回天詩史 / 幼年と八田郡宰・幼年の記憶と八田郡宰
三十九年七處徙初彪生而三歲。先子新爲濱田郡宰。徙民巷官舍。明年武公就國。或臂鷹。或誇馬。屢過民巷。蓋當時彪與小兒輩。拜觀於路傍。又明年公將參府。彪始謁見於大廣間。後二年。從先子歸梅巷之廬。距今三十餘年。恍如夢中。雖公之容貌。不能道其詳也。蓋年六歲。先子授以孝經。受句讀於堀川潛藏(名潛。字文淵。那珂港人。見爲本村敬業館主事)。彪能記又能忘。潛藏諄諄敎而不倦。宮本翁(名虎孝。稱左一郎。彪擊劍師)屢往來寓居。削竹爲刀。使彪擊僮僕。出於其不意以爲戲。木村子虛(名謙。號醉古館。天下野村人。以奇節稱)每至城下。來投官舍。其人六十餘。貌厚氣完。登城則必汲井浴水而出。歸則與先子把杯談論。酒酣或大聲叫呼。或拔劍稱快。今而思之。僅記此數事耳。既歸梅巷。居十九年。而彪以郡宰。徙於八田。八田在水戸城之西六里那珂久慈二水之間。地極瘠民亦貧。寬政年間。文公廢四郡之制。分封內爲十一部。置郡廳於各所(曰濱田。曰常葉。曰紅葉。曰增井。曰八田。曰大里。曰小菅。曰鷲子。曰太子。曰石神。曰安良川。亡幾廢安良川。以其爲中山氏采地也。既而又廢小菅鷲子增井爲七郡。至天保辛卯。復四郡之制)。高野子隱(名世龍。稱文介)擢自醫員。新爲宰於此。
新字:三十九年七処徙初彪生而三歳。先子新為浜田郡宰。徙民巷官舎。明年武公就国。或臂鷹。或誇馬。屡過民巷。蓋当時彪与小児輩。拝観於路傍。又明年公将参府。彪始謁見於大広間。後二年。従先子帰梅巷之廬。距今三十余年。恍如夢中。雖公之容貌。不能道其詳也。蓋年六歳。先子授以孝経。受句読於堀川潜蔵(名潜。字文淵。那珂港人。見為本村敬業館主事)。彪能記又能忘。潜蔵諄諄教而不倦。宮本翁(名虎孝。称左一郎。彪撃剣師)屡往来寓居。削竹為刀。使彪撃僮僕。出於其不意以為戯。木村子虚(名謙。号酔古館。天下野村人。以奇節称)毎至城下。来投官舎。其人六十余。貌厚気完。登城則必汲井浴水而出。帰則与先子把杯談論。酒酣或大声叫呼。或抜剣称快。今而思之。僅記此数事耳。既帰梅巷。居十九年。而彪以郡宰。徙於八田。八田在水戸城之西六里那珂久慈二水之間。地極瘠民亦貧。寛政年間。文公廃四郡之制。分封内為十一部。置郡庁於各所(曰浜田。曰常葉。曰紅葉。曰增井。曰八田。曰大里。曰小菅。曰鷲子。曰太子。曰石神。曰安良川。亡幾廃安良川。以其為中山氏采地也。既而又廃小菅鷲子增井為七郡。至天保辛卯。復四郡之制)。高野子隠(名世竜。称文介)擢自医員。新為宰於此。
書き下し
三十九年七たび処を徙る。初め彪、生まれて三歳、先子新たに浜田の郡宰と為り、民巷の官舎に徙る。明年、武公、国に就く。或いは鷹を臂にし、或いは馬を誇り、屢〻民巷を過ぐ。蓋し当時、彪は小児輩と、路傍に拝観す。又明年、公将に参府せんとす。彪、始めて大広間に謁見す。後二年、先子に従いて梅巷の廬に帰る。今を距つること三十餘年、恍として夢中の如し。公の容貌と雖も、其の詳らかなるを道う能わざるなり。蓋し年六歳、先子授くるに孝経を以てす。句読を堀川潜蔵(名は潜、字は文淵、那珂港の人。見に本村の敬業館主事たり)に受く。彪、能く記し又能く忘る。潜蔵、諄諄として教えて倦まず。宮本翁(名は虎孝、左一郎と称す。彪が撃剣の師)屢〻往来寓居す。竹を削りて刀と為し、彪をして僮僕を撃たしむ。其の不意に出でて以て戯れと為す。木村子虚(名は謙、号は酔古館。天下野村の人。奇節を以て称せらる)、城下に至る毎に、来たりて官舎に投ず。其の人、六十餘、貌厚く気完し。登城すれば則ち必ず井を汲みて水浴して出ず。帰れば則ち先子と杯を把りて談論す。酒酣なれば或いは大声叫呼し、或いは剣を抜いて快を称す。今にして思えば、僅かに此の数事を記すのみ。既に梅巷に帰り、居ること十九年にして、彪、郡宰を以て八田に徙る。八田は水戸城の西六里、那珂・久慈の二水の間に在り。地極めて瘠せ、民も亦貧し。寛政年間、文公、四郡の制を廃し、封内を分かちて十一部と為し、郡庁を各所に置く(曰く浜田、曰く常葉、曰く紅葉、曰く増井、曰く八田、曰く大里、曰く小菅、曰く鷲子、曰く太子、曰く石神、曰く安良川。幾ばくも亡く安良川を廃す。其の中山氏の采地なるを以てなり。既にして又小菅・鷲子・増井を廃して七郡と為す。天保辛卯に至り、四郡の制に復す)。高野子隠(名は世龍、文介と称す)、医員より擢でられ、新たに宰と為り此に在り。
