価原 / 『価原』天下の勢いを使う権
昔亂國ノ頃ハ下民モ農桑ノ暇無カリシカドモソコノ籠城コ、ノ對陣ト云ニ相應ノ兵糧ハ有リシトナリ今ハ昇平ノ世ニシテ纔ニ朝親屬役ノミナレドモ其臣僚ノ扶持ニダニ乏シ萬一邊陲ノ警モアラバ何ヲ以テ、祖宗ノ意ニ答ヘ國家百年ノ恩ニ報ゼン遠キ慮ナケレバ必近キ憂アリ有國者ノ急務何レカ是ヨリ先ナラン四民ハ之ヲ有國者ニ仰グ有國者ハ是ヲ有天下ノ人ニ仰グ天下ノ勢ハ有天下ノ人ノナス所ニシテ有國者ノ力ノ及ブ所ニアラズ一國ノ勢ハ一國ヲ有スル人ノナス所ニシテ士民ノ力ノ及ブ處ニアラズヨク權ヲトル人ハ能勢ヲツカフ勢ヲツカフハ譬バ砂ヲ盆中ニ淘ルガ如シ左ニ走ラシメンモ右ニ走ラシメンモ皆手中ニアリ然ラバ文ニ走ラシメンモ質ニ走ラシメンモ利ニ赴カシメンモ義ニ赴カシメンモ金銀ヲ貴クスルモ布粟ヲ貴クスルモ良民多カラシムルモ游手多カラシムルモナスニ從フ者ナリ天下一年立ノ勢ハ有國者ノ回ラスベキニ非ラザレドモ一國ノ勢ハ豈一國ノ勢アラザランヤ其術卽生之者衆クコレヲ食ム者少ク之ヲ爲ル者疾ク之ヲ用ル者舒ナルニアリ
新字:昔乱国ノ頃ハ下民モ農桑ノ暇無カリシカドモソコノ籠城コ、ノ対陣ト云ニ相応ノ兵糧ハ有リシトナリ今ハ昇平ノ世ニシテ纔ニ朝親属役ノミナレドモ其臣僚ノ扶持ニダニ乏シ万一辺陲ノ警モアラバ何ヲ以テ、祖宗ノ意ニ答ヘ国家百年ノ恩ニ報ゼン遠キ慮ナケレバ必近キ憂アリ有国者ノ急務何レカ是ヨリ先ナラン四民ハ之ヲ有国者ニ仰グ有国者ハ是ヲ有天下ノ人ニ仰グ天下ノ勢ハ有天下ノ人ノナス所ニシテ有国者ノ力ノ及ブ所ニアラズ一国ノ勢ハ一国ヲ有スル人ノナス所ニシテ士民ノ力ノ及ブ処ニアラズヨク権ヲトル人ハ能勢ヲツカフ勢ヲツカフハ譬バ砂ヲ盆中ニ淘ルガ如シ左ニ走ラシメンモ右ニ走ラシメンモ皆手中ニアリ然ラバ文ニ走ラシメンモ質ニ走ラシメンモ利ニ赴カシメンモ義ニ赴カシメンモ金銀ヲ貴クスルモ布粟ヲ貴クスルモ良民多カラシムルモ游手多カラシムルモナスニ従フ者ナリ天下一年立ノ勢ハ有国者ノ回ラスベキニ非ラザレドモ一国ノ勢ハ豈一国ノ勢アラザランヤ其術即生之者衆クコレヲ食ム者少ク之ヲ為ル者疾ク之ヲ用ル者舒ナルニアリ
書き下し
昔乱国の頃は、下民も農桑の暇なかりしかども、そこの籠城、ここの対陣というに、相応の兵糧はありしとなり。今は昇平の世にして、わずかに朝親属役のみなれども、その臣僚の扶持にだに乏し。万一辺陲の警もあらば、何をもって祖宗の意に答え、国家百年の恩に報ぜん。遠き慮りなければ、必ず近き憂いあり。国を有つ者の急務、いずれかこれより先ならん。四民はこれを国を有つ者に仰ぐ。国を有つ者はこれを天下を有つ人に仰ぐ。天下の勢いは天下を有つ人のなす所にして、国を有つ者の力の及ぶ所にあらず。一国の勢いは一国を有つ人のなす所にして、士民の力の及ぶ処にあらず。よく権を取る人はよく勢いを使う。勢いを使うは、たとえば砂を盆中に淘るがごとし。左に走らしめんも右に走らしめんも、みな手中にあり。しからば、文に走らしめんも質に走らしめんも、利に赴かしめんも義に赴かしめんも、金銀を貴くするも布粟を貴くするも、良民多からしむるも游手多からしむるも、なすに従う者なり。天下一年立の勢いは国を有つ者の回らすべきにあらざれども、一国の勢いはあに一国の勢いなからんや。その術は、すなわち、生ずる者衆く、これを食む者少なく、これを為る者疾く、これを用いる者舒やかなるにあり。
現代語訳
昔、乱れた国の頃は、下々の民も農作や養蚕の暇がなかったが、あそこの籠城、ここの対陣というときにも、それ相応の兵糧はあったという。今は太平の世で、わずかな務めがあるばかりなのに、家臣たちの扶持にさえ乏しい。万一、辺境に急変があれば、何をもって先祖の志に応え、国家百年の恩に報いようか。遠い先の備えを考えなければ、必ず目前に憂いが来る。国を治める者の急務で、これより先にすべきことがあろうか。四民は国を治める者を頼り、国を治める者は天下を治める人を頼る。天下の勢いは天下を治める人がつくるもので、国を治める者の力の及ぶところではない。一国の勢いは一国を治める人がつくるもので、士や民の力の及ぶところではない。よく権を握る人は、よく勢いを使う。勢いを使うのは、たとえば盆の中で砂をゆするようなもので、左へ走らせるのも右へ走らせるのも、みな手の内にある。それならば、華やかさに向かわせるのも質実に向かわせるのも、利に向かわせるのも義に向かわせるのも、金銀を尊ばせるのも布や粟を尊ばせるのも、良民を多くするのも遊び人を多くするのも、すべて施し方次第である。天下全体の一年立の勢いは、国を治める者が転じられるものではないが、一国の勢いについては、どうして一国なりの勢いがないことがあろうか。その方法とは、つまり、生産する者が多く、消費する者が少なく、作るのが速く、使うのがゆっくりであること、にある。
解説

