十八史略 / 『十八史略』南宋・祥興 文天祥・文天祥、降伏の勧誘を断る
己卯祥興二年正月元張弘範兵至崖山張世傑力戰禦之弘範無如之何時世傑有甥韓在元師中弘範三使韓至宋師招世傑世傑不從曰吾知降生且富貴但義不可移耳因歷數古忠臣以荅之弘範乃命文天祥為書招世傑天祥曰吾不能扞父母乃教人叛父母可乎固命之天祥遂書所過零丁洋詩與之其末有云人生自古誰無死留取丹心照汗青弘範笑而置之弘範復遣人語崖山士民曰陳丞相已去文丞相已執欲何為士民亦無叛者
新字:己卯祥興二年正月元張弘範兵至崖山張世傑力戦禦之弘範無如之何時世傑有甥韓在元師中弘範三使韓至宋師招世傑世傑不従曰吾知降生且富貴但義不可移耳因歴数古忠臣以荅之弘範乃命文天祥為書招世傑天祥曰吾不能扞父母乃教人叛父母可乎固命之天祥遂書所過零丁洋詩与之其末有云人生自古誰無死留取丹心照汗青弘範笑而置之弘範復遣人語崖山士民曰陳丞相已去文丞相已執欲何為士民亦無叛者
書き下し
己卯、祥興二年正月、元の張弘範、兵もて崖山に至る。張世傑力戦して之を禦ぐ。弘範、之を如何ともする無し。時に世傑に甥の韓なる者有り、元の師中に在り。弘範、三たび韓をして宋の師に至り世傑を招かしむ。世傑従わずして曰く、吾降れば生き且つ富貴なるを知る。但だ義は移すべからざるのみ、と。因りて古の忠臣を歴数して以て之に荅う。弘範乃ち文天祥に命じて書を為り世傑を招かしむ。天祥曰く、吾父母を扞ぐこと能わず、乃ち人に教えて父母に叛かしむ、可ならんや、と。固く之に命ず。天祥遂に過ぐる所の零丁洋の詩を書して之に与う。其の末に云う有り、人生古より誰か死無からん、丹心を留取して汗青に照らさん、と。弘範笑いて之を置く。弘範、復た人を遣わして崖山の士民に語りて曰く、陳丞相已に去り、文丞相已に執らわる。何をか為さんと欲する、と。士民も亦た叛く者無し。
現代語訳
己卯の年、祥興二年の正月、元の張弘範が兵を率いて崖山に至りました。張世傑は力戦してこれを防ぎ、弘範にはどうすることもできませんでした。そのころ世傑には、元の軍中にいる甥の韓という者がいました。弘範は三たび韓を宋の軍に遣わして、世傑を招かせました。世傑は従わず、こう言いました。「降伏すれば生き延びて富貴を得られることは分かっている。ただ、義は動かすことができないのだ」。そして古の忠臣を数え上げて答えました。弘範はそこで文天祥に命じ、世傑を招く手紙を書かせようとしました。天祥は言いました。「私は父母を守ることができなかった。その上、人に父母を裏切れと教えるのが許されようか」。弘範が重ねて命じると、天祥はついに、通り過ぎた零丁洋の詩を書いて渡しました。その末尾には、「人は昔から誰が死なずにいられようか。真心を留めて歴史に輝かせたい」とありました。弘範は笑ってこれを脇に置きました。弘範はまた人を遣わして、崖山の兵と民に告げさせました。「陳丞相はすでに去り、文丞相はすでに捕らえられた。お前たちは何をしようというのか」。しかし兵や民に、裏切る者はいませんでした。
解説

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