回天詩史 / 題・序・幽閉の身が詩に史を託した序
回天詩史卷之上水戸 藤田彪斌卿題并錄述懷有序余之獲罪屏居也。偶得三決死矣而不死之句。既而又就其韻。廑二十五回渡刀水之句。每得一句追懷往事。感慨四集。乃就其句。錄事實於左。如此者連日。遂成八韻十四句。其句亦爲十一篇。其敍事。或觸類而長之。或託物而發之。雖固出於遣悶泄鬱之餘。亦可以觀世變矣。因命曰詩史。其冠以回天二字者。蓋竊有微意存焉。然言頗觸忌諱。亦事多機密。非敢示於他人。聊遺於子孫云三決死矣而不死。二十五回渡刀水。五乞閑地不得閑。三十九年七處徙。邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。自驚塵垢盈皮膚。猶餘忠義填骨髓。嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。苟明大義正人心。皇道奚患不興起。斯心奮發誓神明。古人云斃而後已
新字:回天詩史巻之上水戸 藤田彪斌卿題并録述懐有序余之獲罪屏居也。偶得三決死矣而不死之句。既而又就其韻。廑二十五回渡刀水之句。毎得一句追懐往事。感慨四集。乃就其句。録事実於左。如此者連日。遂成八韻十四句。其句亦為十一篇。其叙事。或触類而長之。或託物而発之。雖固出於遣悶泄鬱之余。亦可以観世変矣。因命曰詩史。其冠以回天二字者。蓋窃有微意存焉。然言頗触忌諱。亦事多機密。非敢示於他人。聊遺於子孫云三決死矣而不死。二十五回渡刀水。五乞閑地不得閑。三十九年七処徙。邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。自驚塵垢盈皮膚。猶余忠義填骨髄。嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。苟明大義正人心。皇道奚患不興起。斯心奮発誓神明。古人云斃而後已
書き下し
回天詩史 巻之上 水戸 藤田彪斌卿 題し并びに述懐を録す 序有り。余の罪を獲て屏居するや、偶〻三たび死を決して而も死せずの句を得たり。既にして又其の韻に就き、廑かに二十五回刀水を渡るの句あり。一句を得る毎に往事を追懐し、感慨四つながら集まる。乃ち其の句に就き、事実を左に録す。此の如き者連日、遂に八韻十四句を成す。其の句も亦十一篇と為す。其の事を敍するや、或いは類に触れて之を長じ、或いは物に託して之を発す。固より憂いを遣り鬱を泄らすの餘に出ずと雖も、亦以て世変を観るべし。因りて命じて詩史と曰う。其の冠するに回天の二字を以てするは、蓋し竊かに微意の存する有り。然れども言頗る忌諱に触れ、亦事に機密多し。敢えて他人に示すに非ず、聊か子孫に遺すと云う。三たび死を決して而も死せず。二十五回刀水を渡る。五たび閑地を乞うて閑を得ず。三十九年七たび処を徙る。邦家の隆替は偶然に非ず。人生の得失豈に徒爾ならんや。自ら驚く塵垢の皮膚に盈つるを。猶お餘す忠義の骨髄に填つるを。嫖姚・定遠は期すべからず。丘明・馬遷は空しく自ら企つ。苟くも大義を明らかにし人心を正さば、皇道奚ぞ興起せざるを患えん。斯の心奮発して神明に誓う。古人云う、斃れて後已むと。
現代語訳
『回天詩史』巻の上。水戸の藤田彪(斌卿)が題を付け、あわせて思いを述べます。序があります。私が罪を得て謹慎の身となったとき、たまたま「三たび死を決して而も死せず」の句を得ました。その後、同じ韻で「二十五回刀水を渡る」の句も得ました。一句を得るたびに過去を思い出し、さまざまな感慨が集まります。そこでその句に沿って事実を以下に記しました。そうして連日書き続け、ついに八韻十四句の詩ができ、その句ごとに十一の篇になりました。出来事を述べるにあたり、ある時は同類の事に触れて話を広げ、ある時は物事に託して思いを述べています。もとより憂さや鬱屈を晴らすためのものですが、世の移り変わりを見る手がかりにもなるでしょう。そこで「詩史」と名づけました。その上に「回天」の二字を冠したのは、ひそかに込めた思いがあるからです。ただ、言葉は忌み憚るべき点に触れ、事柄にも機密が多いので、他人に見せるつもりはなく、わずかに子孫に残すだけだということです。(詩)三度死を覚悟して、しかも死ななかった。