価原 / 『価原』佐渡の金と京銭・寛永通宝の由来
蓋金銀ハ處ジ處出ル所有リトイヘドモ佐渡ノ山天下ニ甲タリ上杉謙信佐渡ヲ攻取金ヲ取レシカバ國用饒ニ有シ由豐臣太閤知給ヒテ公料トナシ金ヲ採レシカドモ出ズ慶長五年關ガ原事畢リテ後銀ヲ出スコト夥シ銀ヤンデ金ヲ出ス今ニ至テ絶ズ有然錢ハ白鳳以來元明ノ和銅開珍孝謙ノ萬年通寶ヨリ絶ズ鑄給ヒシカドモ甚少キ事ニヤト思ハル異國世世ノ錢ハ京錢ト云キ是ハ小田原氏康東國ヲ領セラレシニ時ノ勢永樂錢貴クシテ他錢四五文ヲ以テ其一文ニ充シカバ他錢ヲ禁ゼラレシ程ニ關東ハ專永樂錢行ハレテ他錢ヲハビタトテイヤシミ京幾ニハ他錢盛ンニシテコレヲ京錢ト稱シキ慶長ノ比錢鑄ケルト見エテ稀ニ慶長通寶ヲ見ルコトアリ輪郭字様頗ル明錢ニ似タリ開元乾元之錢ハ異國千年ノ故物ナレドモ得難カラズシテ慶長通寶ハ得難ケレバ幾程モ鑄ザリシト覺ユ慶長十三年永樂ヲ禁ジ京錢ヲ用ヒシヨリ永樂多クハッブシニ成テ世ニ隱レヌ寛永十三年献廟江戸ト近江坂本ノ二處ニテ寛永通寶を鑄サシメ給ヒシヨリ財用世ニ饒ニナリ諸貨ノ通利自在ナリシカバ諸貨ヲ賤シミ金錢ヲ貴ム風トハナレリ
新字:蓋金銀ハ処ジ処出ル所有リトイヘドモ佐渡ノ山天下ニ甲タリ上杉謙信佐渡ヲ攻取金ヲ取レシカバ国用饒ニ有シ由豊臣太閤知給ヒテ公料トナシ金ヲ採レシカドモ出ズ慶長五年関ガ原事畢リテ後銀ヲ出スコト夥シ銀ヤンデ金ヲ出ス今ニ至テ絶ズ有然銭ハ白鳳以来元明ノ和銅開珍孝謙ノ万年通宝ヨリ絶ズ鋳給ヒシカドモ甚少キ事ニヤト思ハル異国世世ノ銭ハ京銭ト云キ是ハ小田原氏康東国ヲ領セラレシニ時ノ勢永楽銭貴クシテ他銭四五文ヲ以テ其一文ニ充シカバ他銭ヲ禁ゼラレシ程ニ関東ハ専永楽銭行ハレテ他銭ヲハビタトテイヤシミ京幾ニハ他銭盛ンニシテコレヲ京銭ト称シキ慶長ノ比銭鋳ケルト見エテ稀ニ慶長通宝ヲ見ルコトアリ輪郭字様頗ル明銭ニ似タリ開元乾元之銭ハ異国千年ノ故物ナレドモ得難カラズシテ慶長通宝ハ得難ケレバ幾程モ鋳ザリシト覚ユ慶長十三年永楽ヲ禁ジ京銭ヲ用ヒシヨリ永楽多クハッブシニ成テ世ニ隠レヌ寛永十三年献廟江戸ト近江坂本ノ二処ニテ寛永通宝を鋳サシメ給ヒシヨリ財用世ニ饒ニナリ諸貨ノ通利自在ナリシカバ諸貨ヲ賤シミ金銭ヲ貴ム風トハナレリ
書き下し
蓋し金銀は処々に出ずる所ありといえども、佐渡の山、天下に甲たり。上杉謙信、佐渡を攻め取り金を取られしかば、国用饒かに有りし由、豊臣太閤知り給いて公料となし、金を採られしかども出ず。慶長五年、関が原の事畢りて後、銀を出すこと夥し。銀止んで金を出す、今に至りて絶えず有り。然るに銭は、白鳳以来、元明の和銅開珎、孝謙の万年通宝より絶えず鋳給いしかども、甚だ少なき事にやと思わる。異国世々の銭は京銭と云いき。これは小田原氏康、東国を領せられしに、時の勢い、永楽銭貴くして他銭四五文を以てその一文に充てしかば、他銭を禁ぜられし程に、関東は専ら永楽銭行われて、他銭をばびたとて賤しみ、京畿には他銭盛んにして、これを京銭と称しき。慶長の比、銭鋳けると見えて、稀に慶長通宝を見ることあり。輪郭字様、頗る明銭に似たり。開元・乾元の銭は異国千年の故物なれども得難からずして、慶長通宝は得難ければ、幾程も鋳ざりしと覚ゆ。慶長十三年、永楽を禁じ京銭を用いしより、永楽多くは潰しに成りて世に隠れぬ。寛永十三年、献廟、江戸と近江坂本の二処にて寛永通宝を鋳さしめ給いしより、財用世に饒かになり、諸貨の通利自在なりしかば、諸貨を賤しみ金銭を貴ぶ風とはなれり。
現代語訳
