亦可一笑。因忽憶前月念七。訪武田伯道於箕川。(伯道固與余友善。而以余小妹歸於其長子正勝。今爲姻戚。其宅本在黑羽根街。箕川本妙雲寺之地。及去歲癸卯。毀妙雲寺。賜其址於伯道。伯道遂移而居焉)伯道攜酒肴而出。餞余於綠岡之傍。適原田在座。蓋二人竊患余之行。離情尤切。殆有易水之趣。而余亦不能無怒髮衝冠之態。酒酣耳熱。原田出一大紙。乞余書。余爲書文天祥正氣歌。寫余心事。以爲留別。當時余唯取於天祥正氣凜凜。殺身成仁。今而思之。其所謂夏日諸氣萃然四集者。亦似爲余今日之兆。可謂奇矣。抑余之舍雖矮。比之於天祥土室。猶玉堂華屋。則塵垢之盈爪。蟣蝨之侵膚。未足以吾正氣之敵之也(五月二十六日錄)
新字:余以本月二日発家。而前数日獲疾。以故不浴者殆三句。今既瘳矣。為水之乏。僅盥漱洗面而止。当是夏日。蒸熱逼人。発汗淋漓。衣服日汚。臭気衝鼻。因一搔皮膚。則蝨亦入爪。不啻子厚所謂塵垢也。古諺云。湯沐具而蟣蝨相弔。余之具湯沐。不知在何日。則蟣蝨相慶。而楽年豊於褌衣之間。必矣。亦可一笑。因忽憶前月念七。訪武田伯道於箕川。(伯道固与余友善。而以余小妹帰於其長子正勝。今為姻戚。其宅本在黒羽根街。箕川本妙雲寺之地。及去歳癸卯。毀妙雲寺。賜其址於伯道。伯道遂移而居焉)伯道攜酒肴而出。餞余於緑岡之傍。適原田在座。蓋二人窃患余之行。離情尤切。殆有易水之趣。而余亦不能無怒髪衝冠之態。酒酣耳熱。原田出一大紙。乞余書。余為書文天祥正気歌。写余心事。以為留別。当時余唯取於天祥正気凜凜。殺身成仁。今而思之。其所謂夏日諸気萃然四集者。亦似為余今日之兆。可謂奇矣。抑余之舎雖矮。比之於天祥土室。猶玉堂華屋。則塵垢之盈爪。蟣蝨之侵膚。未足以吾正気之敵之也(五月二十六日録)
書き下し
余は本月二日を以て家を発す。而るに数日前、疾を獲たり。以て浴せざること殆ど三旬。今既に瘳ゆ。水の乏しきが為に、僅かに盥漱洗面して止む。是の夏日に当たり、蒸熱人に逼り、汗を発すること淋漓として、衣服日に汚る。臭気鼻を衝く。因りて一たび皮膚を搔けば、則ち蝨も亦た爪に入る。啻に子厚の所謂塵垢のみならず。古諺に云ふ、湯沐具はれば蟣蝨相弔す、と。余の湯沐を具ふること、何れの日に在るを知らず。則ち蟣蝨相慶びて、年の豊かなるを褌衣の間に楽しまんこと、必せり。亦た一笑すべし。因りて忽ち憶ふ、前月念七、武田伯道を箕川に訪ふ。(伯道は固より余と友として善し。而して余が小妹を以て其の長子正勝に帰がしめ、今は姻戚と為る。其の宅は本黒羽根街に在り。箕川は本妙雲寺の地なり。去歳癸卯に及び、妙雲寺を毀ち、其の址を伯道に賜ふ。伯道遂に移りて居る)伯道は酒肴を携へて出で、余を緑岡の傍に餞す。適々原田座に在り。蓋し二人は竊かに余の行を患ひ、離情尤も切なり。殆ど易水の趣有り。而して余も亦た怒髪衝冠の態無き能はず。酒酣にして耳熱するに、原田一大紙を出して余の書を乞ふ。余、為に文天祥の正気歌を書き、余の心事を写して、以て留別と為す。当時余は唯だ天祥の正気凜凜、殺身成仁に取るのみ。今にして之を思へば、其の所謂夏日諸気萃然として四集す、とは、亦た余の今日の兆と為るに似たり。奇と謂ふべし。抑も余の舎は矮しと雖も、之を天祥の土室に比すれば、猶ほ玉堂華屋のごとし。則ち塵垢の爪に盈ち、蟣蝨の膚を侵すは、未だ以て吾が正気の敵とするに足らざるなり。(五月二十六日録す)
現代語訳
私は今月二日に家を出ました。しかしその数日前に病を得ました。そのため入浴しないことが三十日近くなりました。今は病は治りましたが、水が乏しいので、わずかに手や口を洗い、顔を洗うだけです。この夏の日に、蒸し暑さが迫り、汗が流れ落ちて、衣服は日ごとに汚れ、臭いが鼻を突きます。そこで一度皮膚を搔くと、虱までもが爪に入ります。柳子厚(柳宗元)の言う塵垢どころではありません。古い諺に、湯あみの道具が整えば、虱の仲間が互いに弔い合う、とあります。私が湯あみの支度をするのは、いつの日かわかりません。そうなれば、虱は互いに祝って、ふんどしや下着の間で豊年を楽しんでいるに違いありません。これも笑うべきことです。そこで、ふと思い出しました。先月の二十七日、武田伯道を箕川に訪ねました。(伯道はもともと私の親友で、私の小妹を彼の長子の正勝に嫁がせ、いまは姻戚です。その家はもと黒羽根街にありました。箕川はもと妙雲寺の地でした。昨年の癸卯の年に、妙雲寺を取り壊し、その跡地を伯道に賜りました。伯道はそこに移って住んでいます)伯道は酒と肴を携えて出てきて、緑岡の傍らで私を送別してくれました。たまたま原田が同席していました。二人は私の出立をひそかに憂え、離別の情がとりわけ切実でした。ほとんど易水の別れの趣がありました。私も怒髪天を衝くような様子を抑えられませんでした。酒が酣になり、耳が熱くなったころ、原田が大きな紙を出して私に揮毫を乞いました。私は彼のために文天祥の『正気歌』を書き、私の心事を写して、別れの記念としました。当時、私はただ天祥の正気が凜凜として、身を殺して仁を成すという点を取りました。今思えば、その中の、夏の日にもろもろの気が集まる、という句は、今日の私の兆しだったようです。不思議なことです。そもそも私の家は小さいといっても、天祥の土の牢に比べれば、玉の御殿のような立派な家です。ですから、塵垢が爪に満ちること、虱が肌を侵すことは、私の正気の敵とするには足りません。(五月二十六日に記す)
解説
この章句が説くこと
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