回天詩史 / 大津村の異船・大津村の異船と決死の命
三決死矣而不死彪頑鈍獲罪於幕府。禁錮默處。因徐憶從前之事。決死而不死者。至是凡三矣。文政甲申。彪年十有九。會諳厄利亞夷船。屢出沒東海。遂下輕舸來於常北大津村。村人捕獲以告。大津村係元老中山氏采池。廼發本藩騎士屬中山氏者(所謂組附者。及今納言公襲封。廢而不置)赴急。又發先鋒隊。副以監察(所謂目附。下倣之)行人(所謂使番)等之職。以備焉。事聞於幕府。幕府使代官古山某(稱善吉)譯者吉雄某(稱忠次郞)等按驗事由。當時輿論皆謂。幕府必脩舊典。火夷船戮夷人。以耀威於海外。及古山等至。詰問太寬。待以漂泊投陸之例。我先子聞之。竊謂彪曰。頻年醜虜窺邊海。時或鳴大砲。震驚我人民。傲慢無禮。其謂之何。而擧世姑息喜無事。吾恐其或出於放還之策。以苟一日之安。果然則堂堂神州。無一具眼人也。吾甚愧焉。汝速赴大津。竊伺動靜。若審其放還之議決。則直入夷人之舍。掉臂力鏖夷虜。然後從容就官請裁。雖出於一時權宜。庶乎足以少伸神州之正氣矣。吾不幸多女子。唯有汝一男耳。汝而死則吾祀絶矣。是吾與汝命窮之時也。汝勿顧慮。彪慨然曰。謹奉敎矣。蓋義見於色。先子泫然曰。眞吾兒也。因速辦行裝。適伯舅丹子正(名就道。稱市郞兵衞。爲人慷慨有奇節。尤長於和歌)來。先子因命杯杓。陰寓餞彪之意。酒未酣。俄有飛使來自大津。曰古山某等詰問夷奴。以爲其上陸唯爲乞薪水耳。非有他賜。乃給以薪水及米菓。許其歸巨艦。時風波頗惡。不審巨艦在何方位。而夷奴不以爲意欣然乘輕舸而去。不知其所之。一座恍然。是彪決死而不死之一也。文政己丑。彪年二十四。哀公疾病。人心恟恟。初武公早喪恭穆夫人。以故不有嫡嗣。有庶公子四人。曰榮之允君。曰祝之助君。曰敬三郞君。曰銓之允君。
新字:三決死矣而不死彪頑鈍獲罪於幕府。禁錮黙処。因徐憶従前之事。決死而不死者。至是凡三矣。文政甲申。彪年十有九。会諳厄利亜夷船。屡出没東海。遂下軽舸来於常北大津村。村人捕獲以告。大津村係元老中山氏采池。廼発本藩騎士属中山氏者(所謂組附者。及今納言公襲封。廃而不置)赴急。又発先鋒隊。副以監察(所謂目附。下倣之)行人(所謂使番)等之職。以備焉。事聞於幕府。幕府使代官古山某(称善吉)訳者吉雄某(称忠次郎)等按験事由。当時輿論皆謂。幕府必脩旧典。火夷船戮夷人。以耀威於海外。及古山等至。詰問太寛。待以漂泊投陸之例。我先子聞之。窃謂彪曰。頻年醜虜窺辺海。時或鳴大砲。震驚我人民。傲慢無礼。其謂之何。而挙世姑息喜無事。吾恐其或出於放還之策。以苟一日之安。果然則堂堂神州。無一具眼人也。吾甚愧焉。汝速赴大津。窃伺動静。若審其放還之議決。則直入夷人之舎。掉臂力鏖夷虜。然後従容就官請裁。雖出於一時権宜。庶乎足以少伸神州之正気矣。吾不幸多女子。唯有汝一男耳。汝而死則吾祀絶矣。是吾与汝命窮之時也。汝勿顧慮。彪慨然曰。謹奉教矣。蓋義見於色。先子泫然曰。真吾児也。因速辦行装。適伯舅丹子正(名就道。称市郎兵衛。為人慷慨有奇節。尤長於和歌)来。先子因命杯杓。陰寓餞彪之意。酒未酣。俄有飛使来自大津。曰古山某等詰問夷奴。以為其上陸唯為乞薪水耳。非有他賜。乃給以薪水及米菓。許其帰巨艦。時風波頗悪。不審巨艦在何方位。而夷奴不以為意欣然乗軽舸而去。不知其所之。一座恍然。是彪決死而不死之一也。文政己丑。彪年二十四。哀公疾病。人心恟恟。初武公早喪恭穆夫人。以故不有嫡嗣。有庶公子四人。曰栄之允君。曰祝之助君。曰敬三郎君。曰銓之允君。
