導師導古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

回天詩史 / 水戸の家風と文政・水戸藩の沿革 威公から文公まで

回天詩史卷之下水戸 藤田彪斌卿題并錄邦家隆替非偶然恭惟。我東藩威公建基。以廉恥節義鼓舞士風。義公繼述。申以孝悌忠信之敎。其盛德大業。雖樵夫牧童。猶飽聞而厭道。固不俟臣彪贊美也。義公既老。肅公襲封。大將軍常憲公。使隨性院夫人(稱八重姬君)歸我恭伯世子。一國相賀。獨義公以爲國家不幸。(事見於公所賜木村權之衞門之手書)蓋恐其或長奢侈之風也。既而風俗日衰。財用不足。義公薨未數年。至於寶永年間。有松並勘十郎之禍。(勘十郎京師人。長於功利。以處士遊江戸。公聘而用之。遽任顯職。大變更制度。所謂寶永改革者。士民憤怨。遂以寶永六年見放逐。當時執政有司及松並之爪牙腹心。被罪者頗衆)其壞紀綱害風俗。蔑如典章。以貽邦家之辱者。臣子實不忍言焉。成公夙以聰明之姿。懷有爲之志。享保之政翕然可觀。不幸享年不長。(公年十四襲封。享保庚戌四月六日薨。享年僅二十有六)中興不遂惜哉。良公幼冲襲封。(時公年僅三歲)政出於巨室。以故元老以下。頗營其私門。寬保寬延之餘毒。今猶或存焉。公既親政。其聰明英武蓋不出於成公之下。今拜觀其手錄筆記。(公之手錄。藏在秘書府。小姓頭取及奧右筆掌焉)其奉公之誠。圖治之志。可謂勤矣。昔者唐主李隆基。勤於開元。惰於天寶。論者憾焉。公亦有始而不能有終。或曰當時大臣憚公之英明。佞媚迎合。遂以宴安逸樂蕩公之心。理其或然悲夫。文公恭儉自率。慈仁撫下。

新字:回天詩史巻之下水戸 藤田彪斌卿題并録邦家隆替非偶然恭惟。我東藩威公建基。以廉恥節義鼓舞士風。義公継述。申以孝悌忠信之教。其盛徳大業。雖樵夫牧童。猶飽聞而厭道。固不俟臣彪賛美也。義公既老。粛公襲封。大将軍常憲公。使随性院夫人(称八重姫君)帰我恭伯世子。一国相賀。独義公以為国家不幸。(事見於公所賜木村権之衛門之手書)蓋恐其或長奢侈之風也。既而風俗日衰。財用不足。義公薨未数年。至於宝永年間。有松並勘十郎之禍。(勘十郎京師人。長於功利。以処士遊江戸。公聘而用之。遽任顕職。大変更制度。所謂宝永改革者。士民憤怨。遂以宝永六年見放逐。当時執政有司及松並之爪牙腹心。被罪者頗衆)其壊紀綱害風俗。蔑如典章。以貽邦家之辱者。臣子実不忍言焉。成公夙以聰明之姿。懐有為之志。享保之政翕然可観。不幸享年不長。(公年十四襲封。享保庚戌四月六日薨。享年僅二十有六)中興不遂惜哉。良公幼沖襲封。(時公年僅三歳)政出於巨室。以故元老以下。頗営其私門。寛保寛延之余毒。今猶或存焉。公既親政。其聰明英武蓋不出於成公之下。今拝観其手録筆記。(公之手録。蔵在秘書府。小姓頭取及奥右筆掌焉)其奉公之誠。図治之志。可謂勤矣。昔者唐主李隆基。勤於開元。惰於天宝。論者憾焉。公亦有始而不能有終。或曰当時大臣憚公之英明。佞媚迎合。遂以宴安逸楽蕩公之心。理其或然悲夫。文公恭倹自率。慈仁撫下。

