貞観政要 / 直諫
貞觀十二年,太宗謂魏徵曰:「比來所行得失政化,何如往前?」對曰:「若恩威所加,遠夷朝貢,比於貞觀之始,不可等級而言。若德義潛通,民心悅服,比於貞觀之初,相去又甚遠。」太宗曰:「遠夷來服,應由德義所加。往前功業,何因益大?」徵曰:「昔者四方未定,常以德義為心,旋以海內無虞,漸加驕奢自溢。所以功業雖盛,終不如往初。」太宗又曰:「所行比往前何為異?」徵曰:「貞觀之初,恐人不言,導之使諫。三年已後,見人諫,悅而從之。一二年來,不悅人諫,雖勉強聽受,而意終不平,諒有難色。」太宗曰:「於何事如此?」對曰:「即位之初,處元律師死罪,孫伏伽諫曰:『法不至死,無容濫加酷罰。』遂賜以蘭陵公主園,直錢百萬。人或曰:『所言乃常事,而所賞太厚。』答曰:『我即位來,未有諫者,所以賞之。』此導之使言。也徐州司戶柳雄於隋資妄加階級。人有告之者,陛下令其自首,不首與罪。遂固言是實,竟不肯首。大理推得其偽,將處雄死罪,少卿戴胄奏法止合徒。陛下曰:『我已與其斷當訖,但當與死罪。』胄曰:『陛下既不然,即付臣法司。罪不合死,不可酷濫。』陛下作色遣殺,胄執之不已,至於四五,然後赦之。乃謂法司曰:『但能為我如此守法,豈畏濫有誅夷。』此則悅以從諫也。往年陜縣丞皇甫德參上書大忤聖旨,陛下以為訕謗。臣奏稱上書不激切,不能起人主意,激切即似訕謗。於時雖從臣言,賞物二十段,意甚不平,難於受諫也。」太宗曰:「誠如公言,非公無能道此者。人皆苦不自覺,公向未道時,都自謂所行不變。及見公論說,過失堪驚。公但存此心,朕終不違公語。」
新字:貞観十二年,太宗謂魏徴曰:「比来所行得失政化,何如往前?」対曰:「若恩威所加,遠夷朝貢,比於貞観之始,不可等級而言。若徳義潜通,民心悦服,比於貞観之初,相去又甚遠。」太宗曰:「遠夷来服,応由徳義所加。往前功業,何因益大?」徴曰:「昔者四方未定,常以徳義為心,旋以海内無虞,漸加驕奢自溢。所以功業雖盛,終不如往初。」太宗又曰:「所行比往前何為異?」徴曰:「貞観之初,恐人不言,導之使諫。三年已後,見人諫,悦而従之。一二年来,不悦人諫,雖勉強聴受,而意終不平,諒有難色。」太宗曰:「於何事如此?」対曰:「即位之初,処元律師死罪,孫伏伽諫曰:『法不至死,無容濫加酷罰。』遂賜以蘭陵公主園,直銭百万。人或曰:『所言乃常事,而所賞太厚。』答曰:『我即位来,未有諫者,所以賞之。』此導之使言。也徐州司戸柳雄於隋資妄加階級。人有告之者,陛下令其自首,不首与罪。遂固言是実,竟不肯首。大理推得其偽,将処雄死罪,少卿戴胄奏法止合徒。陛下曰:『我已与其断当訖,但当与死罪。』胄曰:『陛下既不然,即付臣法司。罪不合死,不可酷濫。』陛下作色遣殺,胄執之不已,至於四五,然後赦之。乃謂法司曰:『但能為我如此守法,豈畏濫有誅夷。』此則悦以従諫也。往年陜県丞皇甫徳参上書大忤聖旨,陛下以為訕謗。臣奏称上書不激切,不能起人主意,激切即似訕謗。於時雖従臣言,賞物二十段,意甚不平,難於受諫也。」太宗曰:「誠如公言,非公無能道此者。人皆苦不自覚,公向未道時,都自謂所行不変。及見公論説,過失堪驚。公但存此心,朕終不違公語。」
書き下し
