十八史略 / 『十八史略』宋・欽宗・太学生が六賊の誅殺を訴える
欽宗皇帝名桓在東宮無失德蔡京童貫輩咸憚之欲動搖不可至是即位太學生陳東等伏闕上書乞誅蔡京童貫王黼梁師成李彦朱勔六賊以謝天下彦以根括民田破蕩百姓結怨於河北京東西三路者也勔以花石綱所在騷動結怨於東南者也靖康元年首竄黼勔彦尋皆殺之
新字:欽宗皇帝名桓在東宮無失徳蔡京童貫輩咸憚之欲動揺不可至是即位太学生陳東等伏闕上書乞誅蔡京童貫王黼梁師成李彦朱勔六賊以謝天下彦以根括民田破蕩百姓結怨於河北京東西三路者也勔以花石綱所在騷動結怨於東南者也靖康元年首竄黼勔彦尋皆殺之
書き下し
欽宗皇帝、名は桓。東宮に在りて失徳無し。蔡京・童貫の輩、咸之を憚り、動揺せんと欲するも不可なり。是に至りて即位す。太学生陳東ら闕に伏して上書し、蔡京・童貫・王黼・梁師成・李彦・朱勔を誅して、以て天下に謝せんことを乞う。彦は民田を根括し、百姓を破蕩し、怨みを河北・京東西三路に結ぶ者なり。勔は花石綱を以て、所在に騒動し、怨みを東南に結ぶ者なり。靖康元年、首め黼・勔・彦を竄し、尋いで皆之を殺す。
現代語訳
欽宗皇帝は、名を桓といいます。東宮にいたころ徳を失うことがなく、蔡京や童貫たちはみなこれを恐れ、動揺させようとしましたができませんでした。ここに至って即位しました。太学生の陳東らは宮門の前にひれ伏して上書し、蔡京、童貫、王黼、梁師成、李彦、朱勔の六人の賊を誅殺して、天下に謝罪することを願いました。李彦は民の田畑を徹底的に調べ上げて取り立て、百姓を破産させ、河北と京東・京西の三路に怨みを買った者です。朱勔は花石綱によって行く先々を騒がせ、東南に怨みを買った者です。靖康元年、まず王黼、朱勔、李彦が遠方に流され、まもなく皆殺されました。
解説

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