現代語訳
「三十九年のあいだに七度住まいを移す」。はじめ、私が生まれて三歳のとき、父が新たに浜田の郡奉行となり、民巷(田見)の官舎に移りました。翌年、武公(藩主治紀)が国元に帰りました。ある時は鷹を腕に据え、ある時は馬を誇り、たびたび民巷を通りました。そのとき私は子どもたちとともに、道端で拝見しました。その翌年、公が参府しようとされるとき、私ははじめて大広間で謁見しました。二年後、父に従って梅巷の家に帰りました。それから三十年あまり、夢の中のようにぼんやりしています。公の容貌さえ、詳しく言うことができません。六歳のとき、父は『孝経』を授けました。句読(文の読み方)を堀川潜蔵(名は潜、字は文淵、那珂港の人。現在は本村の敬業館の主事)に教わりました。私はよく覚えもし、よく忘れもしました。潜蔵は根気よく教えて飽きることがありませんでした。宮本翁(名は虎孝、左一郎と称する。私の剣の師)がたびたび往来して寓居しました。竹を削って刀を作り、私に下男を打たせました。不意をついて出るのを遊びとしたのです。木村子虚(名は謙、号は酔古館。天下野村の人。奇節で知られた)は、城下に来るたびに官舎に泊まりました。その人は六十あまり、顔は厚みがあり気力が充実していました。登城するときは必ず井戸の水を汲んで水浴びをして出かけました。帰ると父と杯を酌み交わして談論しました。酒がたけなわになると、大声で叫んだり、剣を抜いて快哉を叫んだりしました。今思い出せるのは、これらのわずかなことだけです。梅巷に帰って十九年して、私は郡奉行として八田に移りました。八田は水戸城の西六里、那珂川と久慈川の間にあります。土地はひどくやせ、民も貧しいところでした。寛政年間に、文公(藩主治保)は四郡の制を廃し、領内を十一部に分け、郡役所を各所に置きました(浜田、常葉、紅葉、増井、八田、大里、小菅、鷲子、太子、石神、安良川という。まもなく安良川を廃した。中山氏の知行地だからである。のち小菅・鷲子・増井を廃して七郡とした。天保辛卯に至り、四郡の制に戻した)。高野子隠(名は世龍、文介と称する)が医員から抜擢されて新たに奉行となり、ここにいました。
解説
この章句が説くこと
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『回天詩史』・幼年と八田郡宰・八田から民巷へ 郡宰の暮らし後に白石(名は意隆、又衛門と称す。致仕して一如と号す)・石川(名は清秋、儀兵衛と称す)の二翁、友部(上に見ゆ)・井坂、相踵いで任ぜらる。以て彪に及ぶ。高野・石川は皆才学有りて、尤も詞章に長ず。白石は忠誠を以て称せられ、友部は才学敏捷を以て聞こゆ。独り井坂は胥吏より挙げられ、巌巌として自ら守る。然れども七郡の宰は、皆奉職無状を以て禄を奪われ貶斥せらる。而るに井坂は則ち外補されて閑に就くのみ。先輩皆此の如し。以て僚属子弟、頗る忠懇の俗を存し、又粗〻文雅風流の趣有り。彪、日に庁事に坐し、老吏と論議す。唯だ其の近来の弊事数件を革め、餘は皆白石・友部の旧に循いて変更せず。庁務少しく閑なれば、則ち僚吏子弟を会し、風月を吟詠し、古今を談論す。亦以て索居の情を慰むるに足る。数月にして郡制一変す。是に於いて彪、又民巷に徙る。民巷は本〻良公の営む所の別館(所謂田見御殿)なり。当時、四郡の宰は、皆庁を其の私宅に設く。別館廃するに及び、郡庁を其の址に建て、宰は猶お宅に居りて、日に庁に臨みて事を視る。