回天詩史 / 史館の職を辞す・史館総裁の任命と退職願
五乞閑地不得閑文政年間。我先子與青山子世爲史館總裁。子世在江戶。先子居水戶。及先子歿。水館不復置總裁。以大竹子虛(名親從。稱與五兵衞)會澤伯民。權攝其職。彪以丁亥之春。襲先子之後。以進物番補館職。而先輩鈴子賢。杉士元。飛子健等。斑皆在彪之下。意頗不安也。先是川口嬰卿(名長孺。稱助九郞)爲江館總裁。以汚行獲罪。禁錮於水戶。子世代焉。未數年。哀公惜嬰卿之才。起之於廢黜之餘。以大番補編修。徙於江戶。亡幾復總裁之職。兩館之士。議論喧然。伯民嘗與嬰卿絕交。謂義不可受其指揮。因頻陳情辭館職。遂出爲敎授(當時文炳參在東館。其曰敎授者。有名無實。一閑散之職。大井今弘道館敎授之比)以彪同子虛攝總裁之職。時子虛齡旣垂七十。沈痾家居。彪則年僅二十四。一旦立於先輩諸子之上。統紀館務。愈益不安也。年少氣銳。不能自抑。乃裁一書寄子世。陳奉身自退之意。且附以館局大弊五事。其目曰。心術不正者。不宜居館職。曰正人實學。不宜廢棄。曰攝職之選。不宜在彪。曰史業督課。不宜迫蹙。曰虛文粉飾。不宜助長。反復辨論。蓋數千言。彪謂嬰卿亦先子所嘗共事。今致書於子世。論嬰卿不宜居館職。而無一言責嬰卿。
新字:五乞閑地不得閑文政年間。我先子与青山子世為史館総裁。子世在江戸。先子居水戸。及先子歿。水館不復置総裁。以大竹子虚(名親従。称与五兵衛)会沢伯民。権摂其職。彪以丁亥之春。襲先子之後。以進物番補館職。而先輩鈴子賢。杉士元。飛子健等。斑皆在彪之下。意頗不安也。先是川口嬰卿(名長孺。称助九郎)為江館総裁。以汚行獲罪。禁錮於水戸。子世代焉。未数年。哀公惜嬰卿之才。起之於廃黜之余。以大番補編修。徙於江戸。亡幾復総裁之職。両館之士。議論喧然。伯民嘗与嬰卿絶交。謂義不可受其指揮。因頻陳情辞館職。遂出為教授(当時文炳参在東館。其曰教授者。有名無実。一閑散之職。大井今弘道館教授之比)以彪同子虚摂総裁之職。時子虚齢既垂七十。沈痾家居。彪則年僅二十四。一旦立於先輩諸子之上。統紀館務。愈益不安也。年少気鋭。不能自抑。乃裁一書寄子世。陳奉身自退之意。且附以館局大弊五事。其目曰。心術不正者。不宜居館職。曰正人実学。不宜廃棄。曰摂職之選。不宜在彪。曰史業督課。不宜迫蹙。曰虚文粉飾。不宜助長。反復弁論。蓋数千言。彪謂嬰卿亦先子所嘗共事。今致書於子世。論嬰卿不宜居館職。而無一言責嬰卿。
書き下し
五たび閑地を乞うて閑を得ず。文政年間、我が先子と青山子世と、史館総裁たり。子世は江戸に在り、先子は水戸に居る。先子歿するに及び、水館復た総裁を置かず。大竹子虚・会沢伯民を以て、其の職を権摂せしむ。彪、丁亥の春を以て、先子の後を襲い、進物番を以て館職に補せらる。而して先輩鈴子賢・杉士元・飛子健等、班皆彪の下に在り。意頗る安んぜざるなり。是より先、川口嬰卿(名は長孺、助九郎と称す)、江館総裁たり。汚行を以て罪を獲、水戸に禁錮せらる。子世代わる。未だ数年ならずして、哀公、嬰卿の才を惜しみ、之を廃黜の餘に起こし、大番を以て編修に補し、江戸に徙す。幾ばくも亡く復た総裁の職に復す。両館の士、議論喧然たり。伯民、嘗て嬰卿と交わりを絶つ。謂えらく、義として其の指揮を受くべからずと。頻りに情辞を陳べて館職を辞す。遂に出でて教授と為る(当時、文炳参、東館に在り。其の教授と曰うは、名有りて実無し。一の閑散の職なり。大井、今の弘道館教授の比なり)。彪をして子虚と同じく総裁の職を摂せしむ。時に子虚、齢既に七十に垂んとし、沈痾にして家居す。彪は則ち年僅かに二十四。一旦、先輩諸子の上に立ちて、館務を統紀す。愈〻安んぜざるなり。年少にして気鋭、自ら抑うる能わず。乃ち一書を裁して子世に寄せ、身を奉じて自ら退くの意を陳ぶ。且つ附するに館局の大弊五事を以てす。其の目に曰く、心術不正の者、宜しく館職に居るべからず。曰く、正人の実学、宜しく廃棄すべからず。曰く、摂職の選、宜しく彪に在るべからず。曰く、史業の督課、宜しく迫蹙すべからず。曰く、虚文の粉飾、宜しく助長すべからず。反復辨論すること、蓋し数千言なり。彪謂えらく、嬰卿も亦先子の嘗て事を共にする所なり。今、書を子世に致して、嬰卿の宜しく館職に居るべからざるを論ず。而れども嬰卿を責むるに一言も無し。
