価原 / 『価原』元禄・享保の米価と士と工商の苦楽
サレバ國家ノ始ハ米價一石二三四五六斗金一兩ニ當リシ時ハ江府諸物ノ價モ廉ニシテ士庶ノ苦ム沙汰モナシ元祿十二年己卯八月十五日ノ大風ニ依テ一兩纔ニ七斗ヲ糴フ是ヨリ歳荐リニ登ラズ工商ノ營、食ニ給スルニ足ラズ都下餓莩多シコレ憲廟職ニ在セシ日也ソレヨリ憲廟ノ世ヲ終ヘ文廟職ニッカセ給ヒ正德元年辛卯ノ秋米價ヤヤ賤クナリテ壬辰ノ春ニ至リテハ九斗一兩ニ相當レリ章廟ノ時乾金ノ沙汰アリ有廟ノ時西國ノ苗稼悉腐ルニ逢テ享保辛丑ノ夏一兩纔ニ米六斗餘ヲ糴フ元祿ノ頃糴俄ニ貴トカリシニハ餓莩多カリシカドモ二十餘年コレニ慣レタレバ治生ノ道コレニ居リ合ヒ出來リタレバコレガ常トナリヌ元祿呂前米價賤シフシテ士庶苦シマズ元祿ノ始米價貴フシテ士人ハ利ヲ得工商ハ飢ユ以來米價依然トシテ工商ハ苦シマズ士人ハ餓ユモシ今日米價元祿ノ舊ニ復セバ士人手足ヲ措ク地ナケン是居リ合フト居リ合ハザルトノ間ニシテ權ノ入リ用若カカ有ル時ノ事ナルベシ
新字:サレバ国家ノ始ハ米価一石二三四五六斗金一両ニ当リシ時ハ江府諸物ノ価モ廉ニシテ士庶ノ苦ム沙汰モナシ元禄十二年己卯八月十五日ノ大風ニ依テ一両纔ニ七斗ヲ糴フ是ヨリ歳荐リニ登ラズ工商ノ営、食ニ給スルニ足ラズ都下餓莩多シコレ憲廟職ニ在セシ日也ソレヨリ憲廟ノ世ヲ終ヘ文廟職ニッカセ給ヒ正徳元年辛卯ノ秋米価ヤヤ賤クナリテ壬辰ノ春ニ至リテハ九斗一両ニ相当レリ章廟ノ時乾金ノ沙汰アリ有廟ノ時西国ノ苗稼悉腐ルニ逢テ享保辛丑ノ夏一両纔ニ米六斗余ヲ糴フ元禄ノ頃糴俄ニ貴トカリシニハ餓莩多カリシカドモ二十余年コレニ慣レタレバ治生ノ道コレニ居リ合ヒ出来リタレバコレガ常トナリヌ元禄呂前米価賤シフシテ士庶苦シマズ元禄ノ始米価貴フシテ士人ハ利ヲ得工商ハ飢ユ以来米価依然トシテ工商ハ苦シマズ士人ハ餓ユモシ今日米価元禄ノ旧ニ復セバ士人手足ヲ措ク地ナケン是居リ合フト居リ合ハザルトノ間ニシテ権ノ入リ用若カカ有ル時ノ事ナルベシ
書き下し
されば国家の始めは、米価一石二三四五六斗、金一両に当たりし時は、江府諸物の価も廉にして、士庶の苦しむ沙汰もなし。元禄十二年己卯八月十五日の大風により、一両わずかに七斗を糴う。これより歳しきりに登らず、工商の営み食に給するに足らず、都下餓莩多し。これ憲廟職に在せし日なり。それより憲廟の世を終え、文廟職に即かせ給い、正徳元年辛卯の秋、米価やや賤くなりて、壬辰の春に至りては九斗一両に相当れり。章廟の時、乾金の沙汰あり。有廟の時、西国の苗稼ことごとく腐るに逢いて、享保辛丑の夏、一両わずかに米六斗余を糴う。元禄の頃、糴にわかに貴かりしには餓莩多かりしかども、二十余年これに慣れたれば、治生の道これに居り合い出来りたれば、これが常となりぬ。元禄以前は米価賤しうして士庶苦しまず、元禄の始め米価貴うして士人は利を得、工商は飢ゆ。以来米価依然として、工商は苦しまず、士人は餓ゆ。もし今日米価元禄の旧に復せば、士人手足を措く地なけん。これ居り合うと居り合わざるとの間にして、権の入り用もし有る時の事なるべし。
現代語訳
さて、徳川の世の初めは、金一両で米が一石二、三斗から一石五、六斗ほど買えた頃、江戸の物価も安く、武士も庶民も苦しんだという話はなかった。元禄十二年己卯の八月十五日の大風により、一両でわずか七斗しか米を買えなくなった。これ以来、毎年のように不作が続き、職人や商人の営みは食べていくのに足りず、江戸の町には餓死者が多く出た。これは憲廟(五代将軍綱吉)が在職していた時である。それから憲廟の世が終わり、文廟(家宣)が職に就かれ、正徳元年辛卯の秋には米価がやや下がり、翌年壬辰の春には一両が九斗に相当した。章廟(家継)の時に乾金のことが取り沙汰された。有廟(吉宗)の時、西国の苗や稲がことごとく腐る災いに遭い、享保六年辛丑の夏には、一両でわずか米六斗余りしか買えなくなった。元禄の頃、米の値が急に高くなったときには餓死者が多く出たけれども、二十年余りこれに慣れてしまうと、暮らしを立てる道もこれに落ち着き、これが常態となった。元禄以前は米価が安く、武士も庶民も苦しまなかった。元禄の初めには米価が高くなり、武士は利を得て、職人や商人は飢えた。以来、米価はそのままで、職人や商人は苦しまず、武士が飢える。もし今日、米価が元禄の昔に戻れば、武士は手足の置き場もなくなるだろう。これは、慣れて落ち着いている者と、まだ慣れていない者との違いであって、釣り合いを調整する権の働きが必要になる時のことであろう。
