回天詩史 / 水戸の家風と文政・水戸藩の沿革 威公から文公まで
回天詩史卷之下水戸 藤田彪斌卿題并錄邦家隆替非偶然恭惟。我東藩威公建基。以廉恥節義鼓舞士風。義公繼述。申以孝悌忠信之敎。其盛德大業。雖樵夫牧童。猶飽聞而厭道。固不俟臣彪贊美也。義公既老。肅公襲封。大將軍常憲公。使隨性院夫人(稱八重姬君)歸我恭伯世子。一國相賀。獨義公以爲國家不幸。(事見於公所賜木村權之衞門之手書)蓋恐其或長奢侈之風也。既而風俗日衰。財用不足。義公薨未數年。至於寶永年間。有松並勘十郎之禍。(勘十郎京師人。長於功利。以處士遊江戸。公聘而用之。遽任顯職。大變更制度。所謂寶永改革者。士民憤怨。遂以寶永六年見放逐。當時執政有司及松並之爪牙腹心。被罪者頗衆)其壞紀綱害風俗。蔑如典章。以貽邦家之辱者。臣子實不忍言焉。成公夙以聰明之姿。懷有爲之志。享保之政翕然可觀。不幸享年不長。(公年十四襲封。享保庚戌四月六日薨。享年僅二十有六)中興不遂惜哉。良公幼冲襲封。(時公年僅三歲)政出於巨室。以故元老以下。頗營其私門。寬保寬延之餘毒。今猶或存焉。公既親政。其聰明英武蓋不出於成公之下。今拜觀其手錄筆記。(公之手錄。藏在秘書府。小姓頭取及奧右筆掌焉)其奉公之誠。圖治之志。可謂勤矣。昔者唐主李隆基。勤於開元。惰於天寶。論者憾焉。公亦有始而不能有終。或曰當時大臣憚公之英明。佞媚迎合。遂以宴安逸樂蕩公之心。理其或然悲夫。文公恭儉自率。慈仁撫下。
新字:回天詩史巻之下水戸 藤田彪斌卿題并録邦家隆替非偶然恭惟。我東藩威公建基。以廉恥節義鼓舞士風。義公継述。申以孝悌忠信之教。其盛徳大業。雖樵夫牧童。猶飽聞而厭道。固不俟臣彪賛美也。義公既老。粛公襲封。大将軍常憲公。使随性院夫人(称八重姫君)帰我恭伯世子。一国相賀。独義公以為国家不幸。(事見於公所賜木村権之衛門之手書)蓋恐其或長奢侈之風也。既而風俗日衰。財用不足。義公薨未数年。至於宝永年間。有松並勘十郎之禍。(勘十郎京師人。長於功利。以処士遊江戸。公聘而用之。遽任顕職。大変更制度。所謂宝永改革者。士民憤怨。遂以宝永六年見放逐。当時執政有司及松並之爪牙腹心。被罪者頗衆)其壊紀綱害風俗。蔑如典章。以貽邦家之辱者。臣子実不忍言焉。成公夙以聰明之姿。懐有為之志。享保之政翕然可観。不幸享年不長。(公年十四襲封。享保庚戌四月六日薨。享年僅二十有六)中興不遂惜哉。良公幼沖襲封。(時公年僅三歳)政出於巨室。以故元老以下。頗営其私門。寛保寛延之余毒。今猶或存焉。公既親政。其聰明英武蓋不出於成公之下。今拝観其手録筆記。(公之手録。蔵在秘書府。小姓頭取及奥右筆掌焉)其奉公之誠。図治之志。可謂勤矣。昔者唐主李隆基。勤於開元。惰於天宝。論者憾焉。公亦有始而不能有終。或曰当時大臣憚公之英明。佞媚迎合。遂以宴安逸楽蕩公之心。理其或然悲夫。文公恭倹自率。慈仁撫下。
書き下し
