家道訓 / 巻之二・総論中
一人に五計あり。一生の間、十歳より六十まで、時につけて爲すべきいとなみある事をいへり。まづ、十歳の比は、ひとへに父母の養によりて成立てり。父母のをしへにそむくべからず。是を生計と云ふ。二十歲は、もとより身をつゝしみ、學問し藝をならひ、家學をつとめて身を立つる計をなすべし。是を身計と云ふ。三十歲より四十歲にいたりては、家事をいとなみて、家をたもつ計をなすべし。是を家計といふ。五十にしては子孫のためにはかる。子孫は、年わかく世事になれず。父まづ其ために計をなすべし。是を老計と云ふ。六十より以上は、我が死後の事をいとなみはかるべし。死後の事を早くいとなまざれば、死にのぞんで、くやしけれどかひなし。此の五計は、もろこしの人朱新仲が語なり。是よのつねの人も及ぶべき計なり。もし此年に應じて計をなさずんば、おこたれるなり。ちから無しといふべし。
新字:一人に五計あり。一生の間、十歳より六十まで、時につけて為すべきいとなみある事をいへり。まづ、十歳の比は、ひとへに父母の養によりて成立てり。父母のをしへにそむくべからず。是を生計と云ふ。二十歳は、もとより身をつゝしみ、学問し芸をならひ、家学をつとめて身を立つる計をなすべし。是を身計と云ふ。三十歳より四十歳にいたりては、家事をいとなみて、家をたもつ計をなすべし。是を家計といふ。五十にしては子孫のためにはかる。子孫は、年わかく世事になれず。父まづ其ために計をなすべし。是を老計と云ふ。六十より以上は、我が死後の事をいとなみはかるべし。死後の事を早くいとなまざれば、死にのぞんで、くやしけれどかひなし。此の五計は、もろこしの人朱新仲が語なり。是よのつねの人も及ぶべき計なり。もし此年に応じて計をなさずんば、おこたれるなり。ちから無しといふべし。
書き下し
一人に五計あり。一生の間、十歳より六十まで、時につけて為すべきいとなみある事をいへり。まづ、十歳の比は、ひとへに父母の養によりて成立てり。父母のをしへにそむくべからず。是を生計と云ふ。二十歳は、もとより身をつつしみ、学問し芸をならひ、家学をつとめて身を立つる計をなすべし。是を身計と云ふ。三十歳より四十歳にいたりては、家事をいとなみて、家をたもつ計をなすべし。是を家計といふ。五十にしては子孫のためにはかる。子孫は、年わかく世事になれず。父まづ其ために計をなすべし。是を老計と云ふ。六十より以上は、我が死後の事をいとなみはかるべし。死後の事を早くいとなまざれば、死にのぞんで、くやしけれどかひなし。此の五計は、もろこしの人朱新仲が語なり。是よのつねの人も及ぶべき計なり。もし此年に応じて計をなさずんば、おこたれるなり。ちから無しといふべし。
現代語訳
人には五つの計があります。一生の間、十歳から六十歳まで、その時々になすべき営みがあることを言ったものです。まず十歳のころは、ひとえに父母の養いによって成り立っています。父母の教えに背いてはいけません。これを生計といいます。二十歳では、もとより身を慎み、学問し芸を習い、家学に努めて身を立てる計をなすべきです。これを身計といいます。三十歳から四十歳に至っては、家事を営んで家を保つ計をなすべきです。これを家計といいます。五十歳では子孫のためにはかります。子孫は年若くて世事に慣れていません。父がまずそのために計をなすべきです。これを老計といいます。六十歳より上は、自分の死後のことを営みはかるべきです。死後のことを早く営まなければ、死に臨んで悔やんでもかいがありません。この五計は、中国の人、朱新仲の言葉です。これは世の普通の人も及ぶことのできる計です。もしこの年に応じて計をなさなければ、怠っているのです。力がないというべきです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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