二十五回、利根川を渡った。五度、閑職を願って、閑を得られなかった。三十九年のあいだに七度住まいを移した。国家の盛衰は偶然ではない。人生の得失もどうして理由なくあろうか。我ながら驚くのは、塵や垢が皮膚に満ちていることだ。それでもなお、忠義が骨の髄に満ちている。嫖姚(霍去病)や定遠(班超)のような功は望めない。丘明(左丘明)や馬遷(司馬遷)のような史書の筆も、むなしくあこがれるだけだ。もし大義を明らかにして人心を正すなら、皇道が興らないことを心配するだろうか。この心を奮い立たせて神明に誓う。古人は言った、倒れて後にやむ、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公十四年 陳恒、簡公を弑す六月、左師巢をして之を伐たしむ。大夫を質として以て入らんと欲す。能はず。亦た曹に入りて質を取らんとす。魋曰く、「不可なり。既に君に事ふる能はず、又罪を民に得ば、將に之を若何せん」と。乃ち之を舍(ゆる)す。民遂に之に叛く。向魋衛に奔る。向巢來奔す。宋公之を止めしめて曰く、「寡人子と言有り。以て向氏の祀を絕つ可からず」と。辭して曰く、「臣の罪大なり。盡く桓氏を滅ぼすも可なり。若し先臣の故を以て、後有らしめば、君の惠なり。臣の若きは則ち以て入る可からず」と。司馬牛其の邑と珪とを致して、齊に適く。向魋衛の地に出づ。公文氏之を攻め、夏后氏の璜を求む。之に他の玉を與へて、齊に奔る。陳成子次卿と為さしむ。司馬牛又其の邑を致して、吳に適く。吳人之を惡みて反る。趙簡子之を召き、陳成子も亦た之を召く。魯の郭門の外に卒す。阬氏諸を丘輿に葬る。甲午、齊の陳恆其の君壬を舒州に弒す。孔丘三日齊(ものいみ)して、齊を伐たんことを請ふこと三たび。公曰く、「魯の齊の為に弱めらるること久し。子の之を伐つ、將に之を若何せん」と。對へて曰く、「陳恆其の君を弒す。民の與せざる者半ばなり。魯の眾を以て、齊の半ばに加へば、克つ可きなり」と。公曰く、「子季孫に告げよ」と。孔子辭す。退きて人に告げて曰く、「吾大夫の後に從ふを以てなり。故に敢へて言はずんばあらず」と。初め孟孺子洩將に馬を成に圉(か)はんとす。成の宰公孫宿受けずして曰く、「孟孫成の病なるが為に、焉に馬を圉はず」と。孺子怒り、成を襲ふ。從者入るを得ず。乃ち反る。成の有司使ひす。孺子之を鞭うつ。秋八月辛丑、孟懿子卒す。成人喪に奔る。內(い)れず。袒免して衢に哭し、共を聽かんとす。許さず。懼れて歸らず。
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史記 周本紀是に於て武王遍く諸侯に告げて曰く、「殷重罪有り、以て畢く伐たざる可からず」と。乃ち文王に遵ひ、遂に戎車三百乗、虎賁三千人、甲士四万五千人を率ゐて、以て東のかた紂を伐つ。十一年十二月戊午、師畢く盟津を渡り、諸侯咸会す。曰く、「孳孳として怠ること無かれ」と。武王乃ち太誓を作り、衆庶に告ぐ。「今殷王紂乃ち其の婦人の言を用ゐ、自ら天に絶ち、其の三正を毀壊し、其の王父母弟を離逖し、乃ち其の先祖の楽を断棄し、乃ち淫声を為り、用て正声を変乱し、婦人を怡説せしむ。故に今予発維れ共に天罰を行ふ。勉めよや夫子、再びす可からず、三たびす可からず」と。二月甲子の昧爽、武王朝に商の郊の牧野に至り、乃ち誓ふ。武王左に黄鉞を杖き、右に白旄を秉りて、以て麾く。曰く、「遠きかな西土の人」と。武王曰く、「嗟、我が有国の冢君、司徒・司馬・司空、亜旅・師氏、千夫長・百夫長、及び庸・蜀・羌・髳・微・纑・彭・濮の人、爾の戈を称げ、爾の干を比べ、爾の矛を立てよ。予其れ誓はん」と。王曰く、「古人言へる有り、『牝雞は晨する無し。牝雞の晨するは、惟れ家の索くるなり』と。今殷王紂は維れ婦人の言を是れ用ゐ、自ら其の先祖の肆祀を棄てて答へず、昏くして其の家国を棄て、其の王父母弟を遺てて用ゐず、乃ち維れ四方の多罪の逋逃を、是れ崇び是れ長とし、是れ信じ是れ使ひ、百姓に暴虐し、以て商国に姦軌せしむ。今予発維れ共に天の罰を行ふ。今日の事は、六歩七歩を過ぎずして、乃ち止まりて斉へよ。夫子勉めよや。四伐五伐六伐七伐を過ぎずして、乃ち止まりて斉へよ。勉めよや夫子。尚はくは桓桓として、虎の如く羆の如く、豺の如く離の如く、商の郊に于いて、奔るを御ぐことなく、以て西土に役せしめよ。勉めよや夫子。爾勉めざる所あらば、其れ爾の身に于いて戮有らん」と。