回天詩史巻之下 水戸 藤田彪斌卿題并びに録す。邦家の隆替は偶然に非ず。恭(つつし)みて惟(おも)ふに、我が東藩は威公基を建て、廉恥節義を以て士風を鼓舞す。義公継述し、申(かさ)ぬるに孝悌忠信の教へを以てす。其の盛徳大業は、樵夫牧童と雖も猶ほ飽くまで聞きて道ふを厭(あ)かず、固(もと)より臣彪の賛美を俟たざるなり。義公既に老い、粛公封を襲ぐ。大将軍常憲公、隨性院夫人(八重姫君と称す)をして我が恭伯世子に帰がしむ。一国相賀するも、独り義公は以て国家の不幸と為す。(事は公の賜ふ所の木村権之衛門への手書に見ゆ)蓋し其の或いは奢侈の風を長ぜんことを恐るるなり。既にして風俗日に衰へ、財用足らず。義公薨じて未だ数年ならざるに、宝永年間に至りて、松並勘十郎の禍有り。(勘十郎は京師の人。功利に長じ、処士を以て江戸に遊ぶ。公聘して之を用ひ、遽かに顕職に任じ、大いに制度を変更す。所謂宝永の改革なる者なり。士民憤怨し、遂に宝永六年を以て放逐せらる。当時の執政有司及び松並の爪牙腹心、罪を被る者頗る衆し)其の紀綱を壊(やぶ)り風俗を害し、典章を蔑如して、以て邦家の辱を貽(のこ)す者、臣子実に言ふに忍びず。成公は夙に聡明の姿を以て、有為の志を懐く。享保の政は翕然として観るべし。不幸にして享年長からず。(公は年十四にして封を襲ぐ。享保庚戌四月六日薨ず。享年僅かに二十有六)中興遂げず、惜しいかな。良公は幼冲にして封を襲ぐ。(時に公の年は僅かに三歳)政は巨室より出づ。是を以て元老以下、頗る其の私門を営む。寛保・寛延の餘毒、今猶ほ或いは存す。公既に親政するや、其の聡明英武、蓋し成公の下に出でず。今其の手録筆記を拝観するに、(公の手録は秘書府に蔵在し、小姓頭取及び奥右筆之を掌る)其の奉公の誠、図治の志、勤めたりと謂ふべし。昔者唐主李隆基は開元に勤め、天宝に惰る。論者之を憾む。公も亦た始め有りて終はり有る能はず。或いは曰く、当時の大臣、公の英明を憚り、佞媚して迎合し、遂に宴安逸楽を以て公の心を蕩(うご)かす、と。理、其れ或いは然らん、悲しいかな。文公は恭倹にして自ら率ゐ、慈仁もて下を撫す。
現代語訳
回天詩史、巻の下。水戸の藤田彪(東湖)、字は斌卿が題し、あわせて記します。国家の盛衰は偶然ではありません。謹んで思うに、わが東藩(水戸藩)は、威公(初代頼房)が基礎を築き、恥を知る心と節義によって士風を奮い立たせました。義公(光圀)はこれを受け継いで述べ、さらに孝悌忠信の教えを加えました。その盛んな徳と大きな事業は、きこりや牛飼いの子でも聞き飽きるほど語るので、私の称賛を待つまでもありません。義公がすでに老いて、粛公(綱條)が封を継ぎました。大将軍常憲公(綱吉)が、隨性院夫人(八重姫君と呼ばれた)を、わが恭伯世子に嫁がせました。藩中は皆で祝いましたが、義公だけは国家の不幸だと考えました。(このことは公が木村権之衛門に与えた直筆の手紙に見えます)おそらく、贅沢の風が広がるのを恐れたのでしょう。やがて風俗は日々に衰え、財政は不足しました。義公が亡くなって数年も経たない宝永年間に、松並勘十郎の禍がありました。(勘十郎は京都の人で、功利を計ることに長じ、浪人の身で江戸に遊んでいました。藩公が招いて用い、急に要職に任じて、制度を大きく変えました。いわゆる宝永の改革です。士も民も憤り恨み、ついに宝永6年に追放されました。当時の執政・役人、および松並の手下や腹心で罪を受けた者はたいへん多くありました)規律を壊し風俗を損ない、法制を軽んじて、国家の恥を後に残したことは、臣下としてまことに口にするに忍びません。成公は若くして聡明な資質を持ち、事をなす志を抱いていました。享保の政治は、まとまって見るべきものがありました。