価原 / 『価原』三味線と浄瑠璃のはじまり
サテ三絃ハ本ノ小山ノ詞ニ三絃玉指雙鈎手、小字題贈玉娥兒、トアレバ元ノ頃ヨリアルヨシ貝原イヘリサレドワガ豐中ニ傳ル所ハ永祿六年大友氏ヨリ石松檢校ヲ朝鮮ニ使セシニ洋中風ニアヒ漂流シテ琉球ニ至レリ其俗蛇ヲ避ルトテ常ニ鼓弓ヲ人ゴトニ彈ズ石松コレヲナラヒ豐後ニカヘリ此器ヲ制シ組ナド云手ヲツケテ玩ビケルニ廣マレリトモイヘリ淨瑠璃ハ小野ノ於通太閤ヨリ昔紫式部淸少納言各文ヲ著セリ是ニ習ヒ一書ヲ奉ルベキヨシ承リ退ヒテ自思フニハ何レ古人ノ筆ニハ倣フベカラズトテ義經東下リ矢矯ガ宿ノ淨瑠璃御前ト云女ニ懸想シテ通ヒケルコトヲ面白フ作リナシテ秀吉ニ奉リシカバ御感ニ入リ殊ニ時ノ人モモテハヤシケルヨリ後ニハ節ナドツケ色色ニ昔ノコトヲ作リ出シ西ノ宮傀儡師ト一ツニナリ操ト云者ニナリ又俳優コレト並ビ起リテ偶ヲナセリ
新字:サテ三絃ハ本ノ小山ノ詞ニ三絃玉指双鈎手、小字題贈玉娥児、トアレバ元ノ頃ヨリアルヨシ貝原イヘリサレドワガ豊中ニ伝ル所ハ永禄六年大友氏ヨリ石松検校ヲ朝鮮ニ使セシニ洋中風ニアヒ漂流シテ琉球ニ至レリ其俗蛇ヲ避ルトテ常ニ鼓弓ヲ人ゴトニ弾ズ石松コレヲナラヒ豊後ニカヘリ此器ヲ制シ組ナド云手ヲツケテ玩ビケルニ広マレリトモイヘリ浄瑠璃ハ小野ノ於通太閤ヨリ昔紫式部清少納言各文ヲ著セリ是ニ習ヒ一書ヲ奉ルベキヨシ承リ退ヒテ自思フニハ何レ古人ノ筆ニハ倣フベカラズトテ義経東下リ矢矯ガ宿ノ浄瑠璃御前ト云女ニ懸想シテ通ヒケルコトヲ面白フ作リナシテ秀吉ニ奉リシカバ御感ニ入リ殊ニ時ノ人モモテハヤシケルヨリ後ニハ節ナドツケ色色ニ昔ノコトヲ作リ出シ西ノ宮傀儡師ト一ツニナリ操ト云者ニナリ又俳優コレト並ビ起リテ偶ヲナセリ
書き下し
さて三絃は、元の小山の詞に「三絃玉指双鈎手、小字題贈玉娥児」とあれば、元の頃よりある由、貝原いえり。されど我が豊中に伝わる所は、永禄六年、大友氏より石松検校を朝鮮に使いせしに、洋中風にあい漂流して琉球に至れり。その俗、蛇を避くるとて、常に鼓弓を人ごとに弾ず。石松これを習い、豊後に帰り、この器を制し、組など言う手をつけて玩びけるに広まれりともいえり。浄瑠璃は、小野の於通、太閤より、昔紫式部・清少納言各文を著せり、これに習い一書を奉るべきよし承り、退いて自ら思うには、何れ古人の筆には倣うべからずとて、義経東下り、矢矯が宿の浄瑠璃御前という女に懸想して通いけることを、面白う作りなして秀吉に奉りしかば、御感に入り、ことに時の人ももてはやしけるより、後には節などつけ、色々に昔のことを作り出し、西の宮の傀儡師と一つになり、操という者になり、また俳優これと並び起こりて偶をなせり。
現代語訳
さて三味線は、元の小山の詞に「三絃は玉の指で双鈎の手、小さな字で玉娥児に贈る題をつける」とあるので、元のころからある物であると、貝原益軒が言っている。けれども、わが豊後の国に伝わるところでは、永禄六年に、大友氏が石松検校を朝鮮に使いに出したところ、海上で風にあって漂流し、琉球に着いた。その土地の風俗では、蛇を避けるためといって、常に鼓弓を人ごとに弾いている。石松はこれを習い、豊後に帰って、この楽器を作り、組歌などという弾き方をつけて楽しんだところ、広まったともいう。浄瑠璃は、小野の於通が、太閤から、昔は紫式部、清少納言がそれぞれ文章を著した、これに習って一書を献上するようにと承り、退いて自分で思うには、いずれにせよ昔の人の筆には倣えまいといって、義経が東国へ下り、矢矯の宿の浄瑠璃御前という女に思いを寄せて通ったことを、面白く作りなして秀吉に献上したところ、お気に召し、特に当時の人々ももてはやしたことから、のちには節などをつけ、いろいろ昔のことを作り出し、西宮の傀儡師と一つになって、操という者になり、また俳優がこれと並び起こって、人形芝居をなした。
解説

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