回天詩史 / 文献志と讒言・文献志の再興と朋党の讒言
臣修東藩文獻志。公薨不果。至是會澤鈴木等。以爲欲成中興之業。則宜先修祖宗典刑。斟酌增損以歸於至當。乃建議復修文獻志。設局於城中。政府有志之徒。時往來其局。小人因讒會澤鈴木等以朋黨。遂出會澤爲史館總裁。以鈴木原田(名成祐。稱兵介)荻爲馬廻。於是政府正議。一網打盡無復子遺。深澤(名敦忠。稱甚五兵衞)亦與四人同局相親。至是移病不出。彪與同僚議。以爲郡宰本疎外之職。而頗爲樞要之地者。以公專信任吾儕也。今政府變革如此。凡吾儕建議者。皆從中制之。隔絶上下之情。則公之盛意孤矣。因上書屢陳所以退小人進君子。挽回正氣之説。凡驛使往來於江戸者。毎月六次。未嘗一次無郡宰上書也。公亦時下親書慰焉。而讒謗先入。無可奈何。明年壬辰之春。深澤亦坐廢。(所謂小普請組)彪料不可以口舌爭。即日亦移病不出。朋黨之論益熾。公赫然震怒。遽召川瀨石河二人於江邸。問以事情。二人侃然正議不遺餘力。公釋然而悟。轉彪爲通事。徙於江戸。鈴木子賢代焉。進會澤伯民之資格。而原田深澤荻之徒。亦往往見任用。通事(今小姓頭取)之爲職。宿直中奧。(稱後宮爲大奧。而正寢及近臣所宿直。皆稱中奧)日昵近左右。自非生長於近臣之間。則坐作言動。或不能如法。而彪以野人任其職。又蒙常扈從公駕(所謂定御供)之命。更掌所謂衣紋猿樂等之事。其用心尤苦。是彪乞閒地不得閒之二也。乙未之夏。轉爲政府吏。己亥之歲。公發令將以明年庚子就藩。時公方務修武備。又戒士大夫。因田祿多寡。備兵馬器械。而巨室世家皆乏軍用。
新字:臣修東藩文献志。公薨不果。至是会沢鈴木等。以為欲成中興之業。則宜先修祖宗典刑。斟酌增損以帰於至当。乃建議復修文献志。設局於城中。政府有志之徒。時往来其局。小人因讒会沢鈴木等以朋党。遂出会沢為史館総裁。以鈴木原田(名成祐。称兵介)荻為馬廻。於是政府正議。一網打尽無復子遺。深沢(名敦忠。称甚五兵衛)亦与四人同局相親。至是移病不出。彪与同僚議。以為郡宰本疎外之職。而頗為枢要之地者。以公専信任吾儕也。今政府変革如此。凡吾儕建議者。皆従中制之。隔絶上下之情。則公之盛意孤矣。因上書屡陳所以退小人進君子。挽回正気之説。凡駅使往来於江戸者。毎月六次。未嘗一次無郡宰上書也。公亦時下親書慰焉。而讒謗先入。無可奈何。明年壬辰之春。深沢亦坐廃。(所謂小普請組)彪料不可以口舌争。即日亦移病不出。朋党之論益熾。公赫然震怒。遽召川瀨石河二人於江邸。問以事情。二人侃然正議不遺余力。公釈然而悟。転彪為通事。徙於江戸。鈴木子賢代焉。進会沢伯民之資格。而原田深沢荻之徒。亦往往見任用。通事(今小姓頭取)之為職。宿直中奥。(称後宮為大奥。而正寝及近臣所宿直。皆称中奥)日昵近左右。自非生長於近臣之間。則坐作言動。或不能如法。而彪以野人任其職。又蒙常扈従公駕(所謂定御供)之命。更掌所謂衣紋猿楽等之事。其用心尤苦。是彪乞閒地不得閒之二也。乙未之夏。転為政府吏。己亥之歳。公発令将以明年庚子就藩。時公方務修武備。又戒士大夫。因田禄多寡。備兵馬器械。而巨室世家皆乏軍用。
書き下し
