十八史略 / 『十八史略』唐・太宗・大乱の後こそ教化は易しい
上之初即位也常與群臣語及教化曰大亂之後其難治乎魏徵對曰饑者易為食渴者易為飲封德彝曰三代以還人漸澆訛故秦任法律漢雜霸道蓋欲化不能豈能之而不欲邪徵曰五帝三王不易民而化湯武皆乘大亂之後身致太平行帝道而帝行王道而王顧所行何如耳上卒從徵言元年關中饑斗米直絹一匹二年天下蝗三年大水上勤而撫之未嘗嗟怨至是天下大稔米斗三四錢終歲斷死刑纔十九人東至于海南及五嶺皆外戶不閉行旅不齎糧取給於道路焉上曰魏徵勸我行仁義今既效矣惜不令封德彝見之
新字:上之初即位也常与群臣語及教化曰大乱之後其難治乎魏徴対曰饑者易為食渇者易為飲封徳彝曰三代以還人漸澆訛故秦任法律漢雑覇道蓋欲化不能豈能之而不欲邪徴曰五帝三王不易民而化湯武皆乗大乱之後身致太平行帝道而帝行王道而王顧所行何如耳上卒従徴言元年関中饑斗米直絹一匹二年天下蝗三年大水上勤而撫之未嘗嗟怨至是天下大稔米斗三四銭終歳断死刑纔十九人東至于海南及五嶺皆外戸不閉行旅不齎糧取給於道路焉上曰魏徴勧我行仁義今既効矣惜不令封徳彝見之
書き下し
上の初めて即位するや、常に群臣と語りて教化に及ぶ。曰く、大乱の後は其れ治め難からんか、と。魏徴対えて曰く、饑うる者は食を為し易く、渇する者は飲を為し易し、と。封徳彝曰く、三代以還、人漸く澆訛す。故に秦は法律に任せ、漢は霸道を雑う。蓋し化せんと欲して能わず。豈に能くして欲せざらんや、と。徴曰く、五帝・三王は、民を易えずして化す。湯・武は皆大乱の後に乗じ、身ら太平を致せり。帝道を行えば帝、王道を行えば王。顧うに行う所の何如のみ、と。上卒に徴の言に従う。元年、関中饑え、斗米の直は絹一匹。二年、天下蝗あり。三年、大水あり。上勤めて之を撫し、未だ嘗て嗟怨せず。是に至りて天下大いに稔り、米は斗三四銭。終歳死刑を断ずること、纔かに十九人。東は海に至り、南は五嶺に及ぶまで、皆外戸を閉ざさず、行旅は糧を斉らずして道路に取り給す。上曰く、魏徴我に仁義を行うを勧む。今既に効あり。惜しむらくは封徳彝をして之を見しめざりしを、と。
現代語訳
太宗は即位したばかりのころ、いつも群臣と語り合い、教え導くことに話が及びました。「大乱の後は、治めるのが難しいだろうか」。魏徴は答えました。「飢えた者は何でも食べやすく、渇いた者は何でも飲みやすいものです」。封徳彝は言いました。「夏殷周の三代以後、人心は次第に軽薄で偽りが多くなりました。だから秦は法律に任せ、漢は覇道を混ぜて用いたのです。教化しようとしてできなかったのであり、できるのにしなかったのではありません」。魏徴は言いました。「五帝や三王は、民を入れ替えずに教化しました。湯王と武王は、ともに大乱の後に立ち、自らの代で太平を実現しました。帝の道を行えば帝となり、王の道を行えば王となります。ただ、何を行うか次第です」。太宗はついに魏徴の言葉に従いました。元年は関中が飢饉で、米一斗が絹一匹ほどの値でした。二年は蝗の害があり、三年は大水が出ました。太宗は励んで民を慰め、民は一度も恨み言を言いませんでした。やがて天下は大いに実り、米は一斗が三、四銭になり、一年間に処刑された者は、わずか十九人でした。東は海まで、南は五嶺まで、人々は戸を閉めて寝ることもなく、旅人は食糧を持たず、道ばたで調達できました。太宗は言いました。「魏徴は私に仁義を行うよう勧めた。いまその効果が現れた。惜しいことに、封徳彝にこれを見せられなかった」。
解説