寛政中、四郡廃し、其の東庁を以て浜田部の官舎と為し、西庁は則ち常磐部の官舎とす。宰、始めて徙り居る。是に至りて浜田は南部に入り、常磐は武茂に入る。乃ち東庁を以て松岡部の官舎と為し、西庁を太田部の官舎とす。彪、焉に居る。更に南及び武茂の官舎を梅巷に設く。彪、民巷に至りて、其の官舎及び園林を熟視するに、猶お故友に逢うがごとし。所謂恍然として夢の如き者、亦或いは一二の端緒を繹ぬるを得たり。愴然として感旧の情有り。太田部は、其の堺、久慈郡太田に起こり、稲木・藤田等の諸村を経て、久慈川を泝りて上り、南は太子及び開田・金沢に至り、西北は八溝山を限り、廻りて東し、生瀬・高倉を過ぎ、所謂天下野洞の諸村(方言に山間を洞と称す)に至る。地頗る肥良なり。
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『回天詩史』・刀水・修学・父の死と藩主への召対伯父の病に嬰りて危篤なるを聞き、驚きて郷に帰る。伯父、彪を見て頗る病苦を慰む。先子大いに喜び、与に病蓐に侍す。居ること二三日にして、伯父舎を捐つ。彪、郷に在ること二旬餘。先子謂う、文武の研精は時を失うべからずと。彪をして復た往きて吉田翁の舎に寓せしむ。居ること四五日にして、急足来たりて告ぐ、先子も亦篤疾に嬰ると。時に彪、擊剣場に在り。狼狽憂懼し、日夜兼行して家に帰れば、則ち先子復た見るべからず。数日前に教えを膝下に受けし者、忽ち遺訓と為る。悲哀号慟し、旻天罔極なり。既に五旬を過ぎ、則ち仕途に就く。乃ち私かに心制を持すること三年。己丑の冬、哀公疾病す。彪、今の亜卿山野辺氏等と、間行して小石川邸に赴き、居ること数日にして帰る。天保庚寅の冬、彪、郡宰を以て、同僚川瀬・会沢・吉成の三子と、召に応じて江邸に到る。屢〻召対を賜う(初め同じく四人を召し、後に或いは分かちて二人を召し、或いは一人を召す。召対毎に、未だ嘗て晷を移さずんばあらず)。時に公、方に銳意治を図り、唯だ時を失わんことを恐る。召対の間、安民固本の説より、以て脩文奮武の論に至るまで、往往にして職事の外に及ぶ。而れども公、少しも以て意とせず。四人も亦感激して言を尽くし、避くる所無し。事を竣えて帰らんとするに将りて、公、手ずから親筆を賜う(堯典の克明俊徳章三十字を分かちて四幅と為す。各〻家に藏せらる)。勧勉具に至る。恩を拝して退く。壬辰の夏、彪、通事(今の小姓頭取)に転じ、家を江戸に徙す。既にして政府の吏と為る。公、将に経界を正して以て民産を制し、又学校を建てて以て士風を化せんとす。而るに両地の政府、依違して決せず、徒らに文移往復を費やす。乃ち彪をして水戸の政府に就き、公の盛意を達せしめ、且つ館職及び郡宰と相会して協議せしむ。是に於いて戊戌・己亥、
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『回天詩史』・郡廳の事・水戸への移住と住まいの広さ而(しか)るに猶(な)ほ能(よ)く其の間に刻苦す。大丈夫、苟(いやしく)も天下の広居に居(お)れば、則ち室の広狭は、我に於いて何ぞや。蓋し旬を渉(わた)り月を経て、習ひて以て常と為す。二三年の久しきに至れば、則ち復た舎の狭隘なるを覚えざるなり。丙申の歳、公大いに令を発し、江邸の士を水戸に移す。昔者祖宗の時、士は皆水戸に居り、江戸に祇役(しえき)す。一年を以て期と為し、後者来たりて先者去る。名づけて交代と曰ひ、或いは在番と曰ふ。其の家累を江戸に移す者は、蓋し亦た甚だ少なし。粛公以来、公の藩に就くこと既に稀にして、士の江戸に移る者も亦た頗る多し。而して諸有司及び物頭・歩卒の徒の若きは、則ち猶ほ旧に依りて交代す。文公の慈恵、士の行役に苦しむを憐れみ、始めて諸有司及び諸職をして家を江戸に移さしむ。名づけて定府と曰ふ。爾来藩邸の官舎は稠密と称し、風俗浮薄にして、江戸・水戸の事情通ぜず、文書の往復、動(やや)もすれば相疑難す。