茶の本 / 第二章 茶の諸流・足利義政と茶の湯の確立
南宋の禅は驚くべき迅速をもって伝播し、これとともに宋の茶の儀式および茶の理想も広まって行った。十五世紀のころには将軍足利義政の奨励するところとなり、茶の湯は全く確立して、独立した世俗のことになった。爾来茶道はわが国に全く動かすべからざるものとなっている。後世のシナの煎茶は、十七世紀中葉以後わが国に知られたばかりであるから、比較的最近に使用し始めたものである。日常の使用には煎茶が粉茶に取って代わるに至った、といっても粉茶は今なお茶の中の茶としてその地歩を占めてはいるが。
書き下し
南宋の禅は驚くべき迅速をもって伝播し、これとともに宋の茶の儀式および茶の理想も広まって行った。十五世紀のころには将軍足利義政の奨励するところとなり、茶の湯は全く確立して、独立した世俗のことになった。爾来茶道はわが国に全く動かすべからざるものとなっている。後世のシナの煎茶は、十七世紀中葉以後わが国に知られたばかりであるから、比較的最近に使用し始めたものである。日常の使用には煎茶が粉茶に取って代わるに至った、といっても粉茶は今なお茶の中の茶としてその地歩を占めてはいるが。
現代語訳
南宋の禅は驚くべき速さで伝わり、これとともに宋の茶の儀式と茶の理想も広まっていきました。十五世紀のころには将軍足利義政が奨励するところとなり、茶の湯はまったく確立して、独立した世俗のことになりました。以来、茶道はわが国でまったく揺るぎないものとなっています。後の世の中国の煎茶は、十七世紀半ば以後にわが国に知られたばかりですから、比較的最近使い始めたものです。日常の使用では煎茶が粉茶に取って代わるようになりました。といっても粉茶は今なお茶の中の茶としての地位を占めていますが。
解説
寺の儀式が世俗の作法になった転換点が記されます。足利義政の東山文化が、禅寺の中にあった茶を外へ出した。独立した世俗のことになった、という表現が的確で、以後は僧でない者が担い手になります。同時に日常の茶は煎茶に移り、抹茶は特別な場に残った。日常用と儀式用が分かれることで、両方が生き延びたという構図で、文化が生き残る現実的な形を示しています。
この章句が説くこと
茶の湯世俗義政確立日常
関連する章句
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・一個の碗から聖餐のように王元之は茶を称揚して、直言のごとく霊をあふらせ、その爽快な苦味は善言の余馨を思わせると言った。蘇東坡は茶の清浄無垢な力について、真に有徳の君子のごとく汚すことができないと書いている。仏教徒の間では、道教の教義を多く交じえた南方の禅宗が、苦心丹精の茶の儀式を組み立てた。僧らは菩提達磨の像の前に集まって、ただ一個の碗から聖餐のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して、十五世紀における日本の茶の湯となった。
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・日本に伝わった茶日本はシナ文化の先蹤を追うて来たのであるから、この茶の三時期をことごとく知っている。早くも七二九年、聖武天皇奈良の御殿において百僧に茶を賜うと書物に見えている。茶の葉はたぶん遣唐使によって輸入せられ、当時流行のたて方でたてられたものであろう。八〇一年には僧最澄、茶の種を携え帰って叡山にこれを植えた。その後年を経るにしたがって貴族僧侶の愛好飲料となったのはいうまでもなく、茶園もたくさんできたということである。宋の茶は一一九一年、南方の禅を研究するために渡っていた栄西禅師の帰国とともにわが国に伝わって来た。彼の持ち帰った新種は首尾よく三か所に植え付けられ、その一か所、京都に近い宇治は、今なお世にもまれなる名茶産地の名をとどめている。
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・茶室は人世の荒野における沃地日本の茶の湯においてこそ、始めて茶の理想の極点を見ることができるのである。一二八一年蒙古襲来に当たって、わが国は首尾よくこれを撃退したために、シナ本国においては蛮族侵入のため不幸に断たれた宋の文化運動を、われわれは続行することができた。茶はわれわれにあっては、飲む形式の理想化より以上のものとなった。今や茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。茶室は寂寞たる人世の荒野における沃地であった。疲れた旅人はここに会して、芸術鑑賞という共同の泉から渇をいやすことができた。茶の湯は、茶、花卉、絵画等を主題に仕組まれた即興劇であった。
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・宋人の茶に対する熱狂宋代には抹茶が流行するようになって、茶の第二の流派を生じた。茶の葉は小さな臼で挽いて細粉とし、その調製品を湯に入れて割り竹製の精巧な小箒でまぜるのであった。この新しい方法が起こったために、陸羽が茶の葉の選択法はもちろん、茶のたて方にも多少の変化を起こすに至って、塩は永久にすてられた。宋人の茶に対する熱狂はとどまるところを知らなかった。食道楽の人は互いに競うて新しい変わった方法を発見しようとした、そしてその優劣を決するために定時の競技が行なわれた。徽宗皇帝は、あまりに偉い芸術家であって行ないよろしきにかなった王とはいえないが、茶の珍種を得んためにその財宝を惜しげもなく費やした。王みずから茶の二十四種についての論を書いて、そのうち「白茶」を最も珍しい良質のものであるといって重んじている。
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・人いずくんぞ廋さんや芸術と同じく、茶にもその時代と流派とがある。茶の進化は概略三大時期に分けられる、煎茶、抹茶および掩茶、すなわちこれである。われわれ現代人はその最後の流派に属している。これら茶のいろいろな味わい方は、その流行した当時の時代精神を表わしている。と言うのは、人生はわれらの内心の表現であり、知らず知らずの行動はわれわれの内心の絶えざる発露であるから。孔子いわく「人いずくんぞ廋さんや、人いずくんぞ廋さんや」と。たぶんわれわれは隠すべき偉大なものが非常に少ないからであろう、些事に自己を顕わすことが多すぎて困る。日々起こる小事件も、哲学、詩歌の高翔と同じく、人種的理想の評論である。愛好する葡萄酒の違いでさえ、ヨーロッパのいろいろな時代や国民のそれぞれの特質を表わしているように、茶の理想もいろいろな情調の東洋文化の特徴を表わしている。
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・完成することであって完成ではない宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた、ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界に映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫はこれただ瞬時――涅槃はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存すという道教の考えが、彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。かくのごとくして人は直ちに天に直面するようになった。新しい意味は次第に生の術にはいって来た。茶は風流な遊びではなくなって、自性了解の一つの方法となって来た。