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回天詩史 / 武備と海防・武備を整え飢饉に民を思う

之誠。而自其忌者而觀之。則益忌焉。丁酉正月。公發令脩武庫器械。又閱藩邸士大夫戎衣。二月十二日。(是爲東照宮拜征夷大將軍月日。公欲不忘其本。視太平於無窮。故用是日)公親擐甲冑。拜東照宮遺物於後樂園之琴畫亭。元老以下皆戎服謁見。或賜盃。或賜餘瀝而退。每歲以爲恆例。居數日。賊大鹽平八郎。結黨構難於大阪。近畿騷擾。關左亦爲之紛然。戎衣兵革之價。驟相倍蓰。於是人皆服公之先見。而自其憚者而觀之。則益憚焉。丙申歲大饑。戊戌亦饑。關左尤甚。(江戸米價騰貴。至於奧羽錢千僅買米三升)奧羽兩野之民扶老攜幼。爭赴江戸者陸續不已。米穀愈乏。餓莩盈路。一日公登城。自轎中視之。(公駕有所出。前一日。步士巡視其所當過之路。有不潔之物。則命去之。若其不可遽去。則易其所過之路。公駕既出。有送死者。適當其前。則命避之旁徑。俟駕過而後得出。以故三藩之君。雖犬狗之屍。不得寓目。太平習俗然也。是歲爲其多餓死。公駕屢易其定路。既而死屍盈衢。無處無之。不得已破格過不潔之地。由是公始視之。其慘可知也)歸邸之後。猶悽然不樂。召有司曰。封內之民得無餓死乎。對曰未也。然米粟日乏。臣等日夜憂之。公曰食盡而餓。寡人無如之何。苟食未盡。而有餓莩。奚在於爲民父母也。

新字:之誠。而自其忌者而観之。則益忌焉。丁酉正月。公発令脩武庫器械。又閲藩邸士大夫戎衣。二月十二日。(是為東照宮拝征夷大将軍月日。公欲不忘其本。視太平於無窮。故用是日)公親擐甲冑。拝東照宮遺物於後楽園之琴画亭。元老以下皆戎服謁見。或賜盃。或賜余瀝而退。毎歳以為恒例。居数日。賊大塩平八郎。結党構難於大阪。近畿騷擾。関左亦為之紛然。戎衣兵革之価。驟相倍蓰。於是人皆服公之先見。而自其憚者而観之。則益憚焉。丙申歳大饑。戊戌亦饑。関左尤甚。(江戸米価騰貴。至於奥羽銭千僅買米三升)奥羽両野之民扶老攜幼。争赴江戸者陸続不已。米穀愈乏。餓莩盈路。一日公登城。自轎中視之。(公駕有所出。前一日。歩士巡視其所当過之路。有不潔之物。則命去之。若其不可遽去。則易其所過之路。公駕既出。有送死者。適当其前。則命避之旁径。俟駕過而後得出。以故三藩之君。雖犬狗之屍。不得寓目。太平習俗然也。是歳為其多餓死。公駕屡易其定路。既而死屍盈衢。無処無之。不得已破格過不潔之地。由是公始視之。其惨可知也)帰邸之後。猶悽然不楽。召有司曰。封内之民得無餓死乎。対曰未也。然米粟日乏。臣等日夜憂之。公曰食尽而餓。寡人無如之何。苟食未尽。而有餓莩。奚在於為民父母也。