現代語訳
「五たび閑地を乞うて閑を得ず」。文政年間、亡き父と青山子世は、史館の総裁でした。子世は江戸にいて、父は水戸にいました。父が亡くなると、水戸の史館は総裁を置かなくなりました。大竹子虚と会沢伯民に、その職を仮に兼ねさせていました。私は文政十年(丁亥)の春、父の後を継いで、進物番から史館の職に補されました。先輩の鈴木子賢、杉山士元、飛田子健らは、席次がみな私より下になりました。心中たいへん落ち着きませんでした。これより前、川口嬰卿(名は長孺、助九郎と称する)が江戸の史館総裁でした。不行跡のため罪を得て、水戸に禁錮されました。子世が代わりました。数年も経たないうちに、哀公は嬰卿の才を惜しみ、廃された身から起用して、大番から編修に補し、江戸に移しました。まもなくまた総裁の職に復しました。両館の人々は議論で騒然としました。伯民は以前、嬰卿と絶交しており、「義として彼の指揮を受けることはできない」と言い、しきりに事情を述べて史館の職を辞しました。ついに出て教授となりました(当時、文炳参は東館にあった。その教授というのは名ばかりで実がない、一つの閑職である。大井(おおい)は、今の弘道館教授に当たる)。そして私に子虚とともに総裁の職を兼ねさせました。当時、子虚は七十に近く、持病で家にいました。私はまだ二十四歳です。一朝にして先輩の諸氏の上に立ち、史館の事務を統括することになり、ますます落ち着きませんでした。年少で気が鋭く、自分を抑えられません。そこで一通の書を書いて子世に送り、身をもって自ら退く意を述べ、あわせて史館の大きな弊害五つを付けました。その項目は次のとおりです。心術の正しくない者は史館の職にいるべきではない。正しい人の実学を廃棄すべきではない。総裁を兼ねる人選は私であるべきではない。史書編纂の督促を迫ってはならない。虚飾の文を助長してはならない。繰り返し論じ、およそ数千字にのぼりました。私は考えました。嬰卿もかつて父と共に仕事をした人です。今、子世に書を送って嬰卿が史館の職にいるべきでないと論じ、嬰卿を責める言葉が一言もないのは、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『回天詩史』・史館の職を辞す・館の対立と郡宰への転任豈に心に愧じざらんや。乃ち又一書を裁して嬰卿に勧め、過ちを引きて閑を乞わしむ。議論剴切にして、頗る一時を震わす。是の時に当たり、江邸罹災の後、新たに史館を後楽園の傍に建つ。土木の美、輪奐観るべし。公、方に文事に銳意す。子世・嬰卿、遵奉して違わず。屢〻書を水館に寄せ、責むるに校史の怠惰を以てして、人心の服否を問わず。水館の士、愈〻解体の勢い有り。是に至りて子世等、以為らく、両館隔絶し、正議の士皆群居して水館に在り。動もすれば波瀾を生ずる所以なり。二三の館僚を江戸に徙し、以て其の勢いを殺ぐに如かずと。蓋し以て公に聞し、公、之に従う。是に於いて子世等又書を水館に寄せ、彪及び子賢・士元・子健等をして各〻鬮を探らしめ、其の中る者は皆江戸に従わしむ。蓋し其の公平にして愛憎無きを示すなり。彪、諸子と議し、皆謂えらく、命に応じて咫尺の左右に事うるは、事体軽からず。安んぞ児童の遊嬉に倣いて、鬮を探りて博せんやと。乃ち子世等に答うるに実を以てし、子虚に因りて職を辞せんことを請う。政府、未だ処分有らず。会〻公薨ず。今の納言公立つ。時勢一変す。子世・嬰卿、相踵いで免職せらる。子賢は奥右筆に転じ、士元は寺社役と為り、伯民と彪は郡宰に任ぜらる。宰の職たる、事極めて紛冗にして、曩日の仮総裁の比に非ず。是れ彪が閑地を乞うて閑を得ざるの一なり。公、精を励まし治を図り、尤も民事に用心す。悉く七郡の宰を変易す。山口(名は正徳、頼母と称す)は大里部を治め、友部(上に見ゆ)は石神部、田丸(名は直諒、稲之衛門と称す)は浜田部、川瀬は紅葉部、会沢は常磐部、吉成は太子部、彪は八田部なり。既に命を受けて各所に徙る。当時、務めて旧弊を革正し、奢敖を禁じ倹を敦くし、弱を扶け強を抑え、冤枉を洗い、無告を恤む。