書き下し
三たび死を決して而も死せず。彪、頑鈍にして罪を幕府に獲、禁錮せられて黙処す。因りて徐ろに従前の事を憶うに、死を決して而も死せざる者、是に至りて凡そ三たびなり。文政甲申、彪、年十有九。会〻諳厄利亜の夷船、屢〻東海に出没し、遂に軽舸を下して常北の大津村に来る。村人捕獲して以て告ぐ。大津村は元老中山氏の采池に係る。廼ち本藩の騎士の中山氏に属する者(所謂組附なり。今納言公の襲封に及び、廃して置かず)を発して急に赴かしむ。又先鋒隊を発し、副うるに監察(所謂目附。下も之に倣う)・行人(所謂使番)等の職を以てし、以て備う。事、幕府に聞こゆ。幕府、代官古山某(善吉と称す)・訳者吉雄某(忠次郎と称す)等をして事由を按験せしむ。当時の輿論は皆謂う、幕府は必ず旧典を修め、夷船を火き夷人を戮し、以て威を海外に耀かさんと。古山等至るに及び、詰問太だ寛く、待つに漂泊投陸の例を以てす。我が先子、之を聞き、竊かに彪に謂いて曰く、頻年、醜虜、辺海を窺い、時に或いは大砲を鳴らし、我が人民を震驚せしむ。傲慢無礼、其れ之を何と謂わん。而るに挙世姑息にして無事を喜ぶ。吾恐る、其れ或いは放還の策に出で、以て一日の安を苟にせんことを。果たして然らば、堂堂たる神州、一の具眼の人無きなり。吾甚だ愧ず。汝速やかに大津に赴き、竊かに動静を伺え。若し其の放還の議決するを審らかにせば、則ち直ちに夷人の舎に入り、臂を掉い力めて夷虜を鏖にし、然る後、従容として官に就きて裁を請え。一時の権宜に出ずと雖も、庶わくは以て少しく神州の正気を伸ぶるに足らん。吾不幸にして女子多く、唯だ汝一男有るのみ。汝死せば則ち吾が祀絶えん。是れ吾と汝と命窮まるの時なり。汝顧慮する勿れ。彪、慨然として曰く、謹んで教を奉ぜん。蓋し義、色に見る。先子、泫然として曰く、真に吾が児なり。因りて速やかに行装を辦ず。適〻伯舅丹子正(名は就道、市郎兵衛と称す。人と為り慷慨にして奇節有り。尤も和歌に長ず)来たる。先子因りて杯杓を命じ、陰かに彪を餞する意を寓す。酒未だ酣ならざるに、俄かに飛使の大津より来たる有り。曰く、古山某等、夷奴を詰問し、以為らく、其の上陸は唯だ薪水を乞うが為のみ、他の賜有るに非ずと。乃ち給するに薪水及び米菓を以てし、其の巨艦に帰るを許す。時に風波頗る悪く、巨艦の何れの方位に在るかを審らかにせず。而るに夷奴は意とせず、欣然として軽舸に乗りて去る。其の之く所を知らず。一座恍然たり。是れ彪が死を決して而も死せざるの一なり。文政己丑、彪、年二十四。哀公疾病し、人心恟恟たり。初め武公、早く恭穆夫人を喪う。是を以て嫡嗣有らず。庶公子四人有り。曰く栄之允君、曰く祝之助君、曰く敬三郎君、曰く銓之允君。
現代語訳
