導師導古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

回天詩史 / 幼年と八田郡宰・八田から民巷へ 郡宰の暮らし

後白石(名意隆。稱又衞門。致仕號一如)石川(名清秋。稱儀兵衞)二翁。友部見於井坂相踵任焉。以及彪。高野石川皆有才學。尤長於詞章。白石以忠誠稱。友部以才學敏捷聞。獨井坂擧自胥吏。巖巖自守。然七郡之宰。皆以奉職無狀。奪祿貶斥。而井坂則外補就閒耳。先輩皆如此。以故僚屬子弟。頗存忠懇之俗。又粗有文雅風流之趣。彪日坐廳事。與老吏論議。唯革其近來弊事數件。餘皆循白石友部之舊。而不變更也。廳務少閒。則會僚吏子弟。吟詠風月。談論古今。亦足慰索居之情。數月而郡制一變。於是彪又徙民巷。民巷本良公所營別館(所謂田見御殿)。當時四郡之宰。皆設廳於其私宅。及別館廢。建郡廳於其址。而宰猶居宅。日臨廳視事。寬政中四郡廢。以其東廳爲濱田部官舍。西廳則常磐部官舍。宰始徙居焉。至是濱田入南部。常磐入武茂。乃以東廳爲松岡部官舍。西廳太田部官舍。彪居焉。更設南及武茂之官舍於梅巷。彪至民巷。熟視其官舍及園林。猶逢故友。所謂恍然如夢者。亦或得繹一二端緒。愴然有感舊之情。太田部者。其堺起於久慈郡太田。經稻木藤田等諸村。泝久慈川而上。南至太子及開田金澤。西北限八溝山。廻而東過生瀨高倉。至所謂天下野洞諸村(方言山間稱洞)。地頗肥良。

新字:後白石(名意隆。称又衛門。致仕号一如)石川(名清秋。称儀兵衛)二翁。友部見於井坂相踵任焉。以及彪。高野石川皆有才学。尤長於詞章。白石以忠誠称。友部以才学敏捷聞。独井坂挙自胥吏。巖巖自守。然七郡之宰。皆以奉職無状。奪禄貶斥。而井坂則外補就閒耳。先輩皆如此。以故僚属子弟。頗存忠懇之俗。又粗有文雅風流之趣。彪日坐庁事。与老吏論議。唯革其近来弊事数件。余皆循白石友部之旧。而不変更也。庁務少閒。則会僚吏子弟。吟詠風月。談論古今。亦足慰索居之情。数月而郡制一変。於是彪又徙民巷。民巷本良公所営別館(所謂田見御殿)。当時四郡之宰。皆設庁於其私宅。及別館廃。建郡庁於其址。而宰猶居宅。日臨庁視事。寛政中四郡廃。以其東庁為浜田部官舎。西庁則常磐部官舎。宰始徙居焉。至是浜田入南部。常磐入武茂。乃以東庁為松岡部官舎。西庁太田部官舎。彪居焉。更設南及武茂之官舎於梅巷。彪至民巷。熟視其官舎及園林。猶逢故友。所謂恍然如夢者。亦或得繹一二端緒。愴然有感旧之情。太田部者。其堺起於久慈郡太田。経稲木藤田等諸村。泝久慈川而上。南至太子及開田金沢。西北限八溝山。廻而東過生瀨高倉。至所謂天下野洞諸村(方言山間称洞)。地頗肥良。