書き下し

回天詩史巻之下 水戸 藤田彪斌卿題并びに録す。邦家の隆替は偶然に非ず。恭(つつし)みて惟(おも)ふに、我が東藩は威公基を建て、廉恥節義を以て士風を鼓舞す。義公継述し、申(かさ)ぬるに孝悌忠信の教へを以てす。其の盛徳大業は、樵夫牧童と雖も猶ほ飽くまで聞きて道ふを厭(あ)かず、固(もと)より臣彪の賛美を俟たざるなり。義公既に老い、粛公封を襲ぐ。大将軍常憲公、隨性院夫人(八重姫君と称す)をして我が恭伯世子に帰がしむ。一国相賀するも、独り義公は以て国家の不幸と為す。(事は公の賜ふ所の木村権之衛門への手書に見ゆ)蓋し其の或いは奢侈の風を長ぜんことを恐るるなり。既にして風俗日に衰へ、財用足らず。義公薨じて未だ数年ならざるに、宝永年間に至りて、松並勘十郎の禍有り。(勘十郎は京師の人。功利に長じ、処士を以て江戸に遊ぶ。公聘して之を用ひ、遽かに顕職に任じ、大いに制度を変更す。所謂宝永の改革なる者なり。士民憤怨し、遂に宝永六年を以て放逐せらる。当時の執政有司及び松並の爪牙腹心、罪を被る者頗る衆し)其の紀綱を壊(やぶ)り風俗を害し、典章を蔑如して、以て邦家の辱を貽(のこ)す者、臣子実に言ふに忍びず。成公は夙に聡明の姿を以て、有為の志を懐く。享保の政は翕然として観るべし。不幸にして享年長からず。(公は年十四にして封を襲ぐ。享保庚戌四月六日薨ず。享年僅かに二十有六)中興遂げず、惜しいかな。良公は幼冲にして封を襲ぐ。(時に公の年は僅かに三歳)政は巨室より出づ。是を以て元老以下、頗る其の私門を営む。寛保・寛延の餘毒、今猶ほ或いは存す。公既に親政するや、其の聡明英武、蓋し成公の下に出でず。今其の手録筆記を拝観するに、(公の手録は秘書府に蔵在し、小姓頭取及び奥右筆之を掌る)其の奉公の誠、図治の志、勤めたりと謂ふべし。昔者唐主李隆基は開元に勤め、天宝に惰る。論者之を憾む。公も亦た始め有りて終はり有る能はず。或いは曰く、当時の大臣、公の英明を憚り、佞媚して迎合し、遂に宴安逸楽を以て公の心を蕩(うご)かす、と。理、其れ或いは然らん、悲しいかな。文公は恭倹にして自ら率ゐ、慈仁もて下を撫す。

現代語訳

回天詩史、巻の下。水戸の藤田彪(東湖)、字は斌卿が題し、あわせて記します。国家の盛衰は偶然ではありません。謹んで思うに、わが東藩(水戸藩)は、威公(初代頼房)が基礎を築き、恥を知る心と節義によって士風を奮い立たせました。義公(光圀)はこれを受け継いで述べ、さらに孝悌忠信の教えを加えました。その盛んな徳と大きな事業は、きこりや牛飼いの子でも聞き飽きるほど語るので、私の称賛を待つまでもありません。義公がすでに老いて、粛公(綱條)が封を継ぎました。大将軍常憲公(綱吉)が、隨性院夫人(八重姫君と呼ばれた)を、わが恭伯世子に嫁がせました。藩中は皆で祝いましたが、義公だけは国家の不幸だと考えました。(このことは公が木村権之衛門に与えた直筆の手紙に見えます)おそらく、贅沢の風が広がるのを恐れたのでしょう。やがて風俗は日々に衰え、財政は不足しました。義公が亡くなって数年も経たない宝永年間に、松並勘十郎の禍がありました。(勘十郎は京都の人で、功利を計ることに長じ、浪人の身で江戸に遊んでいました。藩公が招いて用い、急に要職に任じて、制度を大きく変えました。いわゆる宝永の改革です。士も民も憤り恨み、ついに宝永6年に追放されました。当時の執政・役人、および松並の手下や腹心で罪を受けた者はたいへん多くありました)規律を壊し風俗を損ない、法制を軽んじて、国家の恥を後に残したことは、臣下としてまことに口にするに忍びません。成公は若くして聡明な資質を持ち、事をなす志を抱いていました。享保の政治は、まとまって見るべきものがありました。不幸にして寿命が長くなく、(公は14歳で封を継ぎ、享保庚戌(15年)4月6日に亡くなりました。寿命はわずか26歳)中興を遂げられなかったのは惜しいことです。良公は幼くして封を継ぎ、(そのとき公はわずか3歳)政治は有力な家老たちから出ました。このため元老以下は、私の家を栄えさせることに励みました。寛保・寛延のころの余毒は、今もなお残っているところがあります。公がやがて自ら政治を行うと、その聡明さと勇武は成公に劣らなかったでしょう。今、公の直筆の記録を拝見すると、(公の直筆は秘書府に蔵され、小姓頭取と奥右筆が管理しています)その公に仕える誠と、治めようとする志は、勤勉だったといえます。昔、唐の玄宗(李隆基)は開元の時代には勤めたが、天宝の時代には怠けた、と論者は残念に思いました。公もまた、始めはあっても終わりを全うできませんでした。ある人は、当時の大臣が公の英明を憚り、へつらい迎合して、ついに安楽と遊興で公の心を溶かしてしまったのだと言います。道理として、そうであったかもしれません。悲しいことです。文公は、つつましく倹約して自ら手本となり、慈しみ深い仁で下の者をいたわりました。

解説

この章句は、水戸藩の盛衰を代ごとに振り返り、衰えの原因を政治の乱れに求めています。繁栄の途中で、贅沢の風が広がる危うさを案じた義公の洞察、功利に長じた改革者が急に要職に就いて失敗した例、幼い藩主を巨室が囲んで私利を図った例などが並びます。唐の玄宗が最初は勤め、後に怠ったという対比も重要です。現代の組織でも、成功した後の気の緩み、実績の薄い人の急な抜擢、幼い後継者を囲む側近政治は同じ失敗を招きます。管理職は、始めの勢いを終わりまで保つ仕組みを意識することが大切です。

この章句が説くこと

回天詩史藤田東湖水戸藩の沿革義公宝永の改革始めと終わり

関連する章句

『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る
本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円本を見る