不幸にして寿命が長くなく、(公は14歳で封を継ぎ、享保庚戌(15年)4月6日に亡くなりました。寿命はわずか26歳)中興を遂げられなかったのは惜しいことです。良公は幼くして封を継ぎ、(そのとき公はわずか3歳)政治は有力な家老たちから出ました。このため元老以下は、私の家を栄えさせることに励みました。寛保・寛延のころの余毒は、今もなお残っているところがあります。公がやがて自ら政治を行うと、その聡明さと勇武は成公に劣らなかったでしょう。今、公の直筆の記録を拝見すると、(公の直筆は秘書府に蔵され、小姓頭取と奥右筆が管理しています)その公に仕える誠と、治めようとする志は、勤勉だったといえます。昔、唐の玄宗(李隆基)は開元の時代には勤めたが、天宝の時代には怠けた、と論者は残念に思いました。公もまた、始めはあっても終わりを全うできませんでした。ある人は、当時の大臣が公の英明を憚り、へつらい迎合して、ついに安楽と遊興で公の心を溶かしてしまったのだと言います。道理として、そうであったかもしれません。悲しいことです。文公は、つつましく倹約して自ら手本となり、慈しみ深い仁で下の者をいたわりました。
解説
この章句が説くこと
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『回天詩史』・水戸の家風と文政・烈公の改革と蒙った禍の由来其の剛明果敢の気、宏闊達大の志、抑へて発せざること、蓋し亦た年有り。(公は年十七にして武公を喪ひ、三十にして哀公を喪ふ)一旦、哀公の遺言を以て、入りて其の統を続ぐ。未だ一号令も発せざるに、小人は胆を破り、数月の間に、奸臣・贓吏は廃黜して余す無く、佞幸・便嬖は駆除せられて既に遠し。耆旧・故老の文化に伸びて文政に届く者、往々にして再び挙げられ、忠直方正、文武材能の臣、稍稍選用せらる。一年ならずして奢侈頓(にわ)かに止み、倹素質朴の風、朝野に被ぶ。(是より先、請託相通じ、賄賂盛んに行はる。是に至りて有司、一介をも愛する能はず。国中の士女、競ひて美服を飾る者、一切之を禁ず。大夫と雖も帛を尚(たふと)ぶを得ず。第(ただ)し年七十を踰ゆる者は制限に在らず。凡そ冠婚・転除・慶賀の類、盛宴を張り、賓客を設け、歌舞飲食して数日に渉る者は、親戚の外、相会するを得ず。士人の家、俗箏・三絃の音絶えて無し。其の他、上巳・端午に玩物を用ゐる無く、務めて簡略に従ふの類は、枚挙に暇あらず。今暫く其の一二を記し、後人をして因る所有りて以て考へしむ)公は以為らく、大将軍は春秋既に高く、世故に諳熟す。而して水野(上に見ゆ)・林(肥後守。起こりて所謂御側衆より、新たに諸侯に列し、若年寄に任ず)の徒は威権赫灼たり。則ち天下の事は遽かに挽回し易からざるなり。已む無くんば、則ち一国の俗を変じ、文教を脩め武衛を奮ひ、以て幕府を捍蔽し、中興の嚆矢と為さんと。是に於いて日夜孜孜として此に従事すること、十六年一日なり。而るに群臣の材器徳量、公の盛意に副ふ者は衆からず。以て其の施設の間、緩急□序、寛猛の用を失ふの類無きこと能はずと雖も、其の文を脩め武を奮ひ、忠を天下に尽くすに至りては、則ち三百諸侯、恐らくは未だ公の用心に及ぶ者有らず。此れ臣彪の諛言に非ず。識者苟も其の事業に因りて其の情実を察せば、灼然として知るべし。而るに蒼蠅藩に集まり、萋斐錦を成し、忽然として今日の禍を羅織す。威・義二公、霊有らば、則ち臣彪、其の怒髪上りて瑞龍の巓を衝くを見ん。一たび此に念及ぶごとに、歎息痛恨、自ら已む能はず。因りて徐に公の禍を蒙る所以を繹(たず)ぬるに、幕府の諸臣、公の大志を忌む者、蓋し一朝一夕の故に非ず。
