回天詩史 / 武備と海防・稗倉と飢饉救済・大調練・海防
乃賜手書於郡宰。勵以至誠。郡宰亦竭力賑恤。既大開稗倉(俗稱稗倉。義公所創。爾來繼述。見在各部諸村。備豫凶荒之術。世多其說。而蓄米則苦於以新易舊。其積粟亦不能三十年。且財利之臣。或視以爲無術。必生貪人收息之說。及數年之後。則逋負日多。儲蓄日減。至其甚則變米粟爲金錢。以濟一時之急。豫備之政是以不遂。若我稗倉。則年年取定額於民。實之於倉耳。其術似拙。而稗之爲物。經百歲之久而不變。欲糴之於年穀豐穰之日。則其價甚賤而無利。用之於飢餓凶歉之時。則味淡而善飽。自義公創建。至今百數十年。而闔國免飢餓之患者。稗倉之力居多。則其似拙者可謂甚巧。爲政者。設常平之倉。以均平年之米價。又置稗倉以備凶歲之患。則庶乎民被其澤矣)賑之。又豫設賞科。令富民救貧窮。又散姦商竊藏穀者。以頒遠近。於是二歲凶荒。闔境無一人餓死者。其餘澤波及境外近傍之民者亦不少。於是人皆懷公之慈仁。而自其妬者而觀之。則益妬焉。庚子歲公就藩。請介冑講兵於野。幕府允之。以每年三月。大蒐於城南仙坡原。四方來觀不知其幾萬人。巨礮之聲或震於北總。(聞之於北總扇島醫生及香取祠官云)人皆駭其壯觀。爲天下無比。而自其嫉者而觀之。則益嫉焉。壬寅歲幕府發令。使濱海之國嚴其海防。
新字:乃賜手書於郡宰。励以至誠。郡宰亦竭力賑恤。既大開稗倉(俗称稗倉。義公所創。爾来継述。見在各部諸村。備予凶荒之術。世多其説。而蓄米則苦於以新易旧。其積粟亦不能三十年。且財利之臣。或視以為無術。必生貪人収息之説。及数年之後。則逋負日多。儲蓄日減。至其甚則変米粟為金銭。以済一時之急。予備之政是以不遂。若我稗倉。則年年取定額於民。実之於倉耳。其術似拙。而稗之為物。経百歳之久而不変。欲糴之於年穀豊穰之日。則其価甚賤而無利。用之於飢餓凶歉之時。則味淡而善飽。自義公創建。至今百数十年。而闔国免飢餓之患者。稗倉之力居多。則其似拙者可謂甚巧。為政者。設常平之倉。以均平年之米価。又置稗倉以備凶歳之患。則庶乎民被其沢矣)賑之。又予設賞科。令富民救貧窮。又散姦商窃蔵穀者。以頒遠近。於是二歳凶荒。闔境無一人餓死者。其余沢波及境外近傍之民者亦不少。於是人皆懐公之慈仁。而自其妬者而観之。則益妬焉。庚子歳公就藩。請介冑講兵於野。幕府允之。以毎年三月。大蒐於城南仙坡原。四方来観不知其幾万人。巨礮之声或震於北総。(聞之於北総扇島医生及香取祠官云)人皆駭其壮観。為天下無比。而自其嫉者而観之。則益嫉焉。壬寅歳幕府発令。使浜海之国厳其海防。
書き下し
乃ち手書を郡宰に賜ひ、励ますに至誠を以てす。郡宰も亦た力を竭して賑恤す。既にして大いに稗倉を開き、(俗に稗倉と称す。義公の創む所にして、爾来継述す。見に各部の諸村に在り。凶荒に備豫するの術、世多く其の説あり。而して米を蓄ふれば則ち新を以て旧に易ふるに苦しみ、其の粟を積むも亦た三十年なること能はず。且つ財利の臣、或いは視て以て無術と為し、必ず貪人の息を収むるの説を生ず。数年の後に及べば、則ち逋負日に多く、儲蓄日に減ず。其の甚だしきに至りては、米粟を変じて金銭と為し、以て一時の急を済ふ。豫備の政是を以て遂げず。我が稗倉の若きは、則ち年年定額を民より取りて之を倉に実たすのみ。其の術は拙なるに似たれども、稗の物たる、百歳の久しきを経て変ぜず。之を年穀豊穣の日に糴(かひよ)せんと欲すれば、則ち其の価甚だ賤くして利無し。之を飢餓凶歉の時に用ゐれば、則ち味淡くして善く飽く。義公の創建より今に至るまで百数十年にして、闔国の飢餓の患ひを免る者は、稗倉の力多きに居る。則ち其の拙なるに似たる者は、甚だ巧みと謂ふべし。