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『回天詩史』・文献志と讒言・就藩をめぐる巨室の抗議と職務の苦労竊かに恐る、其れ或いは罪を獲んことを。乃ち党を結び密議し、公の就藩を妨げんと欲す。以為らく、去歳、年穀登らず、士人の俸禄を減じ、一国皆聊生せず。而して公国に就かば、則ち士大夫の職事繁劇にして、冗費貲らず、皆怨嗟嘆息し、離心解体す。恐らくは大いに公の盛徳を損なわん。宜しく全て俸禄を賜い、以て人心を慰むべし。若し然る能わずんば、則ち就藩する無きの愈れるに如かずと。因りて所謂小番頭及び物頭の職を激し、各〻劄子を書して之を政府に達せしむ。政府制する能わず、状を以て聞す。公大いに怒り、謂う、姦人比周して君に要す。而るに政府に一人も之を制する無し。其の劄子を取りて以て寡人に聞す。奉職無状なり、と。遂に其の情を按問し、将に巨室某等及び水戸の執政有司の其の事に与る者を罰せんとす。彪、執政に謂いて曰く、公の赫怒する所以、既に命を聞けり。抑〻其の公に聞する者は、江戸の有司に非ずや。今、水戸の有司罪を蒙りて、吾が儕は譴を免るれば、則ち何の面目ありて復た水戸の有司に見えんやと。執政、慰むるに本末軽重の別を以てす。彪、自ら安んずる能わず。乃ち罪を引き、病に移りて懇ろに職を辞せんことを請う。未だ一旬ならずして職を免ぜられ、先手物頭の班(先に是れ彪は槍奉行の班)を以て、史館編修に充てらる。彪、劇職に在ること前後十年。始めて閑地を獲、殆ど物外に超然たるの思い有り。何ぞ図らん、未だ二月に盈たずして、忽ち擢でられて側用人と為り、復た政府に出入りして、献替に従事せんとは。時に彪、閑を得ざるに非ず。而るに忽ち之を失えば、則ち之を要するに、閑を得ざるの三なり。公の就藩するや、宵旰励精し、有司を督責す。二三年ならずして、経界粗〻改まり、学校漸く就り、文教武備頗る端緒に就く。而して公、方に五六年の暇を幕府より獲たり。是に於いて小人、日に佞媚の説を進め、以て公意に迎合す。公、其の制し易きを以て、或いは命ずるに事を以てし、小人力を竭くして賛成し、勢い殆ど勇んで敢えて為す者に類す。故を以て便嬖の少年、或いは遽かに顕官を獲たり。彪、従容として屢〻公に言うに君子小人の辨を以てす。而れども公、省みず。彪、因りて懇ろに職を辞せんことを請う。適〻彪を讒する者有り、謂えらく、彪、今井(名は惟典、金右衛門と称す)の擢でられて参政と為るを以て、心に不平を懐く。又謂えらく、彪の家計窘急、勢い職に居る能わず。乃ち正議に託して閑地を請うと。人或いは以て彪に告ぐ。公も亦手書を賜いて曰く、寡人は汝を信ず。而るに汝は寡人を疑う。汝去らば、則ち寡人も亦将に致仕せんとすと。彪
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『回天詩史』・文献志と讒言・文献志の再興と朋党の讒言臣に東藩文献志を修めしむ。公薨じて果たさず。是に至りて会沢・鈴木等、以為らく、中興の業を成さんと欲すれば、則ち宜しく先ず祖宗の典刑を修め、斟酌増損して以て至当に帰すべしと。乃ち議を建てて復た文献志を修め、局を城中に設く。政府の有志の徒、時に其の局に往来す。小人、因りて会沢・鈴木等を讒するに朋党を以てす。遂に会沢を出だして史館総裁と為し、鈴木・原田(名は成祐、兵介と称す)・荻を以て馬廻と為す。政府の正議、一網打尽、復た子遺無し。