貞観十二年、太宗魏徴に謂いて曰く、「比来の行う所の得失・政化は、往前に何如」と。対えて曰く、「若し恩威の加うる所、遠夷の朝貢は、貞観の始めに比すれば、等級を以ては言うべからず。若し徳義の潜かに通じ、民心の悦服は、貞観の初めに比すれば、相い去ること又た甚だ遠し」と。太宗曰く、「遠夷来服するは、応に徳義の加うる所に由るべし。往前の功業は、何に因りてか益ます大なる」と。徴曰く、「昔者、四方未だ定まらざるとき、常に徳義を以て心と為す。旋(や)がて海内虞(うれ)い無きを以て、漸く驕奢自溢を加う。所以に功業は盛なりと雖も、終に往初に如かず」と。太宗又た曰く、「行う所は往前に比して何ぞ異なる」と。徴曰く、「貞観の初め、人の言わざるを恐れ、之を導きて諫めしむ。三年已後、人の諫むるを見れば、悦びて之に従う。一二年来、人の諫むるを悦ばず。勉強して聴受すと雖も、意は終に平らかならず、諒(まこと)に難色有り」と。太宗曰く、「何の事に於て此くの如き」と。対えて曰く、「即位の初め、元律師を死罪に処す。孫伏伽諫めて曰く、『法は死に至らず。濫りに酷罰を加うるを容(ゆる)す無かれ』と。遂に蘭陵公主の園を賜う。直(あたい)は銭百万。人或いは曰く、『言う所は乃ち常事なるに、賞する所は太(はなは)だ厚し』と。答えて曰く、『我は即位より来、未だ諫むる者有らず。賞する所以なり』と。此れ之を導きて言わしむるなり。徐州司戸柳雄は隋の資に於て妄りに階級を加う。人の之を告ぐる者有り。陛下は其れをして自首せしめ、首せずんば罪を与うとす。遂に固く是れ実なりと言い、竟に首するを肯んぜず。大理は推して其の偽を得、将に雄を死罪に処せんとす。少卿戴冑奏す、法は止だ徒に合うのみと。陛下曰く、『我は已に其れと断当し訖(お)われり。但だ当に死罪を与うべし』と。冑曰く、『陛下既に然らずんば、即ち臣が法司に付せ。罪は死に合わず。酷濫なるべからず』と。陛下色を作して殺すを遣(し)む。冑之を執りて已まざること、四五に至る。然る後に之を赦す。乃ち法司に謂いて曰く、『但だ能く我が為に此くの如く法を守らば、豈に濫りに誅夷有るを畏れんや』と。此れ則ち悦びて以て諫に従うなり。往年、陝県の丞皇甫徳参は書を上りて大いに聖旨に忤らう。陛下は以て訕謗と為す。臣奏して称す、上書は激切ならずんば、人主の意を起こす能わず。激切なれば即ち訕謗に似たりと。時に臣の言に従うと雖も、物二十段を賞す。意は甚だ平らかならず、諫を受くるに難(かた)んず」と。太宗曰く、「誠に公の言の如し。公に非ずんば能く此を道う者無し。人は皆な自ら覚らざるに苦しむ。公が未だ道わざる時に向(さき)んじては、都(すべ)て自ら行う所は変わらずと謂えり。公の論説を見るに及び、過失は驚くに堪えたり。公は但だ此の心を存せよ。朕は終に公の語に違わず」と。
現代語訳
貞観十二年、太宗が魏徴に言った。「近頃の政治の得失や教化は、以前と比べてどうか」。答えて言った。「恩と威の及ぶところ、遠方の異民族の朝貢は、貞観の初めと比べれば、等級では語れないほど良くなっています。しかし徳義がひそかに通じ、民心が悦んで服する点では、貞観の初めと比べて、はるかに劣ります」。太宗は言った。「遠方の異民族が来て服するのは、徳義が及んだからだろう。以前の功業は、どうしてますます大きくなったのか」。魏徴は言った。「昔、四方がまだ定まらなかった時は、常に徳義を心としておられました。やがて天下に憂いがなくなると、次第に驕り奢りが増しました。だから功業は盛んでも、結局は当初に及ばないのです」。太宗はまた言った。「行いは、以前と比べてどう違うのか」。魏徴は言った。「貞観の初めは、人が言わないことを恐れ、導いて諫めさせました。三年以後は、人が諫めるのを見れば、喜んで従われました。この一、二年は、人が諫めるのを喜ばれない。無理に聞き入れられても、心は平らかでなく、明らかに不快の色があります」。太宗は言った。