価原 / 『価原』三幣の変遷と金銀の本来の面目
蓋金銀銅ノ三幣金ハ大用有テ瑣碎ニ用ヒ難ク錢ハ小碎ニ便ニシテ大用ニ便ナラズ銀ハ中間ニアルモノニシテ三幣ノ代ル代ル用ヲナストコロナリ昔ハ人質撲ニシテ金ハ砂金銀ハ炭吹様ノモノ多ク通ジタリ天正ノ頃ヨリ大判小判丁銀ナド始リ慶長四年始テ一分判出來慶長六年ノ後大判小判一分判丁銀豆板等改ラルコレ國家ノ造幣ニシテ呂來元祿享保元文近來ニ到テ三幣色色ノ製トモ出來リシ也夫金銀ハ幣ノ用ヲ主トス民用ニ於テハ鐵ヲ主トス然シテ銅ハ幣器兼用ル者ナリ金銀若シ幣ノ用ヲ除ケバ刀ノ縁頭佛殿ノ裝嚴漆匠ノ描金ナド玩物ニ過ズ藥用モ有レドモ要藥ニハアラズサレバ近來ハ費多クナリテ然マデニ多キ金銀猶給スル事能ハズ楮鈔大ニ世ニ行ル金銀ノ用ハ唯諸貨運輸ノ用バカリナレバ楮鈔ニテモ飛錢ニテモスム者也餘貨ノ如キハ寒ヲ凌グコトハ布帛ニアラザレバ能ハズ飢ヲ愈スヿハ米粟ニ非ザレバ能ハザルニテ金銀本來ノ而目ヲ知ルベシ此故ニ天下ノ權ヲ執テ經濟ニ心ヲ用ユル人ハ有用ノ貨ヲ日日ニ生殖シ無用ノ貨ヲ貴バヌ様ニ致スベキ事ナリ金銀ヲ以テ天下ノ豐儉ヲ病ム人ハ回天ノ功ハ有難カルベシ
新字:蓋金銀銅ノ三幣金ハ大用有テ瑣砕ニ用ヒ難ク銭ハ小砕ニ便ニシテ大用ニ便ナラズ銀ハ中間ニアルモノニシテ三幣ノ代ル代ル用ヲナストコロナリ昔ハ人質撲ニシテ金ハ砂金銀ハ炭吹様ノモノ多ク通ジタリ天正ノ頃ヨリ大判小判丁銀ナド始リ慶長四年始テ一分判出来慶長六年ノ後大判小判一分判丁銀豆板等改ラルコレ国家ノ造幣ニシテ呂来元禄享保元文近来ニ到テ三幣色色ノ製トモ出来リシ也夫金銀ハ幣ノ用ヲ主トス民用ニ於テハ鉄ヲ主トス然シテ銅ハ幣器兼用ル者ナリ金銀若シ幣ノ用ヲ除ケバ刀ノ縁頭仏殿ノ装厳漆匠ノ描金ナド玩物ニ過ズ薬用モ有レドモ要薬ニハアラズサレバ近来ハ費多クナリテ然マデニ多キ金銀猶給スル事能ハズ楮鈔大ニ世ニ行ル金銀ノ用ハ唯諸貨運輸ノ用バカリナレバ楮鈔ニテモ飛銭ニテモスム者也余貨ノ如キハ寒ヲ凌グコトハ布帛ニアラザレバ能ハズ飢ヲ愈スヿハ米粟ニ非ザレバ能ハザルニテ金銀本来ノ而目ヲ知ルベシ此故ニ天下ノ権ヲ執テ経済ニ心ヲ用ユル人ハ有用ノ貨ヲ日日ニ生殖シ無用ノ貨ヲ貴バヌ様ニ致スベキ事ナリ金銀ヲ以テ天下ノ豊倹ヲ病ム人ハ回天ノ功ハ有難カルベシ
書き下し
蓋し金銀銅の三幣、金は大用有りて瑣碎に用い難く、銭は小砕に便にして大用に便ならず、銀は中間にあるものにして、三幣の代る代る用をなす所なり。昔は人質朴にして、金は砂金、銀は炭吹き様のもの多く通じたり。天正の頃より大判小判丁銀など始まり、慶長四年始めて一分判出来、慶長六年の後、大判小判一分判丁銀豆板等改らる。これ国家の造幣にして、以来、元禄・享保・元文、近来に到りて、三幣色々の製ども出来りし也。夫れ金銀は幣の用を主とす。民用に於いては鉄を主とす。然して銅は幣・器兼ね用うる者なり。金銀若し幣の用を除けば、刀の縁頭、仏殿の荘厳、漆匠の描金など、玩物に過ぎず。薬用も有れども要薬にはあらず。されば近来は費多くなりて、さまでに多き金銀猶お給する事能わず、楮鈔大いに世に行わる。金銀の用は唯だ諸貨運輸の用ばかりなれば、楮鈔にても飛銭にても済む者也。余貨の如きは、寒を凌ぐことは布帛にあらざれば能わず、飢を愈すことは米粟に非ざれば能わざるにて、金銀本来の面目を知るべし。この故に、天下の権を執りて経済に心を用ゆる人は、有用の貨を日々に生殖し、無用の貨を貴ばぬ様に致すべき事なり。金銀を以て天下の豊倹を病む人は、回天の功は有り難かるべし。
現代語訳