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価原・『価原』至宝を守り遊手を本業へ戻す心然ればこの至宝を少しにても天地の間に生殖し、少しにても天地の間に存し、民生生生の用を助くるほど、天に事うる務めはあらじ。ただ勢い偏にして、郡県に来歳凶饑の備えなく、都会には遊手貪り費やすの煩いありて、これを傷むの人に乏し。故に民の風に梳り雨に沐い、星に耕し露に耘りし膏血を、文彩・刻鏤・音声・技巧の用に貪り尽くし、その生ずる者をして悶でしめ、その費やす者をして播さしむ。意ある者、あに薬目して憂えざるべけんや。もしこれを憂うる人あらば、一郡一県を治めんにも、何とぞ人を一人にても農に返し、一人にても遊手を本業に本づかしめ、財貨他より入るの路を開き、器械他に求めざるべきこそ肝要なれ。一国を治むる人は、他国をもって壑とせざることを得ず。白圭と禹と、勢い同じからざることあり。
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価原・『価原』大積りで考える天下の足りまず大勢を治めんには大積りを知るべきことなり。けだし十人の耕すを一人にて食い尽くし、十人の織るを一人にて着尽くさば、九人は饑寒を免れざるべし。この故に一夫耕し耘って、その妻子を養うべく、一婦蚕し繰って夫子に衣すべし。飲食これより美に過ぎ、衣服これより麗に過ぐれば、その人には贏あれども、天下に通じては足らざるべし。有力の人は匹夫と同じかるべきにはあらざれども、細民のために慮るにおいては、察せずんばあるべからず。爽日は数金を尽くすにあらざれば一饗に供するに足らず。美服は数月の力を用ゆるにあらざれば一衣となすに足らず。もし斉民の風俗自然とこの積りの外に出でば、いかでか饑寒に免れん。
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価原・『価原』権柄を執るとは釣り合いを取ること天下の勢いを取る事を権柄と云えり。権とは称の錘なり。柄とはその錘を自在によく釣り合わするなり。今、衡は持すれども、懸る者の軽重を称錘を以て自由にする事あたわずんば、権柄を何にかせん。称錘は重きを増さず、軽きを加えず、軽ければ軽きに従い、重ければ重きに従い、釣り合いをつけて平を持す。もし権柄を執る人、米粟布帛百の器財費用と金銀と、その釣り合いを見て、多少その宜しきを得せしめば、増減に従って平を得べし。この故に称錘をかえよとにはあらず、軽重に従いて釣り合いをとる事なり。これを権柄を執ると云うなり。
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価原・『価原』太平の奢りと病根を見る目今は天下太平にして、恩沢天のごとくなれば、なにゆえかかる安楽に耽るぞと思い回らすこともなく、貴きも賤しきも衣服・飲食・居処・交際、ただ日々に華靡に走り、有司も俸禄の外、賄を恃みて事を弁ずるゆえ、田地の租税も重からざること能わず、臣僚の俸粟も減ぜざることを得ず。ゆえに農に余利を見せて人を農に返し、工に力を添えて游手を力に食しめ、財貨他国に出ざる様にと思うなり。もしその病根を見ずして末を追い、令を下して賄賂を禁じ、奢侈をやめんと欲すとも、礼楽講ぜず制度立たず、民用の足らんことを求むとも、綱を結ばずして魚を羨む類なるべし。
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価原・『価原』欲に限りがあり財には限りがある事、両ながら全うし難ければ、廉恥の風荒めば、人、賄賂を好む。礼譲の教え至らざれば、人、争奪を好む。制度立つことなければ、華奢、等を踰ゆ。今、その好むを好むに任せ、踰ゆるを踰ゆるに任せ、限りなき人の欲を、極まり有る財宝にて償わんことを求めば、天下の大山高岳をして尽く金を出ださしむるとも、米粟布帛の至宝を生ずる者をしてその業を棄てしめ、衣食器械にもならざる物に人巧を費やさしむるに過ぎず。これをもって今たとい金銀をして天下の米粟布帛のごとく多からしむとも、世ただ債数の多くなるまでにて、至宝の生路は日々に薄く、人の賑わうことは有るまじきなり。
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価原・『価原』生を厚くしてこそ廉恥の風が立つ然れば人主を始めとし、これに羽翼たる輩、自身を責めざることを得んや。この故に政は生を厚うするに在り。生を厚うするがために用を利す。生薄ければ貪らざることを得ず。生厚ければ貪る心薄らぐ。たとえば溺れを救うがごとし。自ら水に溺るる時は、子溺るるといえども顧みず。自ら舟中に安んずれば、猫犬の溺るるも見て打ち過ぐる人はなし。唯だ勢いの足ると足らざるとの間なり。故に民生厚うして、然して後、礼譲廉恥の風唱うべし。民生厚しといえども、礼譲廉恥の風興らざれば、華奢放恣に赴く。華奢放恣なれば用足らず。用足らざれば、また貪る。故に賄賂争奪興るなり。夫れ君は臣の表なり。臣は君の影なり。表正しければ影直し。表傾けば影斜めなり。君にして身正しからざれば、令すといえども行われず。