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『回天詩史』・水戸の家風と文政・文公の仁政と武公の志(両野常陸間の俗、貧民或いは子を挙げず。拉殺の孽、惨毒尤も甚だし。而して民、習ひて以て常と為し、恬然として怪しまず。公深く之を慨き、郡官・市司等の職に命じ、務めて其の弊を矯めしむ。若し民、極窮にして子を育つる能はざる者あれば、給するに資用を以てす。封内の赤子、頼りて以て活く者、勝げて数ふべからず。其の法制今猶ほ准行す。凡そ民にして七子以上有る者は、官に褒賞せらる、と云ふ)其の書を読み文を右(たふと)ぶこと、義公以来其の比有らず。(初め義公大日本史を修し、千歳の欠典を補ふ。然れども其の書は私撰に属するを以て、公に世に諸(つま)らかにするを得ず。其の伝写して世に行はるる者は、謬誤甚だ多し。而して正徳以後、文学陵夷し、其の館職に任ずる、総裁と曰ひ編修と曰ふも、実に名に副ふに足らず。文公は文を好み、一国風に嚮(むか)ふ。長久保玄珠・立原万の徒、其の前に唱へ、高橋広備・先臣一正の儔、其の後に和す。公遂に広備・一正等に委ねて、刊修の事を以てす。校訂補輯、率ね虚日無し。文化年間、関白藤公に因りて、九重の進止を取り、書名を公行するを獲たり。乃ち其の先に就(な)りし者を木に上せ、天朝に献じ、幕府に進むるは、皆文公の志にして、武公の継述の力なり)当時の大将軍(文恭公)は春秋に富み、(公の年十四)即位す。白河源侯(松平越中守、名は定信。致仕して楽翁と号す)及び今侯(桑名に移封)は宰輔の任に居り、三藩の君を援けて以て倚頼す。今恭しく公の親筆秘録を観るに、(亦た秘書府に蔵す。嚢を以て部を分かち、諸(これ)を桐匣に納む。堅横三尺ばかり、深さ二尺ばかりにして、秘録盈(み)つ)其の天下に裨益有る者に非ざるは無く、勝げて数ふべからず。其の国政に於いても、亦た美事に乏しからず。而して公は奢侈の後を承け、財用足らず、功利の徒の或いは乗じて起こり、遂に公の徳を累(わずら)はす者或いは有り。然れども位に在ること三十余年、未だ嘗て士を愛し民を撫するの政を忽せにせず。其の徳沢の闔境に浹洽する者は、今に至りて猶ほ深し。武公は寛裕にして果断、志は大体に存し、大いに言路を開き、庶政を脩明す。丙寅・丁卯の間、慨然として大いに為すこと有るの志あり。(是より先、国用窮乏し、浪華の富商に仰ぎ給せらる。歳月の久しきに、子銭は倍蓰し、国は其の弊に勝へず、風俗紀綱之が為に頽敗す。公は此に見る有り、有司に命じて其の顛末を推し、其の源委を究めしむ。或いは其の子銭を捐(す)て、其の母金を与へ、或いは限るに歳月を以てし、断然として浪華の富商と絶つ。是に於いて、入るを量りて出づるを為し、不虞に備豫するの志有りと云ふ)巨室は手を束(つか)ぬ。