さて、金・銀・銅の三つの貨幣のうち、金は大きな用には向くが細かな用には使いにくく、銭は細かな用には便利だが大きな用には不便であり、銀はその中間にあって、三つの貨幣が代わる代わる働くところである。昔は人の気質が素朴で、金は砂金、銀は炭で吹いたような粗いものが多く通用していた。天正の頃から大判・小判・丁銀などが始まり、慶長四年に初めて一分判ができ、慶長六年の後に、大判・小判・一分判・丁銀・豆板などが改められた。これは幕府の造幣であり、それ以来、元禄・享保・元文、そして近年に至るまで、三種の貨幣にさまざまな作りが出てきた。そもそも金銀は貨幣としての用が主である。民の暮らしの用では、鉄が主である。そして銅は、貨幣と器物の両方に使われるものである。もし金銀から貨幣としての用を除けば、刀の縁頭、仏殿の飾り、漆工の描金など、愛玩品に過ぎない。薬としての用もあるが、大事な薬ではない。そのため近年は費用が多くなり、これほど多くの金銀でも補いきれず、紙の貨幣が大いに世に行われている。金銀の用はただ品物を運び渡すだけのものなので、紙幣でも為替でも済むのである。そのほかの品物は、寒さをしのぐには布でなければできず、飢えをいやすには米や粟でなければできないのであり、そこから金銀の本来の姿を知るべきである。だから、天下の権を握って経済に心を用いる人は、役に立つ品を日々に生み育て、役に立たない品を貴ぶことのないようにしなければならない。金銀の多寡によって天下の豊かさや乏しさを思い悩む人は、世を立て直す功を挙げることはむずかしいであろう。
解説

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価原・『価原』幣は荷を運ぶ舟車にすぎない金銀は諸貨に易えて用ゆるを以てその用とす。金銀並びに銭、これを幣と云う。珍にして小なり。諸貨の重大にして移し難きには、運びを助くる者なれば、その用、舟車に近き者なり。金銀は貴重なり、能く大物を運ぶ。銭は賤しうして衆し、能く小物を運ぶ。貴賤軽重あるを以て、銀以て金を分かつべく、銭以て銀を分かつべし。この故に、これを金銀といえば銭もまたその内にあり。先ず天下の勢いを慮る人は、能く財の有用無用を弁知すべし。譬えば海内にかく沢山に充てる所の金銀、今ことごとく尽き果てたりとも、他の五材あらましかば、民生立たぬという事の有るべきや。
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価原・『価原』日本の金銀銭と東山殿の無心我が国は漢土に比すれば遅く闕けたる故、風俗も最も淳朴にして立てけり。されば銀は人皇四十代天武天皇、白鳳三年、対馬より出だし、銅は四十三代元明天皇、和銅元年、武蔵の国より出だし、金は四十五代聖武天皇、天平二十一年、陸奥の国より貢ずといえども、さまで多きにもあらず。銭の通用も白鳳以来有りしかども、今の様なる事にはあらず。博多にもろこし船来りし頃は、宋銭を以て物を弁じ、近く室町殿の頃あでも、明朝永楽銭にて事済みぬ。東山殿は国用乏しとて三度まで明へ銭乞われし中にも、文明の頃乞われしには、十万貫を賜らば国用足らんと歎き申されき。十万貫いくばくぞや。今の富人一の産とするにだも足らず。然れば今、銭幣の多きこと、弁ぜずして知るべし。かくまで財貨に富める世を、金銀少き様に心得たるは僻事なり。
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価原・『価原』島に銭を入れても豊かにならない金銀貴くして六府賤し。六府賤しくして国本薄し。姑くその故を説くべし。譬えばここに一島あり、土地人民足り、米粟布帛魚塩、他島を仮らず一切事足り、唯だ金銀のみ無からんに、民、粟を以て器械庸作に易えて、金銀の貴きをも知らで立たざる事やはあるべき。追々に銭一万を入れて他の用を通ぜんに、一万の銭、その一島の用を足らしむべし。これより増して十万に至らば、十万の銭、その一島の用と釣り合いをなして、一万の銭、決して一島の用を弁ぜじ。