十八史略 / 『十八史略』南宋・高宗 秦檜・岳飛を除いて結ぶ和議
以韓世忠張俊為樞密使岳飛副使飛世忠尋罷元朮以書抵檜曰爾朝夕以和請而岳飛方為河北圖必殺飛乃可張俊又構成飛罪逮繫獄檜奏誅飛及張憲岳雲和議遂諧歸韋太后及徽宗梓宮於宋金人不惟盡悔所許陝西河南地仍割唐鄧等州入金
新字:以韓世忠張俊為枢密使岳飛副使飛世忠尋罷元朮以書抵檜曰爾朝夕以和請而岳飛方為河北図必殺飛乃可張俊又構成飛罪逮繋獄檜奏誅飛及張憲岳雲和議遂諧帰韋太后及徽宗梓宮於宋金人不惟尽悔所許陝西河南地仍割唐鄧等州入金
書き下し
韓世忠・張俊を以て枢密使と為し、岳飛を副使と為す。飛・世忠、尋いで罷む。元朮、書を以て檜に抵りて曰く、爾は朝夕和を以て請う。而れども岳飛、方に河北を為むるを図る。必ず飛を殺して乃ち可なり、と。張俊、又飛の罪を構成し、逮えて獄に繋ぐ。檜、奏して飛及び張憲・岳雲を誅す。和議遂に諧い、韋太后及び徽宗の梓宮を宋に帰す。金人、惟だに尽く許す所の陝西・河南の地を悔ゆるのみならず、仍お唐・鄧等の州を割きて金に入れしむ。
現代語訳
韓世忠と張俊を枢密使とし、岳飛をその副使としました。まもなく岳飛と韓世忠は罷免されました。金の将軍の兀朮は、書状を秦檜に送って言いました。「そなたは朝晩和議を求めているが、岳飛はまさに河北の回復を図っている。必ず岳飛を殺してこそ、それができるのだ」。張俊もまた岳飛の罪をでっち上げ、捕らえて獄につなぎました。秦檜は上奏して、岳飛と張憲、岳雲を誅殺させました。こうして和議が成り、韋太后と徽宗の棺が宋に返されました。しかし金は、許した陝西と河南の土地をすべて悔やんだだけでなく、さらに唐州・鄧州などの州を割いて金に入れさせました。
解説
紹興十一年、宋と金の和議の成立と岳飛の死が重なる記事です。本書によれば、金の兀朮は秦檜に、和を求めるなら河北の回復を図る岳飛を殺すことが前提だと書き送り、張俊も岳飛に罪をかぶせ、檜は岳飛と張憲、岳雲の誅殺を上奏しました。こうして和議は結ばれ、韋太后と徽宗の棺は宋に戻りましたが、金は許した土地を悔いて、さらに唐・鄧などの州まで割かせました。目先の安定のために最も実績のある人材を切った代償は小さくありません。上位者の機嫌を取るために現場の要を外していないか、短期の合意と引き換えに失うものを数える視点が必要です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
岳飛秦檜和議兀朮張俊高宗
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