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『回天詩史』・水戸の家風と文政・哀公の治世と烈公の登場(中山氏は幕府の名卿を以て元老と為す。然れども専ら事の幕府及び他邦に関はる者を聴くのみ。士大夫の転除注擬の若きは、唯だ所謂物頭以上と田禄の与奪とを知るのみ。財用の伸縮損益及び小吏の進退、俸米の多寡の類に至りては、与り聞かず。以て恒例と為す。備前守信敬の、哀公の庶子を以て中山氏に出嗣するに及び、政府の謀議、事の大小と無く、必ず信敬に咨決す。強僭の患無き能はず。公、封を襲ぐの明年、信敬に命じ、其の政を聴く条件を悉く旧例に復せしむ。是より其の権稍々衰ふ)俗吏は胆を破る。而して事に任ずるの臣は、盛意を推し広むる能はず、峭直刻深にして、頗る物議を来す。是に於いて公は光を韜(つつ)み、持重す。蓋し他日を待つこと有るなり。而るに天は年を仮さず。(公は年三十三にして封を襲ぎ、四十四にして薨ず。位に在ること十二年)遺憾、曷(なん)ぞ已まんや。哀公は夙に高明の姿を以て、文雅の才を負ふ。其の封を襲ぐや、慈恵もて物を愛し、衆庶心を帰す。(故事、国君即世すれば、則ち其の左右の近臣は一時に皆罷め、悉く世子に事(つか)へし者を以て之に代ふ。武公の薨ずるに、有司は例を以て聞す。哀公は先公の左右を廃するに忍びず、乃ち亦た命じて公の近臣と為し、以て恒例と為すと云ふ)嘗て幕府の執政水野羽州(上に見ゆ)と営中に談ず。一たび見て其の奸を察す。又元老の或いは私門を張るを憤り、旧典を明らかにして以て大綱を総べんと欲す。(共に賜ふ所の先臣一正の親書に存す)公は嘗て峰寿院夫人(峰姫君と称す。文恭公の女)を幕府より迎ふ。後宮閨門の間、勢ひ甚だ倹なるを得ず。而して帑蔵は素より乏しきの財用なり。蓋し公は稟性虚弱にして、宵旰黽勉する能はず。以為らく、本藩は地狭く民少なし、之を右にし之を左にするも、国事に大損益有らず、之を有司に委ぬるに如かずと。是より漠然として復た事を可否せず。風流に耽り文墨を楽しみ、以て其の世を終ふ。文政の政、是を以て委靡衰頽し、殆ど宝永と軌を同じくす。痛むに勝ふべけんや。今の納言公は、哀公の介弟を以て、藩邸に潜む。(当時其の居る所を称して亀の間と曰ふ)竊かに天下の勢ひの日に衰弱に赴き、邦家の事も亦た陵遅に就くを憤る。
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『回天詩史』・文献志と讒言・就藩をめぐる巨室の抗議と職務の苦労竊かに恐る、其れ或いは罪を獲んことを。乃ち党を結び密議し、公の就藩を妨げんと欲す。以為らく、去歳、年穀登らず、士人の俸禄を減じ、一国皆聊生せず。而して公国に就かば、則ち士大夫の職事繁劇にして、冗費貲らず、皆怨嗟嘆息し、離心解体す。恐らくは大いに公の盛徳を損なわん。宜しく全て俸禄を賜い、以て人心を慰むべし。若し然る能わずんば、則ち就藩する無きの愈れるに如かずと。因りて所謂小番頭及び物頭の職を激し、各〻劄子を書して之を政府に達せしむ。政府制する能わず、状を以て聞す。公大いに怒り、謂う、姦人比周して君に要す。而るに政府に一人も之を制する無し。其の劄子を取りて以て寡人に聞す。奉職無状なり、と。遂に其の情を按問し、将に巨室某等及び水戸の執政有司の其の事に与る者を罰せんとす。彪、執政に謂いて曰く、公の赫怒する所以、既に命を聞けり。抑〻其の公に聞する者は、江戸の有司に非ずや。