その初めは島の諸用、一万の銭と釣り合いをなし、米一石五百銭に当たらば、その五百銭以て一奴を買うべし。又入れて十万に至る日は、一石の米五千銭に釣り合うべし。この時、五百の銭わずかに数十日の人を雇うに過ぎじ。然れば前の五百銭持てると後の五千銭持てると、数は一倍すれども用は異なることなし。乃至増して千万億なりとも、一島に出す所の米粟布帛多きを増さじ。米粟布帛多きを増さずして、独り金銀のみ増さんに、多きと少きと変わる事はなく、多ければ多き程、頻しきを増し、その多き金銀に就きて游手を増し、天地より生ずる財を費やす者、次第に出来るべし。我が国の昔も幣はなくて立ちしなり。和銅の比、大宰府及び播磨より始めて銅銭を献ぜしに、これを民間に敷き、民に交関せしめし時は、穀六升に付き一文なりしとかや。
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価原・『価原』金銀の多少を憂えず用を察する然れば金銀の多少は、強いて国を有つ者の患いとすべきにあらず。唯だ金銀の用は何物ぞ、米粟布帛百の器財庸作の用は何物ぞと察すれば、金銀の盛んに行わるる有益無益、知るべきなり。今、金銀の通用を好むこと、独り日本のみならず、万国同じく然り。万国同じく金銀を好むといえども、金銀の多き事、我が国の如きは稀なり。その徴には、海舶の長崎にて交易する者、価はなはだ廉なり。商買の手に入り売買する日和物の価と相比すれば、海外直廉なる事知るべし。金銀少なければ少なきにて釣り合い、多ければ多き程の釣り合いになる者なり。
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価原・『価原』金銀が運ぶ便利さと諸貨の不便夫れ金玉はもと土石の精英にして、得難く朽ち難し。是を以て至小以て大に対すべく、米粟布帛諸貨の擁塞を通ずべし。神農「日中に市を為し、天下の民を致し、天下の貨を聚め、交易して退き、各々其の所を得て貨通ず」といえば、其の由って来ること最も遠し。然して諸貨の能くする所は金銀の能くせざる所にして、金銀の能くする所は諸貨の能くせざる所あり。是を以て諸貨は物大にして数積む、運漕甚だ難し。夫れ金銀の用とする所は、則ち鎮西の米粟、舟車を仮らずして関東にして炊ぐべく、北陸の布帛、牛馬に駄せずして南海にして衣るべし。此の故に行旅の人、万里糧を裹まず、腰纏の用、車馬と敵することを得。諸貨の如きは通利悪しき程に、米は衣と成り難く、衣は薪と成り難く、金銀銅銭の小物は分かって用ゆべく、大物は聚めて償うべきの自在に如かざる事遠し。是れ天下の靡然としてこれに向う所なり。
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価原・『価原』春台と東厓に見る銭と銀の相場これは春台『経済録』による江府の米価なり。又、東厓『尽旧録』を読むに、先ず元明天皇、民に幣財交通の道を教え給いし始め、和銅三年の詔を引きて曰く、「諸国の地、江山遐かに阻たり、負担の輩、久しく行役に苦しむ。宜しく時に一嚢の銭を作すべし」と。この時、銭貴うして銀賤し、二十文以て銀一銭に当たる。新銀出でて、八十文以て銀一銭を買う。然れば正徳中、脱粟米二百銭と云うも四貫文なり、油九銭と云うも百八十文なり。今よりして観れば、世豈にかくの如き廉価の物あらんや。今、文字銀、元文元年発行の時、十五貫目を以て享保銀十貫目を収れば、銭五十文上下以て銀一銭に替えたり。然るに今、三幣いよいよ粗悪、金黄ならず、銀白からず、新鋳の銭は鉄を用う、もし痛く擲てば砕く。物価歳々に増す。賤人、その勢いの止まる所を知らず。安永壬寅十月追加して曰く、予この書を著す時、猶お銀一銭、銭六七十文に当たる。今は已に百を過ぐ。而して米価、京師浪華百銭に充つと伝う。春来、猶お価を増すべし。