さて、金銀はあちこちから産出するけれども、佐渡の山は天下第一である。上杉謙信が佐渡を攻め取って金を採ったので、国の費用が豊かであったという話を、豊臣太閤が知って直轄領とし、金を採らせたが出なかった。慶長五年、関ヶ原の戦いが終わった後は、銀が大量に出た。銀が止まって金が出はじめ、今に至るまで絶えずある。一方、銭は白鳳以来、元明天皇の和銅開珎、孝謙天皇の万年通宝と、絶えず鋳造されてきたけれども、きわめて少なかったのではないかと思われる。外国の歴代の銭を京銭といった。これは小田原の氏康が東国を領有されたとき、当時の情勢で永楽銭が貴く、ほかの銭四、五文をもって永楽銭一文に当てたので、他の銭を禁じられた。そのため関東ではもっぱら永楽銭が通用し、他の銭を鐚(びた)といって賤しみ、京や畿内ではほかの銭が盛んに使われて、これを京銭と称した。慶長の頃に銭が鋳造されたと見え、まれに慶長通宝を目にすることがある。輪郭や字の様子は明の銭によく似ている。開元・乾元の銭は外国の千年前の古い物でも手に入りやすくなく、慶長通宝は入手が難しいのだから、いくらも鋳造されなかったものと思われる。慶長十三年、永楽銭を禁じて京銭を用いるようになってから、永楽銭の多くは潰されて世から姿を消した。寛永十三年、献廟(三代将軍家光)が江戸と近江の坂本の二か所で寛永通宝を鋳造させられてから、世の財の用が豊かになり、品物のやりとりが自在になったので、品物を卑しんで金銭を貴ぶ風潮となった。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
価原・『価原』日本の金銀銭と東山殿の無心我が国は漢土に比すれば遅く闕けたる故、風俗も最も淳朴にして立てけり。されば銀は人皇四十代天武天皇、白鳳三年、対馬より出だし、銅は四十三代元明天皇、和銅元年、武蔵の国より出だし、金は四十五代聖武天皇、天平二十一年、陸奥の国より貢ずといえども、さまで多きにもあらず。銭の通用も白鳳以来有りしかども、今の様なる事にはあらず。博多にもろこし船来りし頃は、宋銭を以て物を弁じ、近く室町殿の頃あでも、明朝永楽銭にて事済みぬ。東山殿は国用乏しとて三度まで明へ銭乞われし中にも、文明の頃乞われしには、十万貫を賜らば国用足らんと歎き申されき。十万貫いくばくぞや。今の富人一の産とするにだも足らず。然れば今、銭幣の多きこと、弁ぜずして知るべし。かくまで財貨に富める世を、金銀少き様に心得たるは僻事なり。
-
価原・『価原』三幣の変遷と金銀の本来の面目蓋し金銀銅の三幣、金は大用有りて瑣碎に用い難く、銭は小砕に便にして大用に便ならず、銀は中間にあるものにして、三幣の代る代る用をなす所なり。昔は人質朴にして、金は砂金、銀は炭吹き様のもの多く通じたり。天正の頃より大判小判丁銀など始まり、慶長四年始めて一分判出来、慶長六年の後、大判小判一分判丁銀豆板等改らる。これ国家の造幣にして、以来、元禄・享保・元文、近来に到りて、三幣色々の製ども出来りし也。夫れ金銀は幣の用を主とす。民用に於いては鉄を主とす。然して銅は幣・器兼ね用うる者なり。金銀若し幣の用を除けば、刀の縁頭、仏殿の荘厳、漆匠の描金など、玩物に過ぎず。薬用も有れども要薬にはあらず。されば近来は費多くなりて、さまでに多き金銀猶お給する事能わず、楮鈔大いに世に行わる。金銀の用は唯だ諸貨運輸の用ばかりなれば、楮鈔にても飛銭にても済む者也。余貨の如きは、寒を凌ぐことは布帛にあらざれば能わず、飢を愈すことは米粟に非ざれば能わざるにて、金銀本来の面目を知るべし。この故に、天下の権を執りて経済に心を用ゆる人は、有用の貨を日々に生殖し、無用の貨を貴ばぬ様に致すべき事なり。金銀を以て天下の豊倹を病む人は、回天の功は有り難かるべし。
-
