回天詩史 / 刀水・修学・刀水を渡る旅の始まりと修学
二十五回渡刀水彪夙有四方之志。不幸早丁大艱。忽就仕途。不能復償宿志。然其往來武常之路者可謂頻矣。文政己卯。彪年十有四。會先子祗役於江戶。彪與豐田天功(名亮。當時以神童稱。今稱彦次郞。見爲彰考館編修。特奉命纂述志類。才學精敏。不見其比云)往而寓先子之舍。因始獲見當時碩學龜田鵬齋。太田錦城諸子。亦時遊於岡田十松之門。試劍術。數十日而歸鄕。乙酉之冬。外舅原氏祗役於江邸。時彪方專力於武技。請先君子。往而寓原氏之舍。每夜半出而至擊劍館(岡田氏敎場)切磋磨礪於祁寒霜雪之中者月餘。明年丙戌之春。先子又祗役於江邸。彪復從焉。初彪學十字槍法於鄕先生。獲所謂免許者。自知華法不適用也。至是從伊能一雲齋而學其槍法。及先子將竣事而歸。留彪寓於吉田愚谷翁(翁名尚典。稱本介。平坦之父)之舍。戒曰。文武之道。相待而爲用。不可偏廢。汝勿效腐儒迂生之爲。勿混武人劍客之流。於是彪慨然發憤。命所居之舍曰不息。取諸乾象辭。今納言公。以哀公之介弟。在藩邸。聞之親書不息二大字。付之翁之子平坦以賜彪。彪自信愈厚。入則讀書講學。出則弄槍揮劍。未嘗一日廢業。至十月下澣。
新字:二十五回渡刀水彪夙有四方之志。不幸早丁大艱。忽就仕途。不能復償宿志。然其往来武常之路者可謂頻矣。文政己卯。彪年十有四。会先子祗役於江戸。彪与豊田天功(名亮。当時以神童称。今称彦次郎。見為彰考館編修。特奉命纂述志類。才学精敏。不見其比云)往而寓先子之舎。因始獲見当時碩学亀田鵬斎。太田錦城諸子。亦時遊於岡田十松之門。試剣術。数十日而帰郷。乙酉之冬。外舅原氏祗役於江邸。時彪方専力於武技。請先君子。往而寓原氏之舎。毎夜半出而至撃剣館(岡田氏教場)切磋磨礪於祁寒霜雪之中者月余。明年丙戌之春。先子又祗役於江邸。彪復従焉。初彪学十字槍法於郷先生。獲所謂免許者。自知華法不適用也。至是従伊能一雲斎而学其槍法。及先子将竣事而帰。留彪寓於吉田愚谷翁(翁名尚典。称本介。平坦之父)之舎。戒曰。文武之道。相待而為用。不可偏廃。汝勿効腐儒迂生之為。勿混武人剣客之流。於是彪慨然発憤。命所居之舎曰不息。取諸乾象辞。今納言公。以哀公之介弟。在藩邸。聞之親書不息二大字。付之翁之子平坦以賜彪。彪自信愈厚。入則読書講学。出則弄槍揮剣。未嘗一日廃業。至十月下澣。
書き下し
二十五回刀水を渡る。彪、夙に四方の志有り。不幸にして早く大艱に丁い、忽ち仕途に就く。復た宿志を償う能わず。然れども其の武常の路を往来する者、頻りと謂うべし。文政己卯、彪、年十有四。会〻先子、江戸に祗役す。彪、豊田天功(名は亮。当時神童を以て称せらる。今、彦次郎と称す。見に彰考館編修たり。特に命を奉じて志類を纂述す。才学精敏、其の比を見ずと云う)と往きて先子の舎に寓す。因りて始めて当時の碩学亀田鵬斎・太田錦城の諸子に見ゆるを獲たり。亦時に岡田十松の門に遊び、剣術を試む。数十日にして郷に帰る。乙酉の冬、外舅原氏、江邸に祗役す。時に彪、方に武技に専力す。先君子に請い、往きて原氏の舎に寓す。毎夜半に出でて撃剣館(岡田氏の教場)に至り、祁寒霜雪の中に切磋磨礪する者、月餘なり。明年丙戌の春、先子又江邸に祗役す。彪、復た従う。初め彪、十字槍法を郷先生に学び、所謂免許を獲たり。自ら華法の適用ならざるを知る。是に至りて伊能一雲斎に従いて其の槍法を学ぶ。先子の事を竣えて帰らんとするに及び、彪を留めて吉田愚谷翁(翁、名は尚典、本介と称す。平坦の父)の舎に寓せしめ、戒めて曰く、文武の道は相待ちて用を為す。偏廃すべからず。汝、腐儒迂生の為すを効う勿れ。武人剣客の流に混ずる勿れと。是に於いて彪、慨然として発憤し、居る所の舎に命じて不息と曰う。諸を乾の象辞に取る。今の納言公、哀公の介弟を以て藩邸に在り。之を聞き、親ら不息の二大字を書し、之を翁の子平坦に付して以て彪に賜う。彪、自ら信ずること愈〻厚し。入りては則ち書を読み学を講じ、出でては則ち槍を弄し剣を揮い、未だ嘗て一日も業を廃せず。十月下澣に至り、
現代語訳
「二十五回、刀水(利根川)を渡る」。私(彪)は若いころから四方に出る志がありました。不幸にして早くに父の死(大きな不幸)に遭い、すぐに仕官の道に就いたため、もとの志をかなえることができませんでした。それでも武蔵と常陸の間の道を往来した回数は、頻繁だったと言えます。文政二年(己卯)、私は十四歳でした。ちょうど父が江戸で勤務していました。私は豊田天功(名は亮。当時神童と称された。今は彦次郎と称する。現在、彰考館編修で、特に命を受けて志類を編纂している。才学は精敏で、並ぶ者を見ないという)と江戸に行き、父の家に身を寄せました。そのとき初めて、当時の碩学である亀田鵬斎や太田錦城らに会うことができました。また、ときに岡田十松の門に遊び、剣術を試しました。数十日して郷里に帰りました。文政八年(乙酉)の冬、妻の父の原氏が江戸屋敷に勤務しました。そのころ私は武芸に専念していました。父に願い出て、江戸に行き原氏の家に身を寄せました。毎晩夜中に出て撃剣館(岡田氏の道場)に通い、厳しい寒さと霜や雪の中で切磋琢磨すること一か月あまりでした。翌年の丙戌の春、父がまた江戸屋敷に勤務することになり、私もまた同行しました。はじめ私は十字槍の術を郷里の先生に学んで免許を得ましたが、自分では華やかな術で実用に向かないと分かっていました。そこでこのとき、伊能一雲斎に従ってその槍術を学びました。父が任務を終えて帰るとき、私を吉田愚谷翁(名は尚典、本介と称する。平坦の父)の家に残し、戒めて言いました。「文と武の道は互いに助け合って役に立つ。どちらかを廃してはならない。おまえは腐った儒者や世間知らずの書生のまねをしてはならず、武人や剣客の仲間に混じってもいけない」。そこで私は奮い立ち、住まいを「不息」と名づけました。『易』の乾の象辞(「君子は自ら強めて息まず」)から取りました。今の納言公(斉昭)は、哀公の弟として藩邸におられ、このことを聞いて自ら「不息」の二つの大字を書き、翁の子の平坦に託して私に賜りました。私はますます自信を深めました。家では書を読み学を講じ、外では槍を扱い剣を振るい、一日も修業を廃したことがありません。十月の下旬になって、
解説
この章句が説くこと
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