解説

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価原・『価原』春台と東厓に見る銭と銀の相場これは春台『経済録』による江府の米価なり。又、東厓『尽旧録』を読むに、先ず元明天皇、民に幣財交通の道を教え給いし始め、和銅三年の詔を引きて曰く、「諸国の地、江山遐かに阻たり、負担の輩、久しく行役に苦しむ。宜しく時に一嚢の銭を作すべし」と。この時、銭貴うして銀賤し、二十文以て銀一銭に当たる。新銀出でて、八十文以て銀一銭を買う。然れば正徳中、脱粟米二百銭と云うも四貫文なり、油九銭と云うも百八十文なり。今よりして観れば、世豈にかくの如き廉価の物あらんや。今、文字銀、元文元年発行の時、十五貫目を以て享保銀十貫目を収れば、銭五十文上下以て銀一銭に替えたり。然るに今、三幣いよいよ粗悪、金黄ならず、銀白からず、新鋳の銭は鉄を用う、もし痛く擲てば砕く。物価歳々に増す。賤人、その勢いの止まる所を知らず。安永壬寅十月追加して曰く、予この書を著す時、猶お銀一銭、銭六七十文に当たる。今は已に百を過ぐ。而して米価、京師浪華百銭に充つと伝う。春来、猶お価を増すべし。
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価原・『価原』豊凶で揺れる本業と庸作この故に、郡県布粟に余計なく、都会積聚に蠧虫あり。穀は満ち易くして減り易し。さるによって、一年年登れば天下に穀満ち、一年年倹なれば郡県穀尽く。満つれば人々糧乏しからぬ程に、各職に就きて本業に帰せんことを思う。尽くれば糧に仰ぐ所なき程に、壮者は庸作に餬い、弱者は乞丐に餬う。本業を捨てて余業に餬うは、勢いの已むことを得ざるに出でて、その本心にあらず。ゆえに年登るを見れば、遠客の帰舟に逢うがごとく、余業を捨てて本業に帰らんとする程に、庸作する者稀にして、余業を務むる者怠る。ここにおいて諸価みな騰貴す。しかうして一年穀熟せざれば、雨後の潦水たちまち涸るるがごとく、また本業を捨てて余業に走る。ここにおいて諸価また賤し。畢竟民一年立になりて、定まれる業の餬うに足る者なければなり。それ人情誰か本業に帰し安きに就くことを願わざる者あらんや。これ郡県に凶饑の備えなく、一度は本業につき一度は本業を離るればなり。もし真の太平を得んとならば、金銀の通利を貴ばず、余布余粟を民家に蓄えしむべし。
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価原・『価原』金銀の多少と物価・漢の米価蝦夷などは今にその土地の産物を出して、我が米穀・煙酒に替えて、銭を用いずとなり。この故に、金銀多ければ物価貴し、金銭少なければ物価賤し。物価賤きは金銀の貴きなり、物価貴きは金銀の賤きなり。諸工の造り出す所の者を見るに、古代の物は精巧にして今の者は粗悪なり。これ、その用の広きより起こるといえども、半ばは金銀の賤しうして物価の貴きに係れり。されば漢の初め、天下に縦にして恣に銭を鋳さしめしかば、米一石五千銭に至りしなり。漢の一石と云うは、今の京升にては大概一斗程の事なり。その後、弊の勢いを抑え、段々人を農にかえし、趙過など云う人出で、農の道を教え、耕を勧め、代田を復し、後には一石の価五銭に至りしなり。
