価原 / 『価原』太平の世と参勤交代の成り立ち
足ヲ以テ金銀ハ四民共ニ有無ヲ通ズルノ要物ナレドモ專交易ヲ事トスル者ナル故ニ金銀ノ運ビヲ假ルコト專要ナリ賴朝府ヲ鎌倉ニ開カレショリ足利織田豐臣繼興ルトイヘドモ唯馬上ヲ以テ天下ヲ治メント欲シテ民ヲ軌物ニ入ルルノ擧ナク實ノ太平ト云事ハ無カリシニ國家興リシヨリ德妖氛ヲ消シ治封建ニナラヒ百六十年來四海波ヲ揚ゲズ吾儕小人ニ至ルマデ緩帶皷腹早ク寢ネ旰テ食フコトヲ得ルモ何レカ恩波ノ及ベル所ニアラザラン蓋國初藤堂高虎足利ノ先轍ヲ鑑ミ自ラ夫人公子ヲ東都ノ邸ニ入レラレテヨリ諸侯後ルル者ナク身封國ニ就クトイヘドモ家東都ニアリ隔年朝觀ノ禮有テ割據虎視ノ勢變ジテ四海一家ノ化トナリ戸トザサヌ御世トナリ侍リヌ
新字:足ヲ以テ金銀ハ四民共ニ有無ヲ通ズルノ要物ナレドモ専交易ヲ事トスル者ナル故ニ金銀ノ運ビヲ仮ルコト専要ナリ頼朝府ヲ鎌倉ニ開カレショリ足利織田豊臣継興ルトイヘドモ唯馬上ヲ以テ天下ヲ治メント欲シテ民ヲ軌物ニ入ルルノ挙ナク実ノ太平ト云事ハ無カリシニ国家興リシヨリ徳妖氛ヲ消シ治封建ニナラヒ百六十年来四海波ヲ揚ゲズ吾儕小人ニ至ルマデ緩帯鼓腹早ク寝ネ旰テ食フコトヲ得ルモ何レカ恩波ノ及ベル所ニアラザラン蓋国初藤堂高虎足利ノ先轍ヲ鑑ミ自ラ夫人公子ヲ東都ノ邸ニ入レラレテヨリ諸侯後ルル者ナク身封国ニ就クトイヘドモ家東都ニアリ隔年朝観ノ礼有テ割拠虎視ノ勢変ジテ四海一家ノ化トナリ戸トザサヌ御世トナリ侍リヌ
書き下し
足を以て、金銀は四民共に有無を通ずる要物なれども、専ら交易を事とする者なる故に、金銀の運びを仮ること専要なり。頼朝、府を鎌倉に開かれしより、足利・織田・豊臣継ぎ興るといえども、唯だ馬上を以て天下を治めんと欲して、民を軌物に入るるの挙なく、実の太平と云う事は無かりしに、国家興りしより、徳、妖氛を消し、治、封建に倣い、百六十年来、四海波を揚げず、吾儕小人に至るまで、緩帯鼓腹、早く寝ね旰く食うことを得るも、何れか恩波の及べる所にあらざらん。蓋し国初、藤堂高虎、足利の先轍を鑑み、自ら夫人公子を東都の邸に入れられてより、諸侯後るる者なく、身は封国に就くといえども、家は東都にあり、隔年朝観の礼有りて、割拠虎視の勢い変じて、四海一家の化となり、戸ざさぬ御世となり侍りぬ。
現代語訳
こういうわけで、金銀は四民がともに有るものと無いものをやりとりするための大切な物であるが、とりわけ交易を仕事とする者にとっては、金銀の運びの助けを借りることが特に重要である。源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、足利、織田、豊臣が次々と興ったけれども、ただ馬上の武力で天下を治めようとして、民を規範の内に入れる取り組みはなく、真の太平といえるものはなかった。ところが徳川の国家が興ってからは、その徳が不穏な気配を消し、政治は封建の制にならい、百六十年来、四海に波が立たず、私たち取るに足りない者に至るまで、帯をゆるめ腹つづみを打ち、早く寝て遅く食事をとることができるのも、すべて恩沢の波が及んだものでなくてなんであろう。思うに、徳川の国の初め、藤堂高虎が足利の先例を鑑みて、自ら奥方や公子を江戸の屋敷に入れたことから、大名たちも遅れる者がなく、身は領国にいても家族は江戸にあり、一年おきに参勤の礼があって、各地に割拠して虎のように機をうかがう勢いが、四海を一つの家とする風に変わり、戸を閉ざす必要のない御代となったのである。
解説

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価原・『価原』太平の世に金銀へ向かう心されば戦国の頃は日夜闘争やむこと無かりしかば、手を拱いて人に命を授くべき様もなければ、人は防禦を主として、僧も俗も農も商も、その実は武士なりき。今や昇平の世の中にして、ただ苦しむことは金銀なれば、上下をしなべて、ただ一心専念、金銀にあり。ここにおいて、その形はさまざま変われども、心はいずれか乾没にあらざらん。一得一失の理勢、誠にいかんともすべからざるものなるべし。されば今、天下の事勢を聞くに、いずかたを尋ねても、郡県の人は年々に減り、都会の人は年々に増す由なり。これ衡を取る人の最も眼を着くべき所なり。