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『驢鞍橋』卷上壬辰霜月十一日の晩、去る寺に到る次で、大衆に対して曰く、当寺の大衆一様に志出来、目出度事也。次第に大事も起るべし。兎角此中から起るべし。是れ仏法繁昌の基也。則ち示曰、仏法の至極したる処を大義と云ふ也。義無くして修行成るべからす。今人間に生を得、殊に仏弟子と為りながら、餓鬼畜生の心にて居る事無念なりと思ひ定め、血の涙を流し、跳り上つて仏意を修せで不叶と、自ら眼をすゑ拳を握り、咦と牙を咬み給ふ。
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史記 楚世家九年、若敖氏に相たり。人或いは之を王に讒す。誅せられんことを恐れ、反って王を攻む。王撃ちて若敖氏の族を滅ぼす。十三年、舒を滅ぼす。十六年、陳を伐ち、夏徴舒を殺す。徴舒其の君を弑す。故に之を誅するなり。已に陳を破り、即ち之を県とす。群臣皆賀す。申叔時斉に使ひして来たり、賀せず。王問ふ。対へて曰く、「鄙語に曰く、牛を牽きて人の田を徑(わた)れば、田主其の牛を取る、と。徑る者は則ち直からず。之が牛を取るは亦た甚だしからずや。且つ王陳の乱を以て諸侯を率ゐて之を伐つ。義を以て之を伐ちて其の県を貪る。亦た何を以て復た天下に令せん」と。荘王乃ち陳の後を復国す。十七年春、楚の荘王鄭を囲み、三月にして之に克つ。皇門より入る。鄭伯肉袒し羊を牽きて以て逆へて曰く、「孤天ならず、君に事ふること能はず。君用て怒りを懐き、以て敝邑に及ぶ。孤の罪なり。敢て惟だ命を是れ聴かざらんや。之を南海に賓(しりぞ)くるも、若しくは臣妾を以て諸侯に賜ふも、亦た惟だ命を是れ聴かん。若し君厲・宣・桓・武を忘れず、其の社稷を絶たず、改めて君に事へしめば、孤の願ひなり。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。楚の群臣曰く、「王許すこと勿かれ」と。荘王曰く、「其の君能く人に下る。必ず能く其の民を信用せん。庸ぞ絶つべけんや」と。荘王自ら旗を手にし、左右に軍を麾(さしまね)き、兵を引きて去ること三十里にして舎り、遂に之に平らぐことを許す。潘尪入りて盟ひ、子良出でて質たり。夏六月、晋鄭を救ひ、楚と戦ふ。大いに晋の師を河上に敗り、遂に衡雍に至りて帰る。二十年、宋を囲む。楚の使ひを殺せしを以てなり。宋を囲むこと五月、城中食尽き、子を易へて食らひ、骨を析きて炊ぐ。宋の華元出でて告ぐるに情を以てす。荘王曰く、「君子なるかな」と。遂に兵を罷めて去る。二十三年、荘王卒し、子の共王審立つ。共王の十六年、晋鄭を伐つ。鄭急を告ぐ。共王鄭を救ふ。晋の兵と鄢陵に戦ふ。晋楚を敗り、共王の目に射中つ。共王将軍子反を召す。
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『甲陽軍鑑』品第十二子細は未の年八月より上野平井へ来りて、関東八州へ触状をまはし申し含めらるゝは、旣に関東の公方持氏公天運尽き、永享十二庚申に都の公方より誅罰し給ひ、御子の賢王丸殿·春王丸殿·泰王丸殿此の三人の若君迄ころしまいらせ候を、氏康取り立てらるゝこと非義の至りなり、都より近衛殿を申し請け公方に取り立てまいらせ、上杉管領を仕すへ申さんため、御守りに長尾謙信景虎是れ迄参りたり、氏康は北条なり、北条は平家なり、各これにしたがひ給ふこと勿体なしと申すに付き、関八州尤もと同じける故、氏康また元の伊豆·相摸はかりに成るに付き、蓮池迄をしこまるゝ、
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史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。

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