臣に東藩文献志を修めしむ。公薨じて果たさず。是に至りて会沢・鈴木等、以為らく、中興の業を成さんと欲すれば、則ち宜しく先ず祖宗の典刑を修め、斟酌増損して以て至当に帰すべしと。乃ち議を建てて復た文献志を修め、局を城中に設く。政府の有志の徒、時に其の局に往来す。小人、因りて会沢・鈴木等を讒するに朋党を以てす。遂に会沢を出だして史館総裁と為し、鈴木・原田(名は成祐、兵介と称す)・荻を以て馬廻と為す。政府の正議、一網打尽、復た子遺無し。深沢(名は敦忠、甚五兵衛と称す)も亦四人と局を同じくして相親しむ。是に至りて病に移りて出でず。彪、同僚と議して以為らく、郡宰は本〻疎外の職なり。而れども頗る枢要の地と為る者は、公の専ら吾が儕を信任するを以てなり。今、政府の変革此の如し。凡そ吾が儕の建議する者、皆中より之を制せられ、上下の情を隔絶せば、則ち公の盛意孤ならんと。因りて書を上りて屢〻小人を退け君子を進め、正気を挽回する所以の説を陳ぶ。凡そ駅使の江戸に往来する者、毎月六次、未だ嘗て一次も郡宰の上書無きことは無し。公も亦時に親書を下して慰む。而れども讒謗先入し、奈何ともする無し。明年壬辰の春、深沢も亦坐して廃せらる(所謂小普請組)。彪、料るに口舌を以て争うべからず。即日、亦病に移りて出でず。朋党の論、益〻熾んなり。公、赫然として震怒し、遽かに川瀬・石河の二人を江邸に召し、問うに事情を以てす。二人、侃然として正議し、余力を遺さず。公、釈然として悟り、彪を転じて通事と為し、江戸に徙す。鈴木子賢、代わる。会沢伯民の資格を進め、而して原田・深沢・荻の徒も、亦往往にして任用せらる。通事(今の小姓頭取)の職たる、中奥に宿直す(後宮を称して大奥と為す。而して正寝及び近臣の宿直する所は皆中奥と称す)。日に左右に昵近す。生長して近臣の間に在るに非ざる自りは、則ち坐作言動、或いは法の如くする能わず。而るに彪、野人を以て其の職を任じ、又常に公の駕に扈従するの命を蒙る(所謂定御供)。更に所謂衣紋・猿楽等の事を掌り、其の用心尤も苦し。是れ彪が閑地を乞うて閑を得ざるの二なり。乙未の夏、転じて政府の吏と為る。己亥の歳、公令を発し、将に明年庚子を以て国に就かんとす。時に公、方に武備を修むるに務め、又士大夫を戒め、田禄の多寡に因りて兵馬器械を備えしむ。而るに巨室世家、皆軍用に乏し。
現代語訳
(哀公は)臣下に『東藩文献志』を編修させようとしましたが、公が亡くなって果たされませんでした。このときに至って会沢や鈴木らは、中興の業を成そうとするなら、まず祖先の典章や制度を整え、取捨を加えて適切に帰着させるべきだと考えました。そこで議を立てて、再び文献志を編修することとし、局を城中に設けました。政府の有志の者がときどき、その局に出入りしました。小人は、会沢や鈴木らを徒党を組んでいると讒言しました。ついに会沢を外に出して史館総裁とし、鈴木・原田(名は成祐、兵介と称する)・荻を馬廻としました。政府の正論の士は一網打尽にされ、ひとりも残りませんでした。深沢(名は敦忠、甚五兵衛と称する)も四人と同じ局で親しくしていましたが、ここに至って病を理由に出仕しなくなりました。私は同僚と議論して考えました。郡奉行はもともと疎外された職である。それが枢要の地になっているのは、公がもっぱら私たちを信任しているからだ。いま政府がこのように変わり、私たちの建議はすべて途中で抑えられ、上下の情が隔絶されると、公の盛意は孤立するだろう、と。そこで書を上申して、たびたび小人を退け君子を進め、正気を挽回する説を述べました。宿駅の使いが江戸と往来するのは月に六回ありますが、一度として郡奉行の上書がなかったことはありません。公も時々親書を下して慰めてくれました。しかし讒言が先に入っていて、どうにもなりませんでした。翌年の天保三年(壬辰)の春、深沢も罪を得て廃されました(小普請組)。私は、口先で争うべきではないと思い、その日のうちに病を理由に出仕しなくなりました。朋党の議論はますます盛んになりました。公はかっと激怒して、すぐに川瀬・石河の二人を江戸屋敷に召し、事情を問いただしました。