価原・『価原』島に銭を入れても豊かにならない金銀貴くして六府賤し。六府賤しくして国本薄し。姑くその故を説くべし。譬えばここに一島あり、土地人民足り、米粟布帛魚塩、他島を仮らず一切事足り、唯だ金銀のみ無からんに、民、粟を以て器械庸作に易えて、金銀の貴きをも知らで立たざる事やはあるべき。追々に銭一万を入れて他の用を通ぜんに、一万の銭、その一島の用を足らしむべし。これより増して十万に至らば、十万の銭、その一島の用と釣り合いをなして、一万の銭、決して一島の用を弁ぜじ。その初めは島の諸用、一万の銭と釣り合いをなし、米一石五百銭に当たらば、その五百銭以て一奴を買うべし。又入れて十万に至る日は、一石の米五千銭に釣り合うべし。この時、五百の銭わずかに数十日の人を雇うに過ぎじ。然れば前の五百銭持てると後の五千銭持てると、数は一倍すれども用は異なることなし。乃至増して千万億なりとも、一島に出す所の米粟布帛多きを増さじ。米粟布帛多きを増さずして、独り金銀のみ増さんに、多きと少きと変わる事はなく、多ければ多き程、頻しきを増し、その多き金銀に就きて游手を増し、天地より生ずる財を費やす者、次第に出来るべし。我が国の昔も幣はなくて立ちしなり。和銅の比、大宰府及び播磨より始めて銅銭を献ぜしに、これを民間に敷き、民に交関せしめし時は、穀六升に付き一文なりしとかや。
-
価原・『価原』春台と東厓に見る銭と銀の相場これは春台『経済録』による江府の米価なり。又、東厓『尽旧録』を読むに、先ず元明天皇、民に幣財交通の道を教え給いし始め、和銅三年の詔を引きて曰く、「諸国の地、江山遐かに阻たり、負担の輩、久しく行役に苦しむ。宜しく時に一嚢の銭を作すべし」と。この時、銭貴うして銀賤し、二十文以て銀一銭に当たる。新銀出でて、八十文以て銀一銭を買う。然れば正徳中、脱粟米二百銭と云うも四貫文なり、油九銭と云うも百八十文なり。今よりして観れば、世豈にかくの如き廉価の物あらんや。今、文字銀、元文元年発行の時、十五貫目を以て享保銀十貫目を収れば、銭五十文上下以て銀一銭に替えたり。然るに今、三幣いよいよ粗悪、金黄ならず、銀白からず、新鋳の銭は鉄を用う、もし痛く擲てば砕く。物価歳々に増す。賤人、その勢いの止まる所を知らず。安永壬寅十月追加して曰く、予この書を著す時、猶お銀一銭、銭六七十文に当たる。今は已に百を過ぐ。而して米価、京師浪華百銭に充つと伝う。春来、猶お価を増すべし。
-
『秘本玉くしげ』下 金銀の多さを知らず抑金銀を広く通用する事は、慶長のころより始まれることにて、その以前はただ銭のみの通用なりき。然るに此金銀通用始まりては、甚世上の便利にして、尤自由よろしき事也。さて通用の金銀は、随分多きほど便利にして自由は宜しき也。然れども、それに付て又失ある事多く、却て世上の困窮に及ぶ基ともなること也。かくて当時天下に通用する金銀は殊の外に多くして、甚便利はよき事なるに、今の人はもとよりかくのごとくなる世に馴たる故に、金銀の甚多きといふ事をしらず、便利の甚宜しき事をも覚えずして、却て世上通用の金銀の払底にて得がたきゆゑに世は困窮するやうに思ふは、商人心にして、末をのみ思ひて本をしらざるもの也。
-
価原・『価原』金銀が運ぶ便利さと諸貨の不便夫れ金玉はもと土石の精英にして、得難く朽ち難し。是を以て至小以て大に対すべく、米粟布帛諸貨の擁塞を通ずべし。神農「日中に市を為し、天下の民を致し、天下の貨を聚め、交易して退き、各々其の所を得て貨通ず」といえば、其の由って来ること最も遠し。然して諸貨の能くする所は金銀の能くせざる所にして、金銀の能くする所は諸貨の能くせざる所あり。是を以て諸貨は物大にして数積む、運漕甚だ難し。夫れ金銀の用とする所は、則ち鎮西の米粟、舟車を仮らずして関東にして炊ぐべく、北陸の布帛、牛馬に駄せずして南海にして衣るべし。此の故に行旅の人、万里糧を裹まず、腰纏の用、車馬と敵することを得。諸貨の如きは通利悪しき程に、米は衣と成り難く、衣は薪と成り難く、金銀銅銭の小物は分かって用ゆべく、大物は聚めて償うべきの自在に如かざる事遠し。是れ天下の靡然としてこれに向う所なり。