海国兵談抄録 / 自序・兵家の偏りと三国の戦い方の違い
有文事者必有武備矣と宣り、其外黄石公は文武相並て、國家を經濟すべき趣を述、司馬讓苴ハ治世に戰を不忘ハ國家を保護するの道なることを言り、そのほかには晉の六卿、齊の管仲、漢の二祖、蜀の孔明、我が神祖の如き、皆兩全の旨を會得したる人々也、其餘、兵を談ずる人、和漢數多あれども、皆各其長ずる所のみ、傳授して、一方ぎゝの兵家なれば、兩全といふべからず、且亦戰闘の道、各國土の模儀あり、其大槩を論ずる時は、日本は其軍立、小搶合也、血戰を主として謀慮少し、只國土自然の勇氣に任せ命を捨て敵を碎く事を、第一の戰法とするゆへ、其鋒先はするどなれども、法粗きゆへ、持重の位を爲し難し、唐山は理と法とを重じて、謀計多く、持重を第一義とするゆへ、其軍立は堂々たれども、血戰に至ては、甚鈍、是等の事は日本、唐山、兩國の軍記を讀て味へば、其銳鈍は知べし、且寬永の頃、澁田八右衞門、濱田彌兵衞等、只九人、臺灣え押渡て、阿蘭陀の、ゼテラール(城代のこと也)を擒にしたる例もあり、又安永中、小子肥前の鎭臺館に遊事したりし頃、崎陽の在館唐人六十一人徒黨して亂を爲たる時、吾黨十五人、鎭臺の命を承て相向い、即時に六十一人を討破り、其楯籠たる工神堂を毀て歸れり、此時唐山人と、手詰の勝負を爲て、彼の國人の力戰に鈍き事を、親く試み知れり、亦歐羅巴の諸國は、大小の火器を專として、其外の飛道具甚多し、尤艦船の制、妙に精くして、船軍に長じたり、殊に其國、妙法有て能治めて、和親するゆへ、同國攻討事なく、只相互に他州を侵掠して、己れが有とする事を世々の勉として、決して同國中にて同士軍せざる也、是日本唐山等の企及ざる所なり、
新字:有文事者必有武備矣と宣り、其外黄石公は文武相並て、国家を経済すべき趣を述、司馬譲苴ハ治世に戦を不忘ハ国家を保護するの道なることを言り、そのほかには晋の六卿、斉の管仲、漢の二祖、蜀の孔明、我が神祖の如き、皆両全の旨を会得したる人々也、其余、兵を談ずる人、和漢数多あれども、皆各其長ずる所のみ、伝授して、一方ぎゝの兵家なれば、両全といふべからず、且亦戦闘の道、各国土の模儀あり、其大槩を論ずる時は、日本は其軍立、小搶合也、血戦を主として謀慮少し、只国土自然の勇気に任せ命を捨て敵を砕く事を、第一の戦法とするゆへ、其鋒先はするどなれども、法粗きゆへ、持重の位を為し難し、唐山は理と法とを重じて、謀計多く、持重を第一義とするゆへ、其軍立は堂々たれども、血戦に至ては、甚鈍、是等の事は日本、唐山、両国の軍記を読て味へば、其鋭鈍は知べし、且寛永の頃、渋田八右衛門、浜田弥兵衛等、只九人、台湾え押渡て、阿蘭陀の、ゼテラール(城代のこと也)を擒にしたる例もあり、又安永中、小子肥前の鎮台館に遊事したりし頃、崎陽の在館唐人六十一人徒党して乱を為たる時、吾党十五人、鎮台の命を承て相向い、即時に六十一人を討破り、其楯籠たる工神堂を毀て帰れり、此時唐山人と、手詰の勝負を為て、彼の国人の力戦に鈍き事を、親く試み知れり、亦欧羅巴の諸国は、大小の火器を専として、其外の飛道具甚多し、尤艦船の制、妙に精くして、船軍に長じたり、殊に其国、妙法有て能治めて、和親するゆへ、同国攻討事なく、只相互に他州を侵掠して、己れが有とする事を世々の勉として、決して同国中にて同士軍せざる也、是日本唐山等の企及ざる所なり、
書き下し
有文事者必有武備矣と宣り、其外黄石公は文武相並て、國家を經濟すべき趣を述、司馬讓苴ハ治世に戰を不忘ハ國家を保護するの道なることを言り、そのほかには晉の六卿、齊の管仲、漢の二祖、蜀の孔明、我が神祖の如き、皆兩全の旨を會得したる人々也、其餘、兵を談ずる人、和漢數多あれども、皆各其長ずる所のみ、傳授して、一方ぎゝの兵家なれば、兩全といふべからず、且亦戰闘の道、各國土の模儀あり、其大槩を論ずる時は、日本は其軍立、小搶合也、血戰を主として謀慮少し、只國土自然の勇氣に任せ命を捨て敵を碎く事を、第一の戰法とするゆへ、其鋒先はするどなれども、法粗きゆへ、持重の位を爲し難し、唐山は理と法とを重じて、謀計多く、持重を第一義とするゆへ、其軍立は堂々たれども、血戰に至ては、甚鈍、是等の事は日本、唐山、兩國の軍記を讀て味へば、其銳鈍は知べし、且寬永の頃、澁田八右衞門、濱田彌兵衞等、只九人、臺灣え押渡て、阿蘭陀の、ゼテラール(城代のこと也)を擒にしたる例もあり、又安永中、小子肥前の鎭臺館に遊事したりし頃、崎陽の在館唐人六十一人徒黨して亂を爲たる時、吾黨十五人、鎭臺の命を承て相向い、即時に六十一人を討破り、其楯籠たる工神堂を毀て歸れり、此時唐山人と、手詰の勝負を爲て、彼の國人の力戰に鈍き事を、親く試み知れり、亦歐羅巴の諸國は、大小の火器を專として、其外の飛道具甚多し、尤艦船の制、妙に精くして、船軍に長じたり、殊に其國、妙法有て能治めて、和親するゆへ、同國攻討事なく、只相互に他州を侵掠して、己れが有とする事を世々の勉として、決して同國中にて同士軍せざる也、是日本唐山等の企及ざる所なり、