「どういう件でそうなのか」。答えて言った。「即位のはじめ、元律師を死罪にしようとされた時、孫伏伽が『法は死罪に至りません。むやみに酷い罰を加えてはなりません』と諫めました。すると蘭陵公主の園を賜った。値は銭百万。ある者が『言ったことは平凡なのに、賞が厚すぎる』と言いました。陛下は『私は即位以来、諫める者がなかった。だから賞したのだ』と答えられました。これは導いて言わせたのです。徐州司戸の柳雄が隋の経歴を偽って位階を上げた件では、告発した者があり、陛下は自首させ、しなければ罪を与えるとされた。柳雄は事実だと言い張り、自首しませんでした。大理寺が調べて偽りを突き止め、死罪にしようとした。少卿の戴冑が、法では徒刑にとどまると奏上しました。陛下は『私はすでに処断を決めた。死罪にせよ』と言われた。戴冑は『陛下がそう仰らないなら、臣の法司にお任せください。罪は死に当たりません。酷い扱いはなりません』と言った。陛下は顔色を変えて殺せと命じられた。戴冑は四、五度も譲らず、その後ようやく赦されました。そして法司に『私のためにこう法を守ってくれるなら、むやみな誅殺を恐れることはない』と言われた。これは喜んで諫めに従われたのです。先年、陝県の丞である皇甫徳参が上書して大いに意に逆らった時、陛下は誹謗とされた。臣は、上書は激しくなければ君主の心を動かせず、激しければ誹謗に似ると申し上げました。その時、臣の言葉には従われ、絹二十段を賞されましたが、心は甚だ平らかでなく、諫めを受けるのを難しく思っておられました」。太宗は言った。「まことにあなたの言うとおりだ。あなたでなければ、こう言える者はいない。人はみな、自分では気づかないことに苦しむ。あなたが言うまで、私は自分の行いは変わっていないと思っていた。あなたの論を聞いて、過失に驚いた。あなたはこの心を持ち続けてくれ。私は決してあなたの言葉に背かない」。
解説
この章句が説くこと
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貞観政要・求諫貞観十五年、太宗魏徴に問いて曰く、「比来(ひらい)、朝臣は都(すべ)て事を論ぜず。何ぞや」と。徴対えて曰く、「陛下は心を虚しくして采納す。誠に宜しく言う者有るべし。然れども古人云く、『未だ信ぜられずして諫むれば、則ち以て己を謗ると為す。信ぜられて諫めざれば、則ち之を尸禄(しろく)と謂う』と。但だ人の才器は、各々同じからざる有り。懦弱(だじゃく)の人は、忠直を懐きて言う能わず。疎遠の人は、信ぜられざるを恐れて言うを得ず。禄を懐(おも)うの人は、身に不便なるを慮りて敢えて言わず。所以に相与に緘黙(かんもく)し、俯仰して日を過ごす」と。太宗曰く、「誠に卿の言の如し。朕は毎に之を思う。人臣の諫めんと欲すれば、輒(すなわ)ち死亡の禍を懼る。夫の鼎鑊(ていかく)に赴き、白刃を冒すと、亦た何ぞ異ならんや。故に忠貞の臣は、誠を竭くさんと欲せざるに非ず。誠を竭くすは、乃ち是れ極めて難し。所以に禹は昌言に拝す。豈に此が為ならざらんや。朕は今、懐抱を開き、諫諍を納る。卿等は怖懼を労し、遂に極言せざる無かれ」と。