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『童子問』卷中唐の太宗の初めて即位するや、嘗て群臣と語りて教化に及ぶ。上曰く、今大乱の後を承く、恐らくは斯の民未だ化し易からざらん、と。魏徴対へて曰く、然らず。久安の民は驕逸なり、驕逸なれば則ち教へ難し。経乱の民は愁苦す、愁苦すれば則ち化し易し。譬へば猶ほ饑うる者は食を為し易く、渇する者は飲を為し易きがごとし、と。上深く之を然りとす。封徳彝之を非として曰く、魏徴は書生にして、未だ時務を識らず。若し其の虚論を信ぜば、必ず国家を敗らん、と。徴曰く、五帝三王は、民を易へずして化す。帝道を行ひて帝たり、王道を行ひて王たり。顧ふに行ふ所如何のみ、と。上卒に徴の言に従ふ。貞観元年、関中饑ゑ、米斗ごとに絹一疋に直す。二年、天下蝗あり。三年、大水あり。上勤めて之を撫す。是の歳、天下大いに稔り、米斗三四銭に過ぎず。終歳死刑を断ずること二十九人、外戸閉ぢず、行旅糧を齎さず。帝群臣に謂ひて曰く、此れ徴我に仁義を行ふを勧む、既に效あり、と。此れ近代の明效なり。王道豈に古に行ふべくして、今に行ふべからざらんや。徴の学は、未だ孟子を知ると為さず。然れども其の言猶ほ明效有ること此くのごとし。況んや徴為らざる者をや。
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貞観政要・政体貞観七年、太宗、秘書監魏徴と従容として自古の理政の得失を論ず。因りて曰く、「当今は大乱の後なり。造次に化を致すべからず」と。徴曰く、「然らず。凡そ人は危困に在れば、則ち死亡を憂う。死亡を憂うれば、則ち化を思う。化を思えば、則ち教え易し。然らば則ち乱後は教え易きこと、猶お飢人の食らい易きがごときなり」と。太宗曰く、「善人邦を為(おさ)むること百年、然る後に残に勝ち殺を去る。大乱の後、将に化を致すを求めんとす。寧ろ造次にして望むべけんや」と。徴曰く、「此れ常人に拠る。聖哲に在らず。若し聖哲化を施し、上下心を同じくせば、人の応ずること響の如く、疾(と)くせずして速やかに、期月にして可ならん。信に難しと為さず。三年にして功を成すも、猶お其の晩しと謂わん」と。太宗以て然りと為す。封徳彜(ほうとくい)等対えて曰く、「三代より後、人は漸く澆訛(ぎょうか)なり。故に秦は法律に任じ、漢は霸道を雑(まじ)う。皆な理めんと欲して能わず。豈に能く化して欲せざらんや。若し魏徴の説く所を信ぜば、恐らくは国家を敗乱せん」と。徴曰く、「五帝・三王は、人を易えずして化す。帝道を行えば則ち帝たり、王道を行えば則ち王たり。当時の理むる所に在り、之を化するのみ。之を載籍に考うれば、得て知るべし。昔、黄帝は蚩尤(しゆう)と七十余戦す。其の乱れたること甚だし。既に之に勝ちて後、便ち太平を致す。九黎(きゅうれい)徳を乱す。顓頊(せんぎょく)之を征す。既に克ちて後、其の化を失わず。桀は乱虐を為す。而して湯は之を放つ。湯の代に在りて、即ち太平を致す。紂は無道を為す。武王之を伐つ。成王の代に、亦た太平を致す。若し人漸く澆訛にして、純樸に及ばずと言わば、今に至りて応(まさ)に悉く鬼魅と為るべし。寧ろ復た得て教化すべけんや」と。徳彜等之を難ずる無し。然れども咸(みな)以て不可と為す。太宗毎に力行して倦まず。数年の間、海内康寧、突厥破滅す。因りて群臣に謂いて曰く、「貞観の初め、人皆な異論す。云く、当今必ず帝道・王道を行うべからず、と。惟だ魏徴のみ我に勧む。既に其の言に従い、数載を過ぎずして、遂に華夏の安寧、遠戎の賓服を得たり。