十八史略 / 『十八史略』宋・神宗・三不足の説と司馬光の上書
司馬光先自學士除樞副力辭不拜數言新法之害上喻安石曰聞三不足之說否曰不聞上曰外人云朝廷以為天變不足畏人言不足恤祖宗法不足守昨學士院進舘職策問專指此三事策問光所為也光屢請外得永興移許州上言臣之不才最出群臣之下先見不如呂誨公直不如范純仁程顥敢言不如蘇軾孔文仲勇決不如范鎮
新字:司馬光先自学士除枢副力辞不拝数言新法之害上喩安石曰聞三不足之説否曰不聞上曰外人云朝廷以為天変不足畏人言不足恤祖宗法不足守昨学士院進舘職策問専指此三事策問光所為也光屡請外得永興移許州上言臣之不才最出群臣之下先見不如呂誨公直不如范純仁程顥敢言不如蘇軾孔文仲勇決不如范鎮
書き下し
司馬光、先に学士より枢副に除せらるるも、力辞して拝せず。数しば新法の害を言う。上、安石に喩して曰く、三不足の説を聞くや否や、と。曰く、聞かず、と。上曰く、外人云う、朝廷以為らく、天変は畏るるに足らず、人言は恤うるに足らず、祖宗の法は守るに足らず、と。昨、学士院の進むる館職の策問は、専ら此の三事を指す。策問は光の為す所なり、と。光、屢しば外を請い、永興を得、許州に移る。上言す、臣の不才、最も群臣の下に出づ。先見は呂誨に如かず、公直は范純仁・程顥に如かず、敢言は蘇軾・孔文仲に如かず、勇決は范鎮に如かず、と。
現代語訳
司馬光は、先に学士から枢密副使に任じられましたが、強く辞退して拝命しませんでした。しばしば新法の害を論じました。上は王安石に言い聞かせました。「三不足の説を聞いたことがあるか」。安石は、聞いたことがありませんと答えました。上は言いました。「世間の人は言っている。朝廷は、天の異変は畏れるに足りず、人の言葉は気にかけるに足りず、祖先の法は守るに足りない、と考えているのだと。先日、学士院が提出した館職の試験問題は、もっぱらこの三つの事を指していた。その問題は司馬光が作ったものだ」。光はたびたび地方への転出を願い、永興軍に任じられ、さらに許州に移りました。上書して言いました。「私は才が乏しく、群臣のなかで最も下に位置します。先見の明は呂誨に及ばず、公正さと剛直さは范純仁・程顥に及ばず、あえて直言する点は蘇軾・孔文仲に及ばず、勇気と決断力は范鎮に及びません」。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
十八史略・『十八史略』宋・哲宗 司馬光・先帝の法を善悪で分ける議者あるいは謂う、三年父の道を改むること無し、新法は姑く稍その甚だしき者を損せば是なり、と。光慨然として之を争いて曰く、先帝の法の善き者は、百世といえども変うべからず。安石・恵卿らの建つる所の、天下の害を為し、先帝の本意に非ざる者の若きは、当に焚を救い溺を拯うが如くすべく、なお及ばざるを恐る。況んや太皇太后は母を以て子を改むるなり、子の父を改むるに非ず、と。衆議乃ち定まる。
-
『宋名臣言行録』後集巻六・王安石獨り役法は新舊差募の二議倶に弊有り。吳蜀の民は雇役を以て便と爲す。公と溫公と皆早く貴く、少く州縣を歴て四方の風俗を周く知る能わず。故に公は雇役を主とし、溫公は差役を主とす。蘇内翰・范忠宣は溫公門下の士なるも、復た差役を以て未だ便ならずと爲す。章子厚は公の門下の士なるも、亦た雇役を以て未だ盡くさずと爲す。三人は賢否同じからずと雖も、皆聰明にして吏治を曉り、兼ねて南北の風俗を知る。其の論ずる所は甚だ公にして、各ミ主とする所に私せず。
