十八史略 / 『十八史略』南宋・祥興 張世傑・張世傑の最期と宋の滅亡
因得帝屍及詔書之寶已而世傑復還崖山収兵遇楊太后欲奉以求趙氏後而復立之楊太后始聞帝崩撫膺大慟曰我忍死艱關至此者正為趙氏一塊肉耳今無望矣遂赴海死世傑葬之海濱世傑將趨安南至平章山下遇颶風大作舟人欲艤岸世傑曰無以為也焚香仰天呼曰我為趙氏亦已至矣一君亡復立一君今又亡我未死者庶幾敵兵退別立趙氏以存祀耳今若此豈天意耶若天不欲我復存趙祀則大風覆吾舟舟遂覆世傑溺焉宋亡
新字:因得帝屍及詔書之宝已而世傑復還崖山収兵遇楊太后欲奉以求趙氏後而復立之楊太后始聞帝崩撫膺大慟曰我忍死艱関至此者正為趙氏一塊肉耳今無望矣遂赴海死世傑葬之海浜世傑将趨安南至平章山下遇颶風大作舟人欲艤岸世傑曰無以為也焚香仰天呼曰我為趙氏亦已至矣一君亡復立一君今又亡我未死者庶幾敵兵退別立趙氏以存祀耳今若此豈天意耶若天不欲我復存趙祀則大風覆吾舟舟遂覆世傑溺焉宋亡
書き下し
因りて帝の屍及び詔書の宝を得たり。已にして世傑復た崖山に還り兵を収め、楊太后に遇い、奉じて以て趙氏の後を求め、復た之を立てんと欲す。楊太后、始め帝の崩ずるを聞き、膺を撫して大いに慟きて曰く、我、死を忍びて艱関し、此に至る者は、正に趙氏の一塊の肉の為なるのみ。今は望み無し、と。遂に海に赴きて死す。世傑、之を海濱に葬る。世傑、将に安南に趨かんとし、平章山の下に至りて、颶風の大いに作るに遇う。舟人、岸に艤せんと欲す。世傑曰く、以て為す無きなり、と。香を焚き天を仰ぎて呼びて曰く、我は趙氏の為にすること、亦已に至れり。一君亡びて復た一君を立つ。今又亡ぶ。我の未だ死せざる者は、庶幾くは敵兵退き、別に趙氏を立てて以て祀を存せんとするのみ。今此くの若し。豈に天の意なるか。若し天、我の復た趙祀を存するを欲せずんば、則ち大風よ吾が舟を覆せ、と。舟遂に覆り、世傑溺る。宋亡ぶ。
現代語訳
こうして帝の亡骸と、詔書や玉璽を手に入れました。やがて世傑は崖山に戻って兵をまとめ、楊太后に出会い、太后を奉じて趙氏の後継ぎを探し、再び立てようとしました。ところが楊太后は、このときはじめて帝の崩御を知り、胸を打って大いに慟哭して言いました。「私が死を忍び、苦難をくぐってここまで来たのは、ほかでもなく趙氏の一粒の血筋のためでした。いまや望みはありません」。そのまま海へ身を投じて亡くなりました。世傑は太后を海辺に葬りました。世傑は安南へ向かおうとして、平章山のふもとに至り、激しい暴風に遭いました。舟人が岸に舟を寄せようとすると、世傑は言いました。「そうしても無駄だ」。香を焚き、天を仰いで叫びました。「私が趙氏のためにできることは、これで尽くした。一人の君が亡び、また一人を立て、今度もまた亡んだ。私がまだ死なずにいたのは、敵兵が退いたら別に趙氏の子を立てて、祭祀を絶やさないためだった。それがこの有様だ。これは天の意なのか。もし天が私に趙氏の祭祀を存続させたくないのなら、大風よ、私の舟を覆せ」。舟はそのまま覆り、世傑は溺れました。こうして宋は亡びました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
十八史略・『十八史略』南宋・祥興 崖山・崖山の敗戦と陸秀夫諸舟の檣旗皆仆る。世傑、事の去れるを知り、乃ち精兵を抽きて中軍に入る。諸軍大いに潰ゆ。元師、宋の中軍に薄る。会たま日暮れ、風雨昏霧四もに塞がり、咫尺も弁ぜず。世傑乃ち蘇劉義と維を断ち、十六舟を以て港を奪いて去る。陸秀夫、帝舟に走る。舟大にして且つ諸舟環結し、度るに出走するを得ず。乃ち先ず其の妻子を駆りて海に入らしめ、即ち帝を負いて同に溺る。帝崩じ、後宮・諸臣の従い死する者甚だ衆し。越えて七日、屍の海上に浮かぶ者十余万人。
-
