茶の本 / 第二章 茶の諸流・一個の碗から聖餐のように
王元之は茶を称揚して、直言のごとく霊をあふらせ、その爽快な苦味は善言の余馨を思わせると言った。蘇東坡は茶の清浄無垢な力について、真に有徳の君子のごとく汚すことができないと書いている。仏教徒の間では、道教の教義を多く交じえた南方の禅宗が苦心丹精の茶の儀式を組み立てた。僧らは菩提達磨の像の前に集まって、ただ一個の碗から聖餐のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して十五世紀における日本の茶の湯となった。
書き下し
王元之は茶を称揚して、直言のごとく霊をあふらせ、その爽快な苦味は善言の余馨を思わせると言った。蘇東坡は茶の清浄無垢な力について、真に有徳の君子のごとく汚すことができないと書いている。仏教徒の間では、道教の教義を多く交じえた南方の禅宗が、苦心丹精の茶の儀式を組み立てた。僧らは菩提達磨の像の前に集まって、ただ一個の碗から聖餐のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して、十五世紀における日本の茶の湯となった。
現代語訳
王元之は茶を讃えて、率直な言葉のように霊を溢れさせ、その爽やかな苦味は善い言葉の残り香を思わせる、と言いました。蘇東坡は茶の清浄無垢な力について、真に徳のある君子のように汚すことができない、と書いています。仏教徒の間では、道教の教えを多く交えた南方の禅宗が、苦心して丹精込めた茶の儀式を組み立てました。僧たちは達磨の像の前に集まり、ただ一つの碗から、聖餐のようにたいそう儀式ばって茶を飲んだのです。この禅の儀式こそが、ついに発達して十五世紀の日本の茶の湯となりました。
解説
茶の湯の直接の起源が示されます。禅寺で、達磨の像の前に集まり、一つの碗を回して飲む。回し飲みという今日の濃茶の作法が、ここから来ていることが分かります。天心はこれを聖餐に喩え、欧米の読者に一気に近づけてみせる。師導には『臨済録』『六祖壇経』『正法眼蔵随聞記』など禅の書も収めており、この儀式を生んだ思想の土壌をたどることができます。
この章句が説くこと
禅儀式共有茶の湯起源
関連する章句
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・足利義政と茶の湯の確立南宋の禅は驚くべき迅速をもって伝播し、これとともに宋の茶の儀式および茶の理想も広まって行った。十五世紀のころには将軍足利義政の奨励するところとなり、茶の湯は全く確立して、独立した世俗のことになった。爾来茶道はわが国に全く動かすべからざるものとなっている。後世のシナの煎茶は、十七世紀中葉以後わが国に知られたばかりであるから、比較的最近に使用し始めたものである。日常の使用には煎茶が粉茶に取って代わるに至った、といっても粉茶は今なお茶の中の茶としてその地歩を占めてはいるが。
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・日本に伝わった茶日本はシナ文化の先蹤を追うて来たのであるから、この茶の三時期をことごとく知っている。早くも七二九年、聖武天皇奈良の御殿において百僧に茶を賜うと書物に見えている。茶の葉はたぶん遣唐使によって輸入せられ、当時流行のたて方でたてられたものであろう。八〇一年には僧最澄、茶の種を携え帰って叡山にこれを植えた。その後年を経るにしたがって貴族僧侶の愛好飲料となったのはいうまでもなく、茶園もたくさんできたということである。宋の茶は一一九一年、南方の禅を研究するために渡っていた栄西禅師の帰国とともにわが国に伝わって来た。彼の持ち帰った新種は首尾よく三か所に植え付けられ、その一か所、京都に近い宇治は、今なお世にもまれなる名茶産地の名をとどめている。
-
『茶の本』第三章 道教と禅道・函谷関の一碗の仙薬茶と禅との関係は世間周知のことである。茶の湯は禅の儀式の発達したものであるということはすでに述べたところであるが、道教の始祖老子の名もまた茶の沿革と密接な関係がある。風俗習慣の起源に関するシナの教科書に、客に茶を供するの礼は老子の高弟関尹に始まり、函谷関で「老哲人」にまず一碗の金色の仙薬をささげたと書いてある。道教の徒がつとにこの飲料を用いたことを確証するようないろいろな話の真偽を、ゆっくりと詮議するのも価値あることではあるが、それはさておき、ここでいう道教と禅道とに対する興味は、主としていわゆる茶道として実際に現われている、人生と芸術に関するそれらの思想に存するのである。
-
『茶の本』第四章 茶室・禅院の仏壇は床の間の原型茶室の簡素清浄は禅院の競いからおこったものである。禅院は他の宗派のものと異なって、ただ僧の住所として作られている。その会堂は礼拝巡礼の場所ではなくて、禅修行者が会合して討論し黙想する道場である。その室は、中央の壁の凹所、仏壇の後ろに禅宗の開祖菩提達磨の像か、または祖師迦葉と阿難陀をしたがえた釈迦牟尼の像があるのを除いては、なんの飾りもない。仏壇には、これら聖者の禅に対する貢献を記念して香華がささげてある。茶の湯の基をなしたものはほかではない、菩提達磨の像の前で同じ碗から次々に茶を喫むという禅僧たちの始めた儀式であったということは、すでに述べたところである。が、さらにここに付言してよかろうと思われることは、禅院の仏壇は、床の間――絵や花を置いて客を教化する日本間の上座――の原型であったということである。
-
『茶の本』第一章 人情の碗・茶は薬用として始まった茶は薬用として始まり、後に飲料となる。シナにおいては八世紀に、高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。十五世紀に至り、日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事のなかに存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・茶室は人世の荒野における沃地日本の茶の湯においてこそ、始めて茶の理想の極点を見ることができるのである。一二八一年蒙古襲来に当たって、わが国は首尾よくこれを撃退したために、シナ本国においては蛮族侵入のため不幸に断たれた宋の文化運動を、われわれは続行することができた。茶はわれわれにあっては、飲む形式の理想化より以上のものとなった。今や茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。茶室は寂寞たる人世の荒野における沃地であった。疲れた旅人はここに会して、芸術鑑賞という共同の泉から渇をいやすことができた。茶の湯は、茶、花卉、絵画等を主題に仕組まれた即興劇であった。