回天詩史 / 世子擁立と出府・跡継ぎ問題と水戸の憂い
榮之允君立爲世子。即哀公也。祝之助君爲高松侯所養。銓之允君亦爲宍戸侯所養。獨敬三郞君留在藩邸。蓋武公之志也。當是時。大將軍(諡文恭公)子姓振振。自尾紀二藩。旁至於越前家國主城主。苟無嫡嗣者。皆降幕府公子爲嗣。其國老有司等。或迎合希旨。甚則不復問其庶子庶弟有無也。我先子常慨之。齋志以沒。至是有飛語。曰萬一公病有不可諱。則將請清水侯以爲嗣。侯亦大將軍庶子。一國愕然。夫東照宮之所以建三藩。將以廣其血胤。共輔翼幕府。以保宗社磐石之安也。不幸台德公及尾敬公之胤。既不可見。則東照宮之統。僅係於紀南龍公與我威公之胤。萬一又不幸。失威公之統。則奉南龍公之胤(有德公以來。幕府亦爲南龍公之統)以爲嗣固也。今面有敬三郞君在焉。而有司若奉清水侯。則將措敬三郞君於何地耶。於是日夜企首。俟江邸之報。十月朔壬戌。彪以例登彰考館。(時彪攝總裁職)之陪執政(所謂年寄。下倣之)參政(所謂若年寄。下倣之)試諸生講經。適獲江邸親朋根本仲德(名敬義。稱三十郞。更稱五六郞。爲人容貌羸弱。若不勝衣。而中實沈毅。尤重節義)書。曰靑山子世(名延于。稱量介。時爲江邸史館總裁。聞見該博。尤長於史學。富於著述。館名彰考館。義公所命。而書史館者。從官府及通俗之稱呼也。下倣之)。憂儲嗣不定。詒執政榊原淡州。責以大義。淡州哂曰。子何不通事理之甚。幕府三藩。鈞是東照宮之胤。萬一有不可諱。則奉幕府公子繼統。何不可之有。子世怫然而出去。又曰。
新字:栄之允君立為世子。即哀公也。祝之助君為高松侯所養。銓之允君亦為宍戸侯所養。独敬三郎君留在藩邸。蓋武公之志也。当是時。大将軍(諡文恭公)子姓振振。自尾紀二藩。旁至於越前家国主城主。苟無嫡嗣者。皆降幕府公子為嗣。其国老有司等。或迎合希旨。甚則不復問其庶子庶弟有無也。我先子常慨之。斎志以没。至是有飛語。曰万一公病有不可諱。則将請清水侯以為嗣。侯亦大将軍庶子。一国愕然。夫東照宮之所以建三藩。将以広其血胤。共輔翼幕府。以保宗社磐石之安也。不幸台徳公及尾敬公之胤。既不可見。則東照宮之統。僅係於紀南竜公与我威公之胤。万一又不幸。失威公之統。則奉南竜公之胤(有徳公以来。幕府亦為南竜公之統)以為嗣固也。今面有敬三郎君在焉。而有司若奉清水侯。則将措敬三郎君於何地耶。於是日夜企首。俟江邸之報。十月朔壬戌。彪以例登彰考館。(時彪摂総裁職)之陪執政(所謂年寄。下倣之)参政(所謂若年寄。下倣之)試諸生講経。適獲江邸親朋根本仲徳(名敬義。称三十郎。更称五六郎。為人容貌羸弱。若不勝衣。而中実沈毅。尤重節義)書。曰青山子世(名延于。称量介。時為江邸史館総裁。聞見該博。尤長於史学。富於著述。館名彰考館。義公所命。而書史館者。従官府及通俗之称呼也。下倣之)。憂儲嗣不定。詒執政榊原淡州。責以大義。淡州哂曰。子何不通事理之甚。幕府三藩。鈞是東照宮之胤。万一有不可諱。則奉幕府公子継統。何不可之有。子世怫然而出去。又曰。
書き下し
栄之允君、立てて世子と為る。即ち哀公なり。祝之助君は高松侯の養う所と為り、銓之允君も亦宍戸侯の養う所と為る。独り敬三郎君は留まりて藩邸に在り。蓋し武公の志なり。是の時に当たり、大将軍(諡して文恭公)の子姓振振たり。尾・紀の二藩より、旁く越前家の国主・城主に至るまで、苟くも嫡嗣無き者は、皆幕府の公子を降して嗣と為す。其の国老有司等、或いは迎合して旨を希い、甚だしきは則ち復た其の庶子庶弟の有無を問わざるなり。我が先子常に之を慨き、志を斎して以て没す。是に至りて飛語有り。曰く、万一公の病、不可諱なる有らば、則ち将に清水侯を請いて以て嗣と為さんとすと。侯も亦大将軍の庶子なり。一国愕然たり。夫れ東照宮の三藩を建つる所以は、将に以て其の血胤を広め、共に幕府を輔翼し、以て宗社磐石の安きを保たんとするなり。不幸にして台徳公及び尾敬公の胤、既に見るべからず。則ち東照宮の統は、僅かに紀の南龍公と我が威公との胤に係る。万一又不幸にして威公の統を失わば、則ち南龍公の胤(有徳公以来、幕府も亦南龍公の統と為る)を奉じて以て嗣と為すこと固よりなり。