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価原・『価原』米も人も都会へ輸される郡県我見聞する所をもってこれを言うに、このあたりにても七八十年以前は、京畿・大阪の辺りより児女を連れ下り、家に使いて、近き頃までも多かりき。今その子孫なお幾ばくも有り。今はこれよりただひたすらに上ることばかりにて、下ることはなし。事小なるに似たりといえども、時勢の変見つべし。財貨控掣の権、すでに商賈に属すれば、米粟布帛魚塩百品、生ずるをおそしと、皆都会の地に向かいて輸す。輸するあとは、貧家は初めより衣食に足らず、富家はわずかにその年衣食の料を留めて売るほどに、農家の余計の地を払って空しく輸す。向かうは財宝四方より輻湊するほどに、諸貨常に余計を貯え、その糴を停むれば、国郡食に乏し。糴を拒む日は郡県、金銀を仰ぐ所なし。これをもって郡県余計なければ、ただこれを都会に恃む。都会またこれを巨商に恃む。郡県すでに財宝に余計なきほどに、貧民みな本業を捨てて金銀を営む。営み得て穀郡県に帰る時、価前より貴く、量前より減ず。これに加うるに、送迎の費またいくばくぞや。
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価原・『価原』豊年の余りを蓄える理誠に一得一失の理にて、昔金銀少なかりし世は諸貨の通利悪しかりしかば、これを運び尽くさずして、凶饑諸災の備えもありき。今金銀多く諸貨の通利自由になりしかば、これを都会に運び尽くして、旧穀新穀に及ぶこと能わず。ゆえに今、控掣の権を取る者は、有金の家これを斂聚すれば、上下財ことごとく竭く。これをもって名は諸侯、米粟を有する者にして、その実は富商に併せられて、わずかの臣民を扶助するに難ず。米粟はもとより満ち易き者にして、もし一年豊熟する時は、穀は食料に贏るものなり。贏る所を蓄えれば、凶年に備うべし。これを売り尽くすに至りては、豊年の後の年、凶年の後の年に異なることなし。これ天下の良民、金銀のために游手の奴隷となる所なり。
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大学或問・『大学或問』米価を定めて凶年に備える小策二十一小惠ながら益あるべき事、 (問)前に承る富有大業は古今有がたき仁政なれども、餘りに大きなる事なれば急に成かたからんか、今其まゝにて成やすく、世間もくつろぎ、北狄の手當十分ならずども、成べき事あらんか、 (答)近年豐年にて大身小身士民共に至極困窮せり、民も今豐年の時、米高直ならでは用達せず、凶年には賣るべき米なければ、高直にても益なし、大名家中ともに然り、たとへば中の國、至極の凶年にはあらで、中より下の年なれば、大坂へ上する賣米三萬石あり、近年豐年にて五萬石ならば、凶年の積りに三萬石上せて、二萬石泉にて積置、北狄の手當さては後來凶年飢饉の備とせん、諸國これに應ずべし、しからば一石五拾錢目にはなるべきか、それより高直成事もあらんか、今は壹石五拾錢目中分なり、さありては武士も下々も難義なるべからず、しかれども近年のごとく米を急にうらで叶はざる勢ひなれば、右の積益なき事ならん、米を錢の直段のごとく石五拾錢目に定め、米にてなりとも銀にて成ともさりきらひなく、少しの賣買はいふに及ばず、借銀の利上、吳服所の代物までも、米にて遣し度ものは、つけ上せるやうならば手支あるまじ、暫く貴賤ともくつろぎの間は、借銀すます事を相延し、かし主へは家内の用ほど、諸大名より米を差上せば、米壹萬石借銀の利息の爲に銀に賣るかたは漸く千石にて足べし、九千石を五拾錢目の米にして遣はゞ、今のごとくに江戶詰にても用は足べき哉、又江戶大坂にて米の直段五拾錢目六拾錢目の間に定り、六拾一錢目に上りなば五拾九錢目に買下げ、四拾九錢目に下りなば五拾壹錢目に買上げ、其間拾錢目は米屋の利倍たるべし、御藏と諸大名の藏とめぐりて買上げ買下げせばつかへ有まじきか、かやうの事にはつかへ有ものなれども、其時にいたりてつかへを解事やすし、五拾錢目の餘は浪人と一日過の者のために少し高過たるやうなれども、武士競ひぬれば親類知音合力も成やすし、一日過も武士と民とよければ工商もよし、雇もの多ければこれも少し高直なるは却てよし、所帶にても遲ひあるべし、六拾錢目餘は高直過て飢者あり、右の畜へ米改にては凶年とても六拾錢目の餘へは出べからず、此まゝにて食つめに困窮し變を待んよりはまさるべき歟、しかれども其分にては浪人遊民等の無告の者も在附ず、士農工商の借金もすまず、北狄の備も全からず、大なる仁政にはあらず、