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価原・『価原』日本の金銀銭と東山殿の無心我が国は漢土に比すれば遅く闕けたる故、風俗も最も淳朴にして立てけり。されば銀は人皇四十代天武天皇、白鳳三年、対馬より出だし、銅は四十三代元明天皇、和銅元年、武蔵の国より出だし、金は四十五代聖武天皇、天平二十一年、陸奥の国より貢ずといえども、さまで多きにもあらず。銭の通用も白鳳以来有りしかども、今の様なる事にはあらず。博多にもろこし船来りし頃は、宋銭を以て物を弁じ、近く室町殿の頃あでも、明朝永楽銭にて事済みぬ。東山殿は国用乏しとて三度まで明へ銭乞われし中にも、文明の頃乞われしには、十万貫を賜らば国用足らんと歎き申されき。十万貫いくばくぞや。今の富人一の産とするにだも足らず。然れば今、銭幣の多きこと、弁ぜずして知るべし。かくまで財貨に富める世を、金銀少き様に心得たるは僻事なり。
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価原・『価原』三幣の変遷と金銀の本来の面目蓋し金銀銅の三幣、金は大用有りて瑣碎に用い難く、銭は小砕に便にして大用に便ならず、銀は中間にあるものにして、三幣の代る代る用をなす所なり。昔は人質朴にして、金は砂金、銀は炭吹き様のもの多く通じたり。天正の頃より大判小判丁銀など始まり、慶長四年始めて一分判出来、慶長六年の後、大判小判一分判丁銀豆板等改らる。これ国家の造幣にして、以来、元禄・享保・元文、近来に到りて、三幣色々の製ども出来りし也。夫れ金銀は幣の用を主とす。民用に於いては鉄を主とす。然して銅は幣・器兼ね用うる者なり。金銀若し幣の用を除けば、刀の縁頭、仏殿の荘厳、漆匠の描金など、玩物に過ぎず。薬用も有れども要薬にはあらず。されば近来は費多くなりて、さまでに多き金銀猶お給する事能わず、楮鈔大いに世に行わる。金銀の用は唯だ諸貨運輸の用ばかりなれば、楮鈔にても飛銭にても済む者也。余貨の如きは、寒を凌ぐことは布帛にあらざれば能わず、飢を愈すことは米粟に非ざれば能わざるにて、金銀本来の面目を知るべし。この故に、天下の権を執りて経済に心を用ゆる人は、有用の貨を日々に生殖し、無用の貨を貴ばぬ様に致すべき事なり。金銀を以て天下の豊倹を病む人は、回天の功は有り難かるべし。
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『秘本玉くしげ』下 金銀の多さを知らず抑金銀を広く通用する事は、慶長のころより始まれることにて、その以前はただ銭のみの通用なりき。然るに此金銀通用始まりては、甚世上の便利にして、尤自由よろしき事也。さて通用の金銀は、随分多きほど便利にして自由は宜しき也。然れども、それに付て又失ある事多く、却て世上の困窮に及ぶ基ともなること也。かくて当時天下に通用する金銀は殊の外に多くして、甚便利はよき事なるに、今の人はもとよりかくのごとくなる世に馴たる故に、金銀の甚多きといふ事をしらず、便利の甚宜しき事をも覚えずして、却て世上通用の金銀の払底にて得がたきゆゑに世は困窮するやうに思ふは、商人心にして、末をのみ思ひて本をしらざるもの也。
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価原・『価原』貸し借りで金銀が集まる仕組みここにおいて四民、ただ金銀のみを見てこれに走ること、水の下に赴くがごとし。当今は櫜を建つる世なれば兵馬の功は立つべき様なく、寰宇艾安なれば修文の業も施す所なく、屯を亨し塞を済うの用、文武の徳にも勝る。故に金銀にだに富む人は、無芸無能にても不礼不徳にても、上下に渇仰せらるれば、最も興じ難きは廉恥の風なり。ここにおいてこれを借る者は年々息を出だし、これを貸す者は年々息を収む。貸せば金銀世に散る様なれども、実は本銭を囮にして、もって天下の金銀を羅す。富家の息、年を逐うて増せば、国家の用、年を逐うて乏し。乏しければ上の人、下に求めざることを得ず。上の人下に求むれば、下すなわち上に給す。
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価原・『価原』奢りに走る太平の世と財の道の疎遠この故に、今日の諸侯の費用は朝観を主とす。次に公事属役の事あり。然りといえども、是れは是れ主盟控撃の権のある所、これを戦争の難に比すれば九牛が一毛なり。謹みて財を節せば、国用は定めて足るの道あるべし。人久しく太平の化に浴し、安楽に慣れ安んじ、奉養の道、日を追って華靡に走る。是の故に、飲食は人生を養うの用を外にして、遠味珍品、烹熟の道、調和の品、日暮れ夜明くるに連なる。衣服は寒暑を防ぐの用を外にして、巧を衒い奇を競い、月を重ねて一端の帛を繍にし、時を踰えて一匹の錦を織り出す。燕安の屋宅、随身の調度、彫幾刻鏤を窮め、財を生ずるの道、日々に疎く、巧を費やすこと歳々に多し。