政を為す者、常平の倉を設けて以て平年の米価を均しくし、又稗倉を置きて以て凶歳の患ひに備へば、則ち庶幾(こいねが)はくは民其の沢を被らん)之を賑はす。又豫め賞科を設け、富民をして貧窮を救はしめ、又姦商の竊かに穀を蔵する者を散じて、以て遠近に頒つ。是に於いて二歳の凶荒にも、闔境に一人の餓死する者なし。其の余沢の境外近傍の民に波及する者も亦た少なからず。是に於いて人皆公の慈仁を懐(おも)ふ。而るに其の妬む者より之を観れば、則ち益々妬む。庚子の歳、公藩に就く。介冑して兵を野に講ぜんことを請ふ。幕府之を允す。每年三月を以て、城南の仙坡原に大蒐す。四方来観する者、其の幾万人なるを知らず。巨礮の声、或いは北総に震ふ。(北総扇島の医生及び香取の祠官に聞くと云ふ)人皆其の壮観に駭き、天下無比と為す。而るに其の嫉む者より之を観れば、則ち益々嫉む。壬寅の歳、幕府令を発し、濱海の国をして其の海防を厳にせしむ。
現代語訳
そこで公は直筆の手紙を郡宰(郡奉行)に与え、真心をもって励ましました。郡宰もまた力を尽くして救済に当たりました。やがて大いに稗倉(ひえぐら)を開き、(世間で稗倉と呼ぶものです。義公が創設し、以来受け継がれて、現に各部の村々にあります。凶作や飢饉に備える方法は、世間に多くの説があります。しかし米を蓄えれば新米と古米の入れ替えに苦労し、粟を積んでも三十年はもちません。さらに財利を扱う臣下の中にはこれを無策とみなす者がおり、必ず貪欲な者が利息を取る説が出ます。数年後には貸し倒れが日々増え、蓄えは日々減ります。甚だしい場合は、米や粟を金銭に替えて、一時の急をしのぎます。このように、備えの政治は成就しません。わが藩の稗倉は、毎年一定の額を民から取って倉に満たすだけです。その方法は拙いようですが、稗というものは百年たっても変質しません。豊作の年に買い入れようとすれば、その価格はたいへん安く、利益はありません。飢饉や凶作のときに用いれば、味は淡泊でよく腹がふくれます。義公の創設から今まで百数十年、領国全体が飢餓の憂いを免れてきたのは、稗倉の力が大きかったのです。つまり、拙いように見えるものが、実はたいへん巧みだといえます。政治を行う者が、常平倉を設けて平年の米価を安定させ、また稗倉を置いて凶年の憂いに備えるなら、民はその恩恵を受けられるでしょう)これを配って救済しました。また前もって褒賞の規則を設け、富める民に貧しい民を救わせ、また悪徳商人が密かに穀物を貯めこんでいるのを放出させて、遠近に分け与えました。こうして二年続きの凶作でも、領内全体で一人の餓死者も出ませんでした。その余沢が領外や近隣の民にまで及んだこともまた少なくありません。そこで人々は皆、公の慈しみ深い仁を思いました。しかし、公を妬む者から見れば、いっそう妬むのでした。庚子の年(天保11年)、公は領国に入り、甲冑を着けて野で軍事訓練をしたいと請いました。幕府はこれを許しました。毎年三月に、城の南の仙坡原で大規模な狩りと軍事訓練を行いました。四方から見に来る者は何万人かわかりません。大砲の声は、北総にまで響くことがありました。(北総扇島の医者と香取の神官に聞いたということです)人々はその壮観に驚き、天下に比べるものがないとしました。しかし、公を嫉む者から見れば、いっそう嫉むのでした。壬寅の年(天保13年)、幕府は命令を出し、沿海の国々に海防を厳しくさせました。
解説
この章句が説くこと
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