十八史略・『十八史略』南宋・祥興 文天祥・文天祥、降伏の勧誘を断る己卯、祥興二年正月、元の張弘範、兵もて崖山に至る。張世傑力戦して之を禦ぐ。弘範、之を如何ともする無し。時に世傑に甥の韓なる者有り、元の師中に在り。弘範、三たび韓をして宋の師に至り世傑を招かしむ。世傑従わずして曰く、吾降れば生き且つ富貴なるを知る。但だ義は移すべからざるのみ、と。因りて古の忠臣を歴数して以て之に荅う。弘範乃ち文天祥に命じて書を為り世傑を招かしむ。天祥曰く、吾父母を扞ぐこと能わず、乃ち人に教えて父母に叛かしむ、可ならんや、と。固く之に命ず。天祥遂に過ぐる所の零丁洋の詩を書して之に与う。其の末に云う有り、人生古より誰か死無からん、丹心を留取して汗青に照らさん、と。弘範笑いて之を置く。弘範、復た人を遣わして崖山の士民に語りて曰く、陳丞相已に去り、文丞相已に執らわる。何をか為さんと欲する、と。士民も亦た叛く者無し。
-
十八史略・『十八史略』南宋・高宗 秦檜・岳飛を除いて結ぶ和議韓世忠・張俊を以て枢密使と為し、岳飛を副使と為す。飛・世忠、尋いで罷む。元朮、書を以て檜に抵りて曰く、爾は朝夕和を以て請う。而れども岳飛、方に河北を為むるを図る。必ず飛を殺して乃ち可なり、と。張俊、又飛の罪を構成し、逮えて獄に繋ぐ。檜、奏して飛及び張憲・岳雲を誅す。和議遂に諧い、韋太后及び徽宗の梓宮を宋に帰す。金人、惟だに尽く許す所の陝西・河南の地を悔ゆるのみならず、仍お唐・鄧等の州を割きて金に入れしむ。
-
十八史略・『十八史略』宋・徽宗・章惇の誤算と端王即位徽宗皇帝、名は佶。神宗の第十一子なり。初め端王に封ぜらる。哲宗崩じ、欽聖憲肅皇太后向氏、宰執を召して嗣を立つるを議す。后、端王を立てんと欲す。章惇曰く、端王は浪子のみ、と。曾布、身長く、端王の已に簾下に在るを望み見て、叱して曰く、章惇、太后の処分を聴け、と。王、簾を出ず。惇、惶恐して措を失う。王即位す。
-
『智囊』詭道・張弘范張弘范、李璮を済南に討つ。其の父柔、之を戒めて曰く、「汝、城を囲むに険地を避くること勿れ。汝に怠る心無ければ、兵は必ず死力を尽くさん。主将は其の険を慮り、もし来り犯す者あれば必ず攻め救う。因りて功を立つべし。勉めよ」と。弘范、城の西に営す。璮、軍を出だして諸将の営を突くも、独り弘范には向かわず。弘范曰く、「我は険地に営す。璮は乃ち弱きを我に示すなり。必ず奇兵を以て来り襲わん」と。遂に長き塁を築き、内に甲士を伏せ、外に壕を為り、東門を開きて以て之を待つ。夜、士卒に令して濠を浚え、益々深く広くせしむるも、璮は知らず。明日、果たして飛橋を擁して来り攻む。未だ岸に及ばざるに、軍は壕中に陥り、壕を跨ぎて上るを得る者も、伏に遇いて皆死す。元兵、宋の少帝を崖山に逼る。或ひと請う、先ず炮を用いんと。弘范曰く、「火起これば舟は散ず。戦うに如かず」と。明日、其の軍を四つに分け、東・南・北の三面に軍し、弘范自ら一軍を将い、相い去ること里余。令を下して曰く、「吾が楽の作るを聞かば、乃ち挙げよ。令に違う者は斬る」と。先ず北面の一軍を麾き、潮に乗じて戦うも克たず。李恒ら潮に順いて退く。楽作る。宋将は且に宴せんとすと為して、少しく懈る。弘范の舟師、前を犯し、衆之に継ぐ。預め戦楼を舟尾に構え、布幕を以て之を障い、将士に命じて盾を負いて伏せしめ、令して曰く、「金の声を聞きて戦いを起こせ。金に先んじて妄りに動く者は死」と。飛矢の集まること蝟の如きも、盾に伏す者は動かず。舟の将に接せんとするに、金を鳴らして障いを撤し、弩弓・火石交ごも作り、頃刻にして並びに七舟を破る。宋師大いに潰え、少帝は水に赴きて死す。
-
十八史略・『十八史略』宋・哲宗 宣仁太后・宣仁太后の遺言元祐八年九月、宣仁聖烈太皇太后崩ず。崩ずるに臨み、上に対し、大防・純仁らに謂いて曰く、老身没して後、必ず多く官家を調戯する者有らん。宜しく之を聴くこと勿かるべし。公らも亦た宜しく早く退き、官家をして別に一番の人を用いしむべし、と。左右を呼びて問う、曽て社飯を賜い出だすや否や、と。因りて曰く、公ら各去りて一匙の社飯を喫せよ。明年社飯の時、老身を思量せよ、と。后政を聴くこと九年、天下称して女中の堯舜と為す。