是に至りて邸中の士庶、水戸に移る者二百余人、僮僕奴婢は勝(あ)げて数ふべからず。咨嗟怨歎、猶ほ流人の謫(たく)に赴くがごとし。邸舎之が為に頗る空し。公乃ち水戸の諸有司をして交代せしむ。将に擴げて諸職に及ぼさんとす。又歩卒をして毎一隊に一舎を授けしめ、居常相親睦せしむ。彪の舎は当に歩卒に授くべし。乃ち移りて台の東隅に居る。其の地は富阪の上に踞し、東北に駒籠・白山を望み、眼画頗る闊く、大いに他舎の比に非ず。庚子の春、公藩に就く。彪又水戸に徙(うつ)る。南北奔走すること十余年にして、旧廬に帰るを獲たり。彪の家累を移す者、是に至りて凡そ七たびなり。伝に曰く、士にして居を懐(おも)はば、以て士と為すに足らず、と。又曰く、小人は土を懐(おも)ふ、と。夫れ士の道に志す、其の居と土とは思ふに足らざること固(もと)よりなり。然れども孟母は隣を択び、夫子も亦た里仁の語有り。則ち其の子弟を生長し、
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『回天詩史』・刀水・修学・刀水を渡る旅の始まりと修学二十五回刀水を渡る。彪、夙に四方の志有り。不幸にして早く大艱に丁い、忽ち仕途に就く。復た宿志を償う能わず。然れども其の武常の路を往来する者、頻りと謂うべし。文政己卯、彪、年十有四。会〻先子、江戸に祗役す。彪、豊田天功(名は亮。当時神童を以て称せらる。今、彦次郎と称す。見に彰考館編修たり。特に命を奉じて志類を纂述す。才学精敏、其の比を見ずと云う)と往きて先子の舎に寓す。因りて始めて当時の碩学亀田鵬斎・太田錦城の諸子に見ゆるを獲たり。亦時に岡田十松の門に遊び、剣術を試む。数十日にして郷に帰る。乙酉の冬、外舅原氏、江邸に祗役す。時に彪、方に武技に専力す。先君子に請い、往きて原氏の舎に寓す。毎夜半に出でて撃剣館(岡田氏の教場)に至り、祁寒霜雪の中に切磋磨礪する者、月餘なり。明年丙戌の春、先子又江邸に祗役す。彪、復た従う。初め彪、十字槍法を郷先生に学び、所謂免許を獲たり。自ら華法の適用ならざるを知る。是に至りて伊能一雲斎に従いて其の槍法を学ぶ。先子の事を竣えて帰らんとするに及び、彪を留めて吉田愚谷翁(翁、名は尚典、本介と称す。平坦の父)の舎に寓せしめ、戒めて曰く、文武の道は相待ちて用を為す。偏廃すべからず。汝、腐儒迂生の為すを効う勿れ。武人剣客の流に混ずる勿れと。是に於いて彪、慨然として発憤し、居る所の舎に命じて不息と曰う。諸を乾の象辞に取る。今の納言公、哀公の介弟を以て藩邸に在り。之を聞き、親ら不息の二大字を書し、之を翁の子平坦に付して以て彪に賜う。彪、自ら信ずること愈〻厚し。入りては則ち書を読み学を講じ、出でては則ち槍を弄し剣を揮い、未だ嘗て一日も業を廃せず。十月下澣に至り、
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『回天詩史』・郡廳の事・育つ土地の風土と子弟教育教育人材する者は、未だ嘗て風土郷里の美に由らずんばあらず。姑(しばら)く彪の目撃する所を以て之を論ぜん。八田の俗は、其の人質ならざるに非ず、其の地静かならざるに非ざれども、其の民は鄙猥褊陋にして、超邁俊偉の気象に乏し。江戸の俗は、其の人勤めざるに非ず、其の見聞広からざるに非ざれども、其の君子は深宮の中に生まれて、稼穡の艱難を知らず、其の小人は伶俐油滑の習に長じ、絶えて質直樸茂の風無し。水戸の俗は、慷慨にして義を好み、敢為に勇なり。時に汙隆有りと雖も、之を要するに大いに江戸及び八田の比に非ず。独り聞見の寡陋と言動の粗俗とを免れざるなり。是に由りて之を観れば、士、苟も子弟を教へんと欲せば、則ち其の幼きや之を城下に居らしめ、武を講じ文を学び、以て其の志を立つ。或いは田野に逍遙し、山水を跋渉し、以て艱難を諳(そら)んじ、以て士気を養ふ。