書き下し

の誠に出づ。而るに其の忌む者より之を観れば、則ち益々忌む。丁酉正月、公、令を発して武庫の器械を脩めしめ、又藩邸の士大夫の戎衣を閲す。二月十二日、(是れ東照宮の征夷大将軍を拝するの月日なり。公は其の本を忘れず、太平を無窮に視んと欲す。故に是の日を用ゐる)公、親ら甲冑を擐(つ)け、東照宮の遺物を後楽園の琴画亭に拝す。元老以下皆戎服して謁見し、或いは盃を賜はり、或いは余瀝を賜はりて退く。毎歳以て恒例と為す。居ること数日、賊の大塩平八郎、党を結びて難を大阪に構へ、近畿騒擾し、関左も亦た之が為に紛然たり。戎衣兵革の価、驟かに相倍蓰す。是に於いて人皆公の先見に服す。而るに其の憚る者より之を観れば、則ち益々憚る。丙申の歳大いに饑ゑ、戊戌も亦た饑う。関左尤も甚だし。(江戸の米価騰貴し、奥羽に至りては銭千にて僅かに米三升を買ふ)奥羽両野の民、老を扶け幼を携へ、争ひて江戸に赴く者陸続として已まず。米穀愈々乏しく、餓莩路に盈つ。一日公、登城し、轎中より之を視る。(公の駕の出づる所有れば、前一日、歩士其の当に過ぐべき所の路を巡視す。不潔の物有れば、則ち命じて之を去らしむ。若し其の遽かに去るべからざれば、則ち其の過ぐる所の路を易ふ。公の駕既に出で、死を送る者有りて、適々其の前に当たれば、則ち命じて之を旁径に避けしめ、駕の過ぐるを俟ちて而る後に出づるを得。以て三藩の君は、犬狗の屍と雖も、目を寓するを得ず。太平の習俗然るなり。是の歳、其の餓死多きが為に、公の駕は屡々其の定路を易ふ。既にして死屍衢に盈ち、処として之無き無し。已むを得ず格を破りて不潔の地を過ぐ。是に由りて公は始めて之を視る。其の惨たるや知るべし)邸に帰るの後も、猶ほ悽然として楽しまず。有司を召して曰く、封内の民、餓死する無きを得んや、と。対へて曰く、未だし。然れども米粟日に乏し。臣ら日夜之を憂ふ、と。公曰く、食尽きて餓うるは、寡人之を如何ともする無し。苟も食未だ尽きずして、餓莩有らば、奚(なん)ぞ民の父母たるに在らんや、と。

現代語訳

(前の章句から続く)誠から出たものでした。けれども、公を忌む者から見れば、かえっていっそう忌むのでした。丁酉の年(天保8年)正月、公は命令を出して武庫の武具を修理させ、また藩邸の士大夫の軍装を点検しました。二月十二日(この日は東照宮(家康)が征夷大将軍に任ぜられた月日です。公は根本を忘れず、太平を永く続けたいと願ったので、この日を選びました)公は自ら甲冑を着け、後楽園の琴画亭で東照宮の遺物を拝しました。元老以下は皆、軍装で拝謁し、盃を賜る者もあり、残りの酒を賜って退く者もありました。毎年これを恒例としました。それから数日して、賊の大塩平八郎が仲間を集めて大坂で乱を起こし、近畿は騒然とし、関東もそのために混乱しました。軍装や武具の値段は急に倍以上になりました。そこで人々は皆、公の先見に感服しました。しかし、公を憚る者から見れば、いっそう憚るのでした。丙申の年(天保7年)は大飢饉で、戊戌の年も飢饉でした。関東は特に激しい状況でした。(江戸の米価は高騰し、奥羽では銭千文でわずか米三升しか買えませんでした)奥羽・両野(上野・下野)の民は、老人を助け幼児を連れて、争って江戸に赴く者が絶えず、米穀はますます乏しくなり、餓死者が路にあふれました。ある日、公は登城し、駕籠の中からこれをご覧になりました。(公の駕籠が出る時は、前日に歩士が通る道を巡視し、不潔なものがあればすぐに取り除かせます。もし急に取り除けないなら、通る道を変えます。公の駕籠が出てから、葬送の列がたまたま前に当たれば、脇道に避けさせ、駕籠が過ぎるのを待ってから出るのを許します。そのため三藩(尾張・紀伊・水戸)の君は、犬の屍でさえ目にすることがありません。太平の世の習わしです。この年は餓死者が多いので、公の駕籠はたびたび予定の道を変えました。やがて死体が街にあふれ、どこにもない所はなくなりました。やむを得ず規則を破って不潔の地を通りました。これによって公は初めて、それを目にしました。その惨状は推して知れます)屋敷に帰った後も、悲しんで楽しまれませんでした。役人を召して言いました。領内の民に餓死する者はいないだろうか、と。役人は答えました。まだおりません。しかし米や粟は日に日に乏しくなっています。私どもは日夜これを憂えております、と。公は言いました。食べ物が尽きて飢えるのは、私にはどうしようもない。だが食べ物がまだ尽きていないのに餓死者が出るなら、どうして民の父母であると言えようか、と。

解説

この章句は、斉昭が武備を整えて大塩平八郎の乱を前に先見を示した一方、飢饉の惨状を自分の目で見て領民の命を案じた場面を描きます。注目すべきは、普段は不潔なものを避ける習慣のなかで、公が現場の実態を初めて目にしたことです。報告ではなく現実を見て、ようやく動いたのです。現代の管理職も、数字や報告だけでは見えない現場の窮状があります。自分の足で現場に行き、実態を直接確かめ、そのうえで資源が尽きる前に手を打つことが大切です。

この章句が説くこと

回天詩史藤田東湖徳川斉昭飢饉現場を見る大塩平八郎の乱

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