今面に敬三郎君の在す有り。而るに有司、若し清水侯を奉ぜば、則ち将に敬三郎君を何れの地に措かんとするや。是に於いて日夜首を企て、江邸の報を俟つ。十月朔壬戌、彪、例を以て彰考館に登る(時に彪、総裁の職を摂す)。執政(所謂年寄。下も之に倣う)・参政(所謂若年寄。下も之に倣う)に陪して諸生の経を講ずるを試みる。適〻江邸の親朋根本仲徳(名は敬義、三十郎と称し、更に五六郎と称す。人と為り容貌羸弱にして、衣に勝えざるが若し。而るに中は実に沈毅にして、尤も節義を重んず)の書を獲たり。曰く、青山子世(名は延于、量介と称す。時に江邸の史館総裁たり。聞見該博にして、尤も史学に長じ、著述に富む。館を彰考館と名づくるは、義公の命ずる所にして、史館と書く者は、官府及び通俗の称呼に従うなり。下も之に倣う)、儲嗣の定まらざるを憂い、執政榊原淡州に詒り、責むるに大義を以てす。淡州哂いて曰く、子は何ぞ事理に通ぜざるの甚だしき。幕府・三藩は、鈞しく是れ東照宮の胤なり。万一不可諱なる有らば、則ち幕府の公子を奉じて統を継がしむ、何の不可なること之れ有らんや。子世、怫然として出で去る。又曰く、
現代語訳
栄之允君が世子に立てられました。これが哀公(斉脩)です。祝之助君は高松侯の養子となり、銓之允君も宍戸侯の養子となりました。ただ敬三郎君だけが藩邸に残りました。これは武公(治紀)の考えでした。そのころ、将軍(諡は文恭公・家斉)には多くの子女がいました。尾張・紀伊の二藩から、広く越前松平家の国主・城主にいたるまで、跡継ぎ(嫡子)のいない家には、みな幕府の公子を降して養子にしました。その国の家老や役人たちは、(幕府の)意向に迎合して気に入られようとし、ひどい場合には、その家の庶子や弟がいるかどうかさえ問いませんでした。亡き父(幽谷)はいつもこれを嘆き、志を抱いたまま亡くなりました。このとき、こんな噂が流れました。「万一、お上(哀公)の病が避けられない事態になれば、清水侯(将軍の子)を請うて跡継ぎにしようとしている」。清水侯もまた将軍の庶子です。藩中は驚きました。そもそも東照宮(徳川家康)が三家を立てたのは、その血統を広げ、ともに幕府を助けて宗家の安泰を保つためです。不幸にして台徳公(秀忠)や尾張の敬公(義直)の血筋はすでに見られません。そうなると東照宮の血統は、わずかに紀伊の南龍公(頼宣)と我が威公(頼房)の血筋にかかっています。万一、威公の血統が失われたら、南龍公の血筋(有徳公(吉宗)以来、幕府もまた南龍公の血統)を迎えて跡継ぎとするのが当然です。いま目の前に敬三郎君がおられるのに、役人たちがもし清水侯を奉じたら、敬三郎君をどこに置くつもりなのか。そこで人々は日夜、首を長くして江戸屋敷からの知らせを待ちました。十月一日(壬戌)、私は慣例により彰考館に出向きました(当時、私は総裁の職を兼ねていました)。執政(いわゆる年寄。以下同じ)や参政(いわゆる若年寄。以下同じ)に陪席し、諸生に経書を講じさせる試験をしていました。たまたま江戸屋敷にいる親友の根本仲徳(名は敬義、三十郎と称し、さらに五六郎と称する。人柄は見た目が弱々しく、着物の重みに耐えないほどだが、内面は実に沈着で強く、特に節義を重んじた)の手紙を受け取りました。それには、青山子世(名は延于、量介と称する。当時江戸屋敷の史館総裁。見聞が広く、とくに史学に優れ、著述が多い。館を彰考館と名づけたのは義公(光圀)の命名で、「史館」と書くのは役所や世間の呼び名に従ったものである。以下同じ)が、跡継ぎが定まらないことを憂えて、執政の榊原淡路守に会い、大義を持ち出して責めた、とありました。淡路守は鼻で笑って言いました。「君はなんと道理をわきまえないことか。幕府と三家は、等しく東照宮の血筋だ。万一のことがあれば、幕府の公子を迎えて継がせて、何の不都合があるのか」。子世はむっとして出て行きました。さらに(手紙は)こう述べています。
解説
この章句が説くこと
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