其の心術志操の奪ふべからざるに及べば、則ち之を江戸に出し、汎く愛し仁に親しみ、以て其の固陋を広め、士君子の間に周旋し、以て其の粗俗を医せば、則ち天の我に与ふる所の者、自ら陶冶練熟して、庶(こいねが)はくは大過不及無かるべし。今夫れ糸の繭に在るや、熟せずして之を練り、麻の野に在るや、浸さずして之を曝す。徒(いたず)らに其の絮の如く蓬の如きを視て、糸麻は菅蒯に如かずと曰ふ。亦た冤ならずや。斯の論は独り我が水戸の為にのみ発するに非ず。近来論者、動もすれば士著の説を建つ。彪を以て之を観るに、農をして士と為し、以て其の地に居らしむれば、則ち勢は為し易くして義は為すべからず。士をして城を離れ田畝に就かしむれば、則ち義は為し易くして勢は為すべからず。仮令(たとひ)断然果決し、駆りて之を士に著け、能く其の制度を立てて士農雑居の憂ひ無くんば、則ち或いは可ならん。若し夫れ然らずんば、則ち満城の士林変じて泯然たる農夫と為らん。思はざるべけんや。(五月廿一日廿二日録す)回天詩史巻之上終
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『回天詩史』・文献志と讒言・就藩をめぐる巨室の抗議と職務の苦労竊かに恐る、其れ或いは罪を獲んことを。乃ち党を結び密議し、公の就藩を妨げんと欲す。以為らく、去歳、年穀登らず、士人の俸禄を減じ、一国皆聊生せず。而して公国に就かば、則ち士大夫の職事繁劇にして、冗費貲らず、皆怨嗟嘆息し、離心解体す。恐らくは大いに公の盛徳を損なわん。宜しく全て俸禄を賜い、以て人心を慰むべし。若し然る能わずんば、則ち就藩する無きの愈れるに如かずと。因りて所謂小番頭及び物頭の職を激し、各〻劄子を書して之を政府に達せしむ。政府制する能わず、状を以て聞す。公大いに怒り、謂う、姦人比周して君に要す。而るに政府に一人も之を制する無し。其の劄子を取りて以て寡人に聞す。奉職無状なり、と。遂に其の情を按問し、将に巨室某等及び水戸の執政有司の其の事に与る者を罰せんとす。彪、執政に謂いて曰く、公の赫怒する所以、既に命を聞けり。抑〻其の公に聞する者は、江戸の有司に非ずや。今、水戸の有司罪を蒙りて、吾が儕は譴を免るれば、則ち何の面目ありて復た水戸の有司に見えんやと。執政、慰むるに本末軽重の別を以てす。彪、自ら安んずる能わず。乃ち罪を引き、病に移りて懇ろに職を辞せんことを請う。未だ一旬ならずして職を免ぜられ、先手物頭の班(先に是れ彪は槍奉行の班)を以て、史館編修に充てらる。彪、劇職に在ること前後十年。始めて閑地を獲、殆ど物外に超然たるの思い有り。何ぞ図らん、未だ二月に盈たずして、忽ち擢でられて側用人と為り、復た政府に出入りして、献替に従事せんとは。時に彪、閑を得ざるに非ず。而るに忽ち之を失えば、則ち之を要するに、閑を得ざるの三なり。公の就藩するや、宵旰励精し、有司を督責す。二三年ならずして、経界粗〻改まり、学校漸く就り、文教武備頗る端緒に就く。而して公、方に五六年の暇を幕府より獲たり。是に於いて小人、日に佞媚の説を進め、以て公意に迎合す。公、其の制し易きを以て、或いは命ずるに事を以てし、小人力を竭くして賛成し、勢い殆ど勇んで敢えて為す者に類す。故を以て便嬖の少年、或いは遽かに顕官を獲たり。彪、従容として屢〻公に言うに君子小人の辨を以てす。而れども公、省みず。彪、因りて懇ろに職を辞せんことを請う。適〻彪を讒する者有り、謂えらく、彪、今井(名は惟典、金右衛門と称す)の擢でられて参政と為るを以て、心に不平を懐く。又謂えらく、彪の家計窘急、勢い職に居る能わず。乃ち正議に託して閑地を請うと。人或いは以て彪に告ぐ。公も亦手書を賜いて曰く、寡人は汝を信ず。而るに汝は寡人を疑う。汝去らば、則ち寡人も亦将に致仕せんとすと。彪

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