今、水戸の有司罪を蒙りて、吾が儕は譴を免るれば、則ち何の面目ありて復た水戸の有司に見えんやと。執政、慰むるに本末軽重の別を以てす。彪、自ら安んずる能わず。乃ち罪を引き、病に移りて懇ろに職を辞せんことを請う。未だ一旬ならずして職を免ぜられ、先手物頭の班(先に是れ彪は槍奉行の班)を以て、史館編修に充てらる。彪、劇職に在ること前後十年。始めて閑地を獲、殆ど物外に超然たるの思い有り。何ぞ図らん、未だ二月に盈たずして、忽ち擢でられて側用人と為り、復た政府に出入りして、献替に従事せんとは。時に彪、閑を得ざるに非ず。而るに忽ち之を失えば、則ち之を要するに、閑を得ざるの三なり。公の就藩するや、宵旰励精し、有司を督責す。二三年ならずして、経界粗〻改まり、学校漸く就り、文教武備頗る端緒に就く。而して公、方に五六年の暇を幕府より獲たり。是に於いて小人、日に佞媚の説を進め、以て公意に迎合す。公、其の制し易きを以て、或いは命ずるに事を以てし、小人力を竭くして賛成し、勢い殆ど勇んで敢えて為す者に類す。故を以て便嬖の少年、或いは遽かに顕官を獲たり。彪、従容として屢〻公に言うに君子小人の辨を以てす。而れども公、省みず。彪、因りて懇ろに職を辞せんことを請う。適〻彪を讒する者有り、謂えらく、彪、今井(名は惟典、金右衛門と称す)の擢でられて参政と為るを以て、心に不平を懐く。又謂えらく、彪の家計窘急、勢い職に居る能わず。乃ち正議に託して閑地を請うと。人或いは以て彪に告ぐ。公も亦手書を賜いて曰く、寡人は汝を信ず。而るに汝は寡人を疑う。汝去らば、則ち寡人も亦将に致仕せんとすと。彪
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『弘道館記述義』・明倫正名・禄を食む者が報いるべき恩の本臣彪謹んで案ずるに、寛永丙寅、威公、台徳・大猷二公に従ひ、京師に朝す。始めて権中納言に任ぜられ三位に叙せらる。後また大猷公に従ひて入朝す。厥の後、朝覲の礼行はれず。事有る毎に、人をして西上せしめ奉上の誠を輸すに過ぎず。而れども位階官銜に至りては、則ち世、祖先の例を視て沈滞有ること無し。乃ち家老以下陪臣の賤の若きも、亦敢へて爵命を辱くす。朝廷の武家を待つ所以、優渥と謂ふべし。初め威公の下妻に封ぜらるるや、食邑十万石に過ぎず。水戸に移封せらるるに及び、二十五万石を食む。東照宮嘗て諸侯に課して名護屋城を脩めしむ。又水戸城を脩めんと欲し、我が国老蘆沢信重を召して謂ひて曰く、吾将に明年水戸に臨み、親ら其の役を視んとすと。会々其の薨じて果たさず。台徳公遺訓を奉じて本藩を優待し、三万石を加ふ。(所謂松岡及び小川等是なり。)大猷公又水戸城を脩めんと欲し、既に伊豆国に課して山を穿ち石を取らしむ。事も亦果たさず。(江戸隅田川東岸に石場なる者数所有り。便ち当時伊豆石を置くの地なり)別に公子頼重を常陸下館に封ず。又讃岐に改封す。義公嘗て地を諸弟に頒つ。常憲公に及び、別に邑を陸奥に賜ふ。其の旧邑は本藩に復帰す。通算して墾田三十五万石と号す。然れども尾・紀二国と広狭懸絶す。其の鹵簿礼数は則ち鼎立頡頏す。以て故に災害事故有る毎に、幕府大いに財弊を出して以て之を助くる者、世として無きは無し。幕府の懿親を遇する所以、亦至厚と謂ふべし。