二人は堂々と正論を述べ、力を残しませんでした。公は納得して悟り、私を通事に転じて江戸に移しました。鈴木子賢が(私の後任に)代わりました。会沢伯民の資格を進め、原田・深沢・荻の者たちも、しばしば任用されました。通事(今の小姓頭取)の職は、中奥に宿直します(後宮を大奥と呼び、正寝と近臣が宿直する所をすべて中奥と呼ぶ)。毎日側近くに親しむので、近臣の間で生まれ育った者でなければ、立ち居振る舞いが作法どおりにいかないことがあります。ところが私は田舎者の身でこの職に任じられ、さらに常に公の駕籠に従う命を受けました(いわゆる定御供)。さらに衣紋や猿楽などの事を担当し、その気の使いようは最も苦しいものでした。これが私が閑地を乞うて閑を得られなかった二つ目です。天保六年(乙未)の夏、転じて政府の役人になりました。天保十年(己亥)、公が令を発し、翌年(庚子)に国元に帰ることにしました。そのとき公は武備を整えることに努めており、さらに士大夫を戒めて、知行の多少に応じて兵馬や武器を備えさせました。ところが大身の家や名家は、みな軍用に乏しく、
解説
この章句が説くこと
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史記 越王句践世家二歳にして呉、蠡を帰す。句践、会稽より帰りて七年、其の士民を拊循し、用ひて以て呉に報いんと欲す。大夫逢同諫めて曰く、「国新たに流亡し、今乃ち復た殷給す。繕飾して利を備へば、呉必ず懼れん。懼るれば則ち難必ず至らん。且つ鷙鳥の撃つや、必ず其の形を匿す。今夫れ呉は兵を斉・晋に加へ、怨みは楚・越に深く、名は天下に高く、実は周室を害す。徳少なくして功多く、必ず淫して自ら矜らん。越の為に計るに、斉に結び、楚に親しみ、晋に附きて、以て呉を厚くするに若くは莫し。呉の志広ければ、必ず戦ひを軽んぜん。是れ我其の権を連ね、三国之を伐ち、越其の弊に承ずれば、克つべきなり」と。句践曰く、「善し」と。居ること二年、呉王将に斉を伐たんとす。子胥諫めて曰く、「未だ可ならず。臣聞く、句践は食に味を重ねず、百姓と苦楽を同じくすと。此の人死せずんば、必ず国の患と為らん。呉に越有るは、腹心の疾なり。斉の呉に与けるは、疥癬なり。願はくは王、斉を釈きて越を先にせよ」と。呉王聴かず、遂に斉を伐ち、之を艾陵に敗り、斉の高・国を虜にして以て帰る。子胥を譲む。子胥曰く、「王喜ぶ毋かれ」と。王怒り、子胥自殺せんと欲す。王聞きて之を止む。越の大夫種曰く、「臣、呉王の政を観るに驕れり。請ふ試みに之に粟を貸らんことを嘗み、以て其の事を卜せん」と。貸らんことを請ふ。呉王与へんと欲し、子胥与ふる勿かれと諫む。王遂に之に与ふ。越乃ち私かに喜ぶ。子胥言ひて曰く、「王諫めを聴かず、後三年にして呉其れ墟とならんか」と。太宰嚭之を聞き、乃ち数々子胥と越の議を争ひ、因りて子胥を讒して曰く、「伍員は貌は忠なれども実は忍人なり。其の父兄をすら顧みず、安んぞ能く王を顧みんや。王前に斉を伐たんと欲するや、員彊く諫む。已にして功有り、是を用て反りて王を怨む。王、伍員に備へずんば、員必ず乱を為さん」と。逢同と共に謀り、之を王に讒す。王始め従はず。乃ち子胥を斉に使はす。其の子を鮑氏に託するを聞き、王乃ち大いに怒りて曰く、「伍員果たして寡人を欺けり」と。役より反り、人をして子胥に属鏤の剣を賜ひて以て自殺せしむ。
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