深沢(名は敦忠、甚五兵衛と称す)も亦四人と局を同じくして相親しむ。是に至りて病に移りて出でず。彪、同僚と議して以為らく、郡宰は本〻疎外の職なり。而れども頗る枢要の地と為る者は、公の専ら吾が儕を信任するを以てなり。今、政府の変革此の如し。凡そ吾が儕の建議する者、皆中より之を制せられ、上下の情を隔絶せば、則ち公の盛意孤ならんと。因りて書を上りて屢〻小人を退け君子を進め、正気を挽回する所以の説を陳ぶ。凡そ駅使の江戸に往来する者、毎月六次、未だ嘗て一次も郡宰の上書無きことは無し。公も亦時に親書を下して慰む。而れども讒謗先入し、奈何ともする無し。明年壬辰の春、深沢も亦坐して廃せらる(所謂小普請組)。彪、料るに口舌を以て争うべからず。即日、亦病に移りて出でず。朋党の論、益〻熾んなり。公、赫然として震怒し、遽かに川瀬・石河の二人を江邸に召し、問うに事情を以てす。二人、侃然として正議し、余力を遺さず。公、釈然として悟り、彪を転じて通事と為し、江戸に徙す。鈴木子賢、代わる。会沢伯民の資格を進め、而して原田・深沢・荻の徒も、亦往往にして任用せらる。通事(今の小姓頭取)の職たる、中奥に宿直す(後宮を称して大奥と為す。而して正寝及び近臣の宿直する所は皆中奥と称す)。日に左右に昵近す。生長して近臣の間に在るに非ざる自りは、則ち坐作言動、或いは法の如くする能わず。而るに彪、野人を以て其の職を任じ、又常に公の駕に扈従するの命を蒙る(所謂定御供)。更に所謂衣紋・猿楽等の事を掌り、其の用心尤も苦し。是れ彪が閑地を乞うて閑を得ざるの二なり。乙未の夏、転じて政府の吏と為る。己亥の歳、公令を発し、将に明年庚子を以て国に就かんとす。時に公、方に武備を修むるに務め、又士大夫を戒め、田禄の多寡に因りて兵馬器械を備えしむ。而るに巨室世家、皆軍用に乏し。
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『回天詩史』・刀水・修学・父の死と藩主への召対伯父の病に嬰りて危篤なるを聞き、驚きて郷に帰る。伯父、彪を見て頗る病苦を慰む。先子大いに喜び、与に病蓐に侍す。居ること二三日にして、伯父舎を捐つ。彪、郷に在ること二旬餘。先子謂う、文武の研精は時を失うべからずと。彪をして復た往きて吉田翁の舎に寓せしむ。居ること四五日にして、急足来たりて告ぐ、先子も亦篤疾に嬰ると。時に彪、擊剣場に在り。狼狽憂懼し、日夜兼行して家に帰れば、則ち先子復た見るべからず。数日前に教えを膝下に受けし者、忽ち遺訓と為る。悲哀号慟し、旻天罔極なり。既に五旬を過ぎ、則ち仕途に就く。乃ち私かに心制を持すること三年。己丑の冬、哀公疾病す。彪、今の亜卿山野辺氏等と、間行して小石川邸に赴き、居ること数日にして帰る。天保庚寅の冬、彪、郡宰を以て、同僚川瀬・会沢・吉成の三子と、召に応じて江邸に到る。屢〻召対を賜う(初め同じく四人を召し、後に或いは分かちて二人を召し、或いは一人を召す。召対毎に、未だ嘗て晷を移さずんばあらず)。時に公、方に銳意治を図り、唯だ時を失わんことを恐る。召対の間、安民固本の説より、以て脩文奮武の論に至るまで、往往にして職事の外に及ぶ。而れども公、少しも以て意とせず。四人も亦感激して言を尽くし、避くる所無し。事を竣えて帰らんとするに将りて、公、手ずから親筆を賜う(堯典の克明俊徳章三十字を分かちて四幅と為す。各〻家に藏せらる)。勧勉具に至る。恩を拝して退く。壬辰の夏、彪、通事(今の小姓頭取)に転じ、家を江戸に徙す。既にして政府の吏と為る。公、将に経界を正して以て民産を制し、又学校を建てて以て士風を化せんとす。而るに両地の政府、依違して決せず、徒らに文移往復を費やす。乃ち彪をして水戸の政府に就き、公の盛意を達せしめ、且つ館職及び郡宰と相会して協議せしむ。是に於いて戊戌・己亥、
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