書き下し

後に白石(名は意隆、又衛門と称す。致仕して一如と号す)・石川(名は清秋、儀兵衛と称す)の二翁、友部(上に見ゆ)・井坂、相踵いで任ぜらる。以て彪に及ぶ。高野・石川は皆才学有りて、尤も詞章に長ず。白石は忠誠を以て称せられ、友部は才学敏捷を以て聞こゆ。独り井坂は胥吏より挙げられ、巌巌として自ら守る。然れども七郡の宰は、皆奉職無状を以て禄を奪われ貶斥せらる。而るに井坂は則ち外補されて閑に就くのみ。先輩皆此の如し。以て僚属子弟、頗る忠懇の俗を存し、又粗〻文雅風流の趣有り。彪、日に庁事に坐し、老吏と論議す。唯だ其の近来の弊事数件を革め、餘は皆白石・友部の旧に循いて変更せず。庁務少しく閑なれば、則ち僚吏子弟を会し、風月を吟詠し、古今を談論す。亦以て索居の情を慰むるに足る。数月にして郡制一変す。是に於いて彪、又民巷に徙る。民巷は本〻良公の営む所の別館(所謂田見御殿)なり。当時、四郡の宰は、皆庁を其の私宅に設く。別館廃するに及び、郡庁を其の址に建て、宰は猶お宅に居りて、日に庁に臨みて事を視る。寛政中、四郡廃し、其の東庁を以て浜田部の官舎と為し、西庁は則ち常磐部の官舎とす。宰、始めて徙り居る。是に至りて浜田は南部に入り、常磐は武茂に入る。乃ち東庁を以て松岡部の官舎と為し、西庁を太田部の官舎とす。彪、焉に居る。更に南及び武茂の官舎を梅巷に設く。彪、民巷に至りて、其の官舎及び園林を熟視するに、猶お故友に逢うがごとし。所謂恍然として夢の如き者、亦或いは一二の端緒を繹ぬるを得たり。愴然として感旧の情有り。太田部は、其の堺、久慈郡太田に起こり、稲木・藤田等の諸村を経て、久慈川を泝りて上り、南は太子及び開田・金沢に至り、西北は八溝山を限り、廻りて東し、生瀬・高倉を過ぎ、所謂天下野洞の諸村(方言に山間を洞と称す)に至る。地頗る肥良なり。

現代語訳

のちに白石(名は意隆、又衛門と称する。致仕して一如と号した)と石川(名は清秋、儀兵衛と称する)の二翁、友部(前に出ている)、井坂が相次いで任命され、私に及びました。高野と石川はみな才学があり、とくに詩文に優れていました。白石は忠誠で知られ、友部は才学が敏捷で聞こえました。ただ井坂だけは下級役人から挙げられ、堅く自分を守っていました。しかし七郡の奉行は、みな職務不十分として禄を奪われ貶斥されました。ところが井坂だけは外に補されて閑職に就いただけでした。先輩たちはみなこうでした。このため、部下や子弟の間には、誠実な風習がよく残り、またおおよそ文雅風流の趣もありました。私は毎日役所に座り、老練な役人と議論しました。ただ近ごろの弊害数件を改めただけで、あとはみな白石や友部の旧例に従って変更しませんでした。役所の仕事が少し暇になると、部下の役人や子弟を集めて風月を詠み、古今を談じました。それも一人暮らしの寂しさを慰めるのに十分でした。数か月で郡制が一変しました。そこで私はまた民巷に移りました。民巷はもともと良公が営んだ別館(いわゆる田見御殿)です。当時、四郡の奉行は、みな役所をそれぞれの私宅に設けていました。別館が廃されると、その跡に郡役所を建て、奉行はなお自宅に居て、毎日役所に出て事務をとりました。寛政年間に四郡が廃されると、その東の役所を浜田部の官舎とし、西の役所を常磐部の官舎としました。奉行はこのときはじめて(官舎に)移り住みました。ここに至って浜田は南部に入り、常磐は武茂に入りました。そこで東の役所を松岡部の官舎とし、西の役所を太田部の官舎としました。私はここに住みました。さらに南部と武茂の官舎を梅巷に設けました。私は民巷に来て、その官舎と庭園・林をよく見ると、まるで旧友に会ったようでした。夢のようにぼんやりしていた記憶も、一、二の糸口をたどれました。しみじみと昔を懐かしむ情がわきました。太田部は、その境が久慈郡の太田から始まり、稲木・藤田などの村々を経て、久慈川をさかのぼって上り、南は太子および開田・金沢に至り、西北は八溝山を限りとし、回って東し、生瀬・高倉を過ぎて、いわゆる天下野洞の村々(方言で山間を洞と呼ぶ)に至ります。土地はかなり肥えています。

解説

作者が郡奉行として着任した場所での様子です。前任者の旧例を尊重し、弊害だけを数件改め、あとは変更しなかったこと、役所の暇に部下や子弟と詩文を楽しみ交流したことが述べられています。新任のリーダーが着任直後に大改革を行わず、現場の良い慣習を残す態度は参考になります。管理職は、前任者の成果と土地の風習をまず尊重し、本当に直すべき点だけを絞って改めると、現場の信頼を損なわずに済みます。仕事の合間の交流も、組織の風通しを良くします。

この章句が説くこと

回天詩史藤田東湖郡宰前任者旧例民巷

関連する章句

『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る
本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円本を見る