現代語訳
孔子は「文事のある者は必ず武備がある」とおっしゃいました。そのほか、黄石公は文武が並び立って国家を治めるべき趣旨を述べ、司馬穰苴は、治世に戦いを忘れないのは国家を守る道であると言っています。そのほか、晋の六卿、斉の管仲、漢の二人の祖、蜀の諸葛孔明、わが神祖(徳川家康)のような人々は、みな両全の趣旨を会得した人々でした。それ以外に、兵を語る人は日本にも中国にも数多くいますが、みなそれぞれの得意とするところだけを伝授し、一方に偏った兵家なので、両全とは言えません。また戦いの道には、それぞれの国土の特色があります。その大要を論じれば、日本は陣立てが小競り合いで、血戦を主とし、謀りごとが少なく、ただ国土の自然な勇気に任せて命を捨てて敵を砕くことを第一の戦法とするため、その鋭さは強いものの、法が粗いので、持重(どっしり構えること)の位を保ちにくいのです。中国は理と法を重んじ、謀計が多く、持重を第一とするので、その陣立ては堂々としていますが、血戦になると甚だ鈍いのです。これらは日本と中国の軍記を読んで味わえば、その鋭さと鈍さが分かるでしょう。また寛永のころ、渋田八右衛門や浜田弥兵衛らがわずか九人で台湾へ渡り、オランダの「ゼテラール」(城代のこと)を捕えた例もあります。また安永年間、私が肥前の鎮台館(長崎奉行所)に遊んでいたころ、長崎に滞在していた中国人六十一人が徒党を組んで乱を起こしたとき、わが方の十五人が鎮台の命を受けて立ち向かい、すぐに六十一人を討ち破り、立てこもった工神堂を壊して帰りました。このとき中国人と手詰めの勝負をして、彼の国の人が力戦に鈍いことを、身をもって試し知りました。またヨーロッパの諸国は、大小の火器を専らとし、そのほかの飛び道具も非常に多いのです。とくに艦船の造りは精巧で、船戦にすぐれています。ことにその国には巧みな方法があってよく治まり、同じ地域の国どうしは和親するので、同国同士で攻め合うことはなく、ただ互いに他の地域を侵略して自分の領有とすることを代々の務めとして、決して同国の中では戦いません。これは日本や中国などが及ばないところです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』經說下見ると見ざるとは離る。一と二とは相い盈たさず。廣と循と堅白となり。舉げて重からざるは箴と與にせず、力の任に非ざるなり。握る者の倍を為すは、智の任に非ざるなり。耳目の若し。異。木と夜と孰れか長き。智と粟と孰れか多き。爵と親と行と賈と、四者孰れか貴き。麋と霍と孰れか髙き。麋と霍と孰れか霍なる。虭と瑟と孰れか瑟なる。偏。倶に一にして變ずる無し。假。假は必ず非なり、而る後に假なり。狗の霍を假るは、猶お霍を氏とするがごときなり。物。或いは之を傷るは、然るなり。之を見るは、智なり。之を吉するは、智らしむるなり。疑。蓬、務を為せば則ち士なり。牛廬を為る者、夏、寒きは、蓬なり。之を舉ぐれば則ち輕く、之を廢すれば則ち重きは、力有るに非ざるなり。沛、削に従うは、巧に非ざるなり。石と羽との若きは、楯なり。鬬う者の敝るるや、飲酒を以てす。曰中を以てするが若し。是れ智る可からざるなり、愚なり。智なるか、已を以て然りと為すか。愚なり。
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『学問のすゝめ』十二編・人の品行は高尚ならざるべからざるの論・事物の有様を比較して上流に向かいしからばすなわち、人の見識を高尚にして、その品行を提起するの法いかがすべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、みずから満足することなきの一事にあり。ただし有様を比較するとはただ一事一物を比較するにあらず、この一体の有様と、かの一体の有様とを並べて、双方の得失を残らず察せざるべからず。譬えば今、少年の生徒、酒色に溺るるの沙汰もなくして謹慎勉強すれば、父兄・長老に咎めらるることなく、あるいは得意の色をなすべきに似たれども、その得色はただ他の無頼生に比較してなすべき得色のみ。謹慎勉強は人類の常なり、これを賞するに足らず、人生の約束は別にまた高きものなかるべからず。広く古今の人物を計え、誰に比較して誰の功業に等しきものをなさばこれに満足すべきや。必ず上流の人物に向かわざるべからず。あるいは我に一得あるも彼に二得あるときは、我はその一得に安んずるの理なし。いわんや後進は先進に優るべき約束なれば、古を空しゅうして比較すべき人物なきにおいてをや。今人の職分は大にして重しと言うべし。
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