突厥は古より以来、常に中国の勍敵(けいてき)為り。今、酋長は並びに刀を帯びて宿衛し、部落は皆な衣冠を襲(つ)ぐ。我をして遂に此に至らしむるは、皆な魏徴の力なり」と。顧みて徴に謂いて曰く、「玉は美質有りと雖も、石間に在り、良工の琢磨に値(あ)わざれば、瓦礫と別(わか)たず。若し良工に遇わば、即ち万代の宝と為る。朕は美質無しと雖も、公の切磋する所と為る。公が朕を約するに仁義を以てし、朕を弘むるに道徳を以てし、朕の功業をして此に至らしむるを労す。公も亦た良工為るに足るのみ」と。
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貞観政要・政体太宗即位の始めより、霜旱(そうかん)災を為し、米穀踴貴(ようき)す。突厥侵擾し、州県騒然たり。帝の志は人を憂うるに在り、精を鋭くして政を為し、節倹を崇尚し、大いに恩徳を布(し)く。是の時、京師より河東・河南・隴右に及ぶまで、饑饉尤も甚だし。一匹の絹、纔(わず)かに一斗の米を得るのみ。百姓は東西に食を逐うと雖も、未だ嘗て嗟怨(さえん)せず。自ら安んぜざる莫し。貞観三年に至り、関中豊熟す。咸(みな)自ら郷に帰る。竟に一人の逃散する無し。其の人心を得ること此くの如し。加うるに諫に従うこと流るるが如く、雅(つね)に儒術を好み、孜孜として士を求め、務めて官を択ぶに在り。旧弊を改革し、制度を興復す。一事に因る毎に、類に触れて善を為す。初め、息隠(そくいん)・海陵の党、同謀して太宗を害せんとする者、数百千人なり。事寧(しず)まりて後、引きて左右近侍に居らしむ。心術豁然として、疑阻有らず。時論以為(おも)えらく、能く大事を断決し、帝王の体を得たり、と。深く官吏の貪濁を悪(にく)む。法を枉(ま)げて財を受くる者有らば、必ず赦免する無し。京に在る流外にして贓(ぞう)を犯す者有らば、皆な執奏せしめ、其の犯す所に随い、寘(お)くに重法を以てす。是に由りて官吏は多く自ら清謹なり。王公・妃主の家、大姓豪猾の伍を制馭す。皆な威を畏れて跡を屏(しりぞ)け、敢えて細人を侵欺する無し。商旅は野に次(やど)るも、復た盗賊無し。囹圄(れいご)は常に空しく、馬牛は野に布(し)き、外戸閉ざさず。又た頻りに豊稔を致し、米は斗三四銭。行旅は京師より嶺表に至り、山東より滄海に至るまで、皆な糧を賫(もた)らさず、給を路に取る。山東の村落に入れば、行客の経過する者、必ず厚く供待を加え、或いは発する時に贈遺(ぞうい)有り。此れ皆な古昔にも未だ有らざるなり。
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貞観政要・誠信太宗嘗て長孫無忌等に謂いて曰く、「朕の即位の初め、書を上る者は一に非ず。或いは言う、人主は必ず須らく威権を独り任ずべし。群下に委任するを得ず、と。或いは兵を耀かし武を振るい、四夷を懾服せんことを欲す。惟だ魏徴のみ朕に勧む、『革を偃(ふ)せて文を興し、徳を布き恵を施さば、中国既に安く、遠人自ら服せん』と。朕は此の語に従う。天下大いに寧し。絶域の君長、皆な来たりて朝貢す。九夷は重訳し、道に相い望む。凡そ此等の事は、皆な魏徴の力なり。朕の任用、豈に人を得ざらんや」と。徴拝謝して曰く、「陛下の聖徳は天より、心を政術に留む。実に庸短を以て、承受するに暇あらず。豈に聖明に益有らんや」と。