-
『宋名臣言行録』後集巻七・司馬光公學士王珪・王安石と同じく對す。公言う、災を救い用を節するは宜しく貴近より始むべし。兩府の賜を辭するを聽す可しと。安石曰く、常衮賜饌を辭す。時議以爲えらく、衮は自ら能わざるを知る。當に位を辭すべく、當に禄を辭すべからずと。且つ國用の不足は當今の急務に非ざるなりと。公曰く、衮の禄を辭するは猶お禄を持して位を固むる者より賢れり。國用の不足は眞に急務なり。安石の言は是に非ずと。
-
『宋名臣言行録』後集巻七・司馬光門下侍郎に拜せらる。元豐の末、天下多故。二聖位を嗣ぎ、民日夜領を引きて以て新政を觀る。而して説を進むる者以爲えらく、三年父の道を改むる無しと。稍ミ其の重き者を損じ、毛のごとく數事を舉げて以て人言を塞がんと欲す。公慨然として之を爭いて曰く、先帝の法は其の善き者は百世變ぜずと雖も可なり。若し安石・惠卿等の建つる所にして天下の害と爲り、先帝の本意に非ざる者は、之を改むること當に焚を捄い溺を拯うが如くすべし。猶お及ばざるを恐る。况んや太皇太后は母を以て子を改む。子の父を改むるに非ずと。衆議乃ち定まる。
-
『智囊』遠猶・李允則・程顥・畢仲游司馬光、政を為すに、王安石の為す所に反す。畢仲游、之に書を予えて曰く、「昔、安石は興作の説を以て先帝を動かし、而して財の足らざるを患うるなり。故に凡そ政の以て民の財を得べき者は、用いざる無し。蓋し青苗を散じ、市易を置き、役銭を斂め、塩法を変うるは、事なり。而して興作を欲して不足を患うるは、情の出づるなり。未だ其の興作の情を杜ぐ能わずして、徒らに其の散斂変置の事を禁ぜんと欲す、是を以て百説して百行われず。今遂に青苗を廃し、市易を罷め、役銭を蠲き、塩法を去り、凡そ利と号して民を傷つくる者は、一掃して之を更む。則ち向来新法に用事せる者は、必ず喜ばざらん。喜ばざるの人は、必ず但だ『青苗は廃すべからず、市易は罷むべからず、役銭は蠲くべからず、塩法は去るべからず』と曰うのみならず、必ず不足の情を操り、不足の事を言い、以て上意を動かさん。石人を致して之を聴かしむと雖も、猶お将に動かんとす。是くの如くんば、則ち廃する者は復た散ずべく、罷むる者は復た置くべく、蠲く者は復た斂むべく、去る者は復た存すべし。今の策を為さば、当に大いに天下の計を挙げ、深く出入の数を明らかにし、諸路の積む所の銭粟を以て、一に地官に帰し、経費をして二十年の用を支えしむべし。数年の間に、又将に今日の十倍ならんとす。
-
『宋名臣言行録』後集巻七・司馬光公永興軍を知す。上章して曰く、臣の不才は最も羣臣の下に出づ。先見は呂誨に如かず、公直は范純仁・程顥に如かず、敢言は蘇軾・孔文仲に如かず、勇決は范鎮に如かず。若し臣の罪、鎮と同じくば則ち鎮の例に依りて致仕せんことを乞う。若し罪、鎮より重くば、或いは竄し或いは誅せらるるも敢えて逃れざる所なりと。帝必ず公を用いんと欲し、召して許州を知せしめ、闕を過ぎて殿に上らしむ。監察御史程顥に謂いて曰く、卿光の來たるや否やを度れと。顥對えて曰く、陛下能く其の言を用いば光は必ず來たらん。其の言を用うる能わずんば光は必ず來たらじと。帝曰く、未だ其の言を用うるを論ぜず。光の如き者常に左右に在らば自ら過ち無かる可しと。公果たして召命を辭す。帝嘗て左丞蒲宗孟に謂いて曰く、光の如きは別事を論ぜず、只だ樞密を辭するの一節のみ。朕即位より以來、惟だ此の一人を見るのみと。帝の公に眷禮すること此くの如く衰えず。