今夫れ国中の士大夫、太平の沢に沐浴し、儼然として親藩麾下と称す。而して飽食暖衣、佚楽是れ耽る。其の常言に曰く、苟くも悪を為さざれば則ち以て禄秩を保つべしと。甚だしきは則ち曰く、租入甚だ減ず、何ぞ農夫の無状なるやと。廩米秕悪なり、何ぞ有司の鄙吝なるやと。嗚呼其の租入は孰れか之を賜ひ、廩米は孰れか之を給するや。若し其れ悪を為さざる者は、樵夫牧豎蚕戸鹺丁の当に然るべき所なり。樵牧蚕鹺は租入を収めず廩米を食らはずして、終身矻矻として山海林野に従事す。巨室世家は則ち食らひて其の事を怠る。僅かに其の悪を為さざるを以て、蚕鹺樵牧の民に比す。亦憫むべからずや。抑も亦尽く其の本に報ゆる所以を思へ。何となれば則ち父母なり、君なり、祖宗なり。然らば則ち臣子たる者、誠に宜しく其の身を正し其の道を行ひ、以て君父に事へ以て祖宗に報ゆべし。邦君たる者も亦宜しく其の士民を撫育し、幕府を輔翼し以て列聖の鴻恩に報ゆべし。詩に曰く、爾の祖を念ふ勿からんや、聿に其の徳を脩めよと。所謂斯の道を推弘し先徳を発揚する者は、其れ亦斯に在るか。
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『回天詩史』・郡廳の事・水戸への移住と住まいの広さ而(しか)るに猶(な)ほ能(よ)く其の間に刻苦す。大丈夫、苟(いやしく)も天下の広居に居(お)れば、則ち室の広狭は、我に於いて何ぞや。蓋し旬を渉(わた)り月を経て、習ひて以て常と為す。二三年の久しきに至れば、則ち復た舎の狭隘なるを覚えざるなり。丙申の歳、公大いに令を発し、江邸の士を水戸に移す。昔者祖宗の時、士は皆水戸に居り、江戸に祇役(しえき)す。一年を以て期と為し、後者来たりて先者去る。名づけて交代と曰ひ、或いは在番と曰ふ。其の家累を江戸に移す者は、蓋し亦た甚だ少なし。粛公以来、公の藩に就くこと既に稀にして、士の江戸に移る者も亦た頗る多し。而して諸有司及び物頭・歩卒の徒の若きは、則ち猶ほ旧に依りて交代す。文公の慈恵、士の行役に苦しむを憐れみ、始めて諸有司及び諸職をして家を江戸に移さしむ。名づけて定府と曰ふ。爾来藩邸の官舎は稠密と称し、風俗浮薄にして、江戸・水戸の事情通ぜず、文書の往復、動(やや)もすれば相疑難す。是に至りて邸中の士庶、水戸に移る者二百余人、僮僕奴婢は勝(あ)げて数ふべからず。咨嗟怨歎、猶ほ流人の謫(たく)に赴くがごとし。邸舎之が為に頗る空し。公乃ち水戸の諸有司をして交代せしむ。将に擴げて諸職に及ぼさんとす。又歩卒をして毎一隊に一舎を授けしめ、居常相親睦せしむ。彪の舎は当に歩卒に授くべし。乃ち移りて台の東隅に居る。其の地は富阪の上に踞し、東北に駒籠・白山を望み、眼画頗る闊く、大いに他舎の比に非ず。庚子の春、公藩に就く。彪又水戸に徙(うつ)る。南北奔走すること十余年にして、旧廬に帰るを獲たり。彪の家累を移す者、是に至りて凡そ七たびなり。伝に曰く、士にして居を懐(おも)はば、以て士と為すに足らず、と。又曰く、小人は土を懐(おも)ふ、と。夫れ士の道に志す、其の居と土とは思ふに足らざること固(もと)よりなり。然れども孟母は隣を択び、夫子も亦た里仁の語有り。則ち其の子弟を生長し、

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