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貞観政要・直諫貞観十二年、太宗魏徴に謂いて曰く、「比来の行う所の得失・政化は、往前に何如」と。対えて曰く、「若し恩威の加うる所、遠夷の朝貢は、貞観の始めに比すれば、等級を以ては言うべからず。若し徳義の潜かに通じ、民心の悦服は、貞観の初めに比すれば、相い去ること又た甚だ遠し」と。太宗曰く、「遠夷来服するは、応に徳義の加うる所に由るべし。往前の功業は、何に因りてか益ます大なる」と。徴曰く、「昔者、四方未だ定まらざるとき、常に徳義を以て心と為す。旋(や)がて海内虞(うれ)い無きを以て、漸く驕奢自溢を加う。所以に功業は盛なりと雖も、終に往初に如かず」と。太宗又た曰く、「行う所は往前に比して何ぞ異なる」と。徴曰く、「貞観の初め、人の言わざるを恐れ、之を導きて諫めしむ。三年已後、人の諫むるを見れば、悦びて之に従う。一二年来、人の諫むるを悦ばず。勉強して聴受すと雖も、意は終に平らかならず、諒(まこと)に難色有り」と。太宗曰く、「何の事に於て此くの如き」と。対えて曰く、「即位の初め、元律師を死罪に処す。孫伏伽諫めて曰く、『法は死に至らず。濫りに酷罰を加うるを容(ゆる)す無かれ』と。遂に蘭陵公主の園を賜う。直(あたい)は銭百万。人或いは曰く、『言う所は乃ち常事なるに、賞する所は太(はなは)だ厚し』と。答えて曰く、『我は即位より来、未だ諫むる者有らず。賞する所以なり』と。此れ之を導きて言わしむるなり。徐州司戸柳雄は隋の資に於て妄りに階級を加う。人の之を告ぐる者有り。陛下は其れをして自首せしめ、首せずんば罪を与うとす。遂に固く是れ実なりと言い、竟に首するを肯んぜず。大理は推して其の偽を得、将に雄を死罪に処せんとす。少卿戴冑奏す、法は止だ徒に合うのみと。陛下曰く、『我は已に其れと断当し訖(お)われり。但だ当に死罪を与うべし』と。冑曰く、『陛下既に然らずんば、即ち臣が法司に付せ。罪は死に合わず。酷濫なるべからず』と。陛下色を作して殺すを遣(し)む。冑之を執りて已まざること、四五に至る。然る後に之を赦す。乃ち法司に謂いて曰く、『但だ能く我が為に此くの如く法を守らば、豈に濫りに誅夷有るを畏れんや』と。此れ則ち悦びて以て諫に従うなり。往年、陝県の丞皇甫徳参は書を上りて大いに聖旨に忤らう。陛下は以て訕謗と為す。臣奏して称す、上書は激切ならずんば、人主の意を起こす能わず。激切なれば即ち訕謗に似たりと。時に臣の言に従うと雖も、物二十段を賞す。意は甚だ平らかならず、諫を受くるに難(かた)んず」と。太宗曰く、「誠に公の言の如し。公に非ずんば能く此を道う者無し。人は皆な自ら覚らざるに苦しむ。公が未だ道わざる時に向(さき)んじては、都(すべ)て自ら行う所は変わらずと謂えり。公の論説を見るに及び、過失は驚くに堪えたり。公は但だ此の心を存せよ。朕は終に公の語に違わず」と。
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十八史略・『十八史略』唐・太宗・怒って試す策を退けた太宗上書して佞臣を去らんことを請う者有り。曰く、願わくは陽り怒りて以て之を試みよ。理を執りて屈せざる者は直臣なり。威を畏れ旨に順う者は佞臣なり、と。上曰く、吾れ自ら詐を為す、何を以て臣下の直を責めんや。朕まさに至誠を以て天下を治めんとす、と。或ひと重法もて盗を禁ぜんことを請う。上曰く、当に奢を去り費を省き、徭を軽くし賦を薄くし、廉吏を選用し、民をして衣食に余り有らしむべし。自ら盗を為さず。安くんぞ重法を用いんや、と。是れより数年の後、路に遺を拾わず、商旅は野宿せり。