価原 / 『価原』歌舞妓の由来と名のみ残る昔
俳優ココニ歌舞妓ト云妓ハ女ノ稱ニシテ今ノ歌舞妓ハ男子也慶長以前人僧衣ヲ著テ鉦ヲタタキ佛號ヲ唱ヘテ念佛躍ト云者アリシニ同十九年ノ頃名古屋山三郎ト云者出雲ノ巫女國ト云者ニ密通シテ國ニ刀ヲササセ頭ヲツ、ンデ早歌ヲ敢エテ舞セケルニ傚ヒテ終ニ男子女ノ裝ヲナシ且舞且婬ヲ賣ルコトニナリヌ寛永ノ頃遊妓ノ禁有シヨリ殊ニ盛ニシテ往々女子ニ混ジテ事ヲ過ツヨツテ官頂髮ヲサラシム因テ紫華巾ヲ製シテ首飾トス亦宛然トシテ婦人也今復稍ク髮ヲ長シテ昔ニ復シヌ躍歌舞妓名ハ猶昔ニシテ物ハ昔ニアラズカフヤウノ物ハ其大ナル物ニシテ其小ナル物ハ擧テ數フベキニアラズ
新字:俳優ココニ歌舞妓ト云妓ハ女ノ称ニシテ今ノ歌舞妓ハ男子也慶長以前人僧衣ヲ著テ鉦ヲタタキ仏号ヲ唱ヘテ念仏躍ト云者アリシニ同十九年ノ頃名古屋山三郎ト云者出雲ノ巫女国ト云者ニ密通シテ国ニ刀ヲササセ頭ヲツ、ンデ早歌ヲ敢エテ舞セケルニ傚ヒテ終ニ男子女ノ装ヲナシ且舞且婬ヲ売ルコトニナリヌ寛永ノ頃遊妓ノ禁有シヨリ殊ニ盛ニシテ往々女子ニ混ジテ事ヲ過ツヨツテ官頂髪ヲサラシム因テ紫華巾ヲ製シテ首飾トス亦宛然トシテ婦人也今復稍ク髪ヲ長シテ昔ニ復シヌ躍歌舞妓名ハ猶昔ニシテ物ハ昔ニアラズカフヤウノ物ハ其大ナル物ニシテ其小ナル物ハ挙テ数フベキニアラズ
書き下し
俳優。ここに歌舞妓という、妓は女の称にして、今の歌舞妓は男子なり。慶長以前、人、僧衣を著て鉦を叩き、仏号を唱えて念仏躍という者ありしに、同十九年の頃、名古屋山三郎という者、出雲の巫女国という者に密通して、国に刀を差さし、頭を包んで早歌を敢えて舞わせけるに傚いて、ついに男子、女の装いをなし、かつ舞いかつ婬を売ることになりぬ。寛永の頃、遊妓の禁ありしより、ことに盛んにして、往々女子に混じて、事を過つによって、官、頂髪をさらしむ。よって紫華巾を製して首飾りとす。また宛然として婦人なり。今また稍く髪を長くして昔に復しぬ。躍・歌舞妓、名は猶昔にして、物は昔にあらず。かようの物はその大なる物にして、その小なる物は、挙げて数うべきにあらず。
現代語訳
俳優である。ここに歌舞妓というのは、妓は女の呼び名であるが、今の歌舞妓は男である。慶長より前には、人が僧の衣を着て鉦を叩き、仏の名を唱えて、念仏躍という者があった。同じ十九年のころ、名古屋山三郎という者が、出雲の巫女の国という者と密通して、国に刀を差させ、頭を包んで早歌をあえて舞わせたのに倣って、ついに男が女の装いをして、舞いながら色も売ることになった。寛永のころ、遊女の禁があってから、ことに盛んになり、しばしば女子に交じって、事を誤るために、幕府は前髪を剃らせた。そこで紫の頭巾を作って首飾りとした。それでもなお、まるで婦人のようである。今はまた、少しずつ髪を長くして、昔に戻った。躍と歌舞妓は、名は昔のままであるが、中身は昔のものではない。こうした物は大きな例であって、小さな例は、挙げて数えきれるものではない。
解説

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