「三度死を覚悟して、しかも死ななかった」。私(彪)は愚鈍で幕府から罪を受け、禁錮されて黙って暮らしています。そこでゆっくり過去を思い返すと、死を覚悟して死ななかったことが、ここまでで三度ありました。文政七年(甲申)、私は十九歳でした。ちょうどイギリスの異国船がたびたび東の海に現れ、ついに小舟を下ろして常陸北部の大津村に上陸しました。村人が捕らえて届け出ました。大津村は(水戸藩の)元老の中山氏の知行地でした。そこで藩の騎士で中山氏に属する者(いわゆる組附。今の納言公(藩主)が家督を継ぐと廃止され置かれていません)を急派し、さらに先鋒隊を出し、監察(いわゆる目付。以下も同じ)や行人(いわゆる使番)などの役職の者を添えて備えさせました。この件は幕府に伝わり、幕府は代官の古山某(善吉と称する)と通訳の吉雄某(忠次郎と称する)らを遣わして事情を調べさせました。当時の世論はみな、幕府はきっと昔からの定めどおり、異国船を焼き、異国人を斬って、威光を海外に示すだろうと言っていました。ところが古山らが着くと、尋問はたいへん寛大で、漂流して上陸した者の前例どおりに扱いました。亡き父(藤田幽谷)はこれを聞き、ひそかに私に言いました。「近年、卑しい異国の者が沿海をうかがい、時には大砲を鳴らして我が民を驚かせている。傲慢で無礼なことは何と言えばよいか。それなのに世の中はみな目先の安らぎを求めて事なかれを喜んでいる。私は、幕府が彼らを帰してしまうという策に出て、一日の安逸をむさぼるのではないかと恐れる。もしそうなら、堂々たるこの国に、見識ある人が一人もいないことになる。私はひどく恥ずかしい。おまえは急いで大津に行き、ひそかに様子をうかがいなさい。もし帰す議が決まったと確かめたなら、すぐに異国人の宿舎に入り、腕を振るって力のかぎり斬り殺し、その後に落ち着いて役所に出向いて処分を請いなさい。一時しのぎの手立てではあるが、わが国の正気を少しは示せるだろう。私は不幸にも女子が多く、男子はおまえ一人だけだ。おまえが死ねば私の家の祭祀は絶える。これは私とおまえの命が尽きる時だ。ためらってはならない」。私は奮い立って「謹んで教えをお受けします」と答えました。義の心が顔に現れていたのでしょう。父は涙を流して「まことに我が子だ」と言いました。そこで急いで旅支度をしました。ちょうど伯父の丹子正(名は就道、市郎兵衛と称する。人柄は気概があって優れた節操があり、とりわけ和歌が得意)が来ました。父は杯と酒を用意させ、ひそかに私を送る意味を込めました。酒がまだたけなわにならないうちに、大津から急使が来ました。古山らが異国人を問いただし、上陸はただ薪と水を求めるためで他の目的はないと判断し、薪水と米菓を与えて大きな船に帰ることを許した、というのです。そのとき波風はかなり荒く、大きな船がどの方角にいるかもわからないのに、異国人は気にせず、喜んで小舟に乗って去り、行く先は分かりません。一座はあっけにとられました。これが私が死を決して死ななかった一つ目です。文政十二年(己丑)、私は二十四歳でした。哀公(藩主斉脩)が重病になり、人々の心は騒然としました。もともと武公(藩主治紀)は早くに恭穆夫人を亡くし、そのため正室の子の跡継ぎがありませんでした。側室の子が四人いて、栄之允君、祝之助君、敬三郎君、銓之允君といいます。
解説
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