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貞観政要・直諫貞観六年、匈奴克(よ)く平らぎ、遠夷入貢し、符瑞日に至り、年穀頻りに登(みの)る。岳牧等屢々封禅を請う。群臣等又た功徳を称述し、以為えらく「時は失うべからず、天は違うべからず。今、之を行うも、臣等は猶お其れ晩しと謂う」と。惟だ魏徴のみ以て不可と為す。太宗曰く、「朕は卿の直言を得んと欲す。隠す所有る勿かれ。朕の功は高からざるか」と。曰く、「高し」と。「徳は未だ厚からざるか」と。曰く、「厚し」と。「華夏は未だ安からざるか」と。曰く、「安し」と。「遠夷は未だ慕わざるか」と。曰く、「慕う」と。「符瑞は未だ至らざるか」と。曰く、「至る」と。「年穀は未だ登らざるか」と。曰く、「登る」と。「然らば則ち何為れぞ不可なる」と。対えて曰く、「陛下の功は高し。而れども民は未だ恵みに懐(なつ)かず。徳は厚し。而れども沢は未だ旁(あまね)く流れず。華夏は安し。而れども未だ事に供するに足らず。遠夷は慕う。而れども以て其の求めに供する無し。符瑞は臻(いた)ると雖も、而れども罻羅(いら)は猶お密なり。歳を積みて豊稔なるも、而れども倉廩は尚お虚し。此れ臣の窃かに未だ可ならずと謂う所以なり。臣は未だ遠く譬うる能わず。且く近く人に喩を借らん。人有り、長く疼痛を患い、任持する能わず。療理して且(まさ)に愈えんとするも、皮骨僅かに存す。便ち一石の米を負い、日に百里を行かんと欲するも、必ず得べからず。隋氏の乱は、十年に止まらず。陛下は之が良医と為り、其の疾苦を除く。已に乂安なりと雖も、未だ甚だしくは充実ならず。成るを天地に告ぐるは、臣窃かに疑い有り。且つ陛下、東のかた封ぜば、万国咸な萃(あつ)まらん。要荒の外、奔馳せざる莫し。今、伊・洛の東より、海・岱に暨(およ)ぶまで、萑莽(かんぼう)の巨沢、茫茫たること千里。人煙は断絶し、鶏犬も聞こえず。道路は蕭条として、進退は艱阻なり。寧ぞ彼の戎狄を引き、示すに虚弱を以てすべけんや。財を竭くして以て賞するも、未だ遠人の望みを厭(あ)かしめず。年を加え復を給するも、百姓の労に償わず。或いは水旱の災、風雨の変に遇わば、庸夫は邪議し、悔ゆるも追うべからず。豈に独り臣の誠懇のみならんや。亦た輿人の論有り」と。太宗善しと称す。是に於て乃ち止む。
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貞観政要・直諫貞観六年、人有りて尚書右丞魏徴を告げ、其の親戚に阿党すと言う。太宗は御史大夫温彦博をして其の事を案験せしむ。乃ち言う者の不直なり。彦博奏して称す、徴は既に人の道(い)う所と為る。私無きに在りと雖も、亦た責むべき有り、と。遂に彦博をして徴に謂わしめて曰く、「爾は我を諫正すること数百条。豈に此の小事を以て、便ち衆美を損なわんや。今より已後、形跡を存せざるを得ず」と。数日を居(お)き、太宗徴に問いて曰く、「昨来、外に在りて、何の不是の事有るを聞くや」と。徴曰く、「前日、彦博をして勅を宣べて臣に語らしめて云う、『何に因りてか形跡を存せざる』と。此の言は大いに不是なり。臣聞く、君臣は気を同じくし、義は一体に均し、と。未だ公道を存せずして、惟だ形跡を事とするを聞かず。若し君臣上下、同じく此の路に遵(したが)わば、則ち邦国の興喪は、或いは未だ知るべからず」と。太宗矍然として容を改めて曰く、「前に此の語を発するも、尋いで已に之を悔ゆ。実に大いに不是なり。公も亦た遂に隠避を懐くを得ざれ」と。徴乃ち拝して言いて曰く、「臣は身を以て国に許す。直道にして行う。必ず敢えて欺負する所有らず。但だ願わくは陛下、臣をして良臣と為らしめよ。臣をして忠臣と為らしむる勿かれ」と。太宗曰く、「忠と良とに異なる有るか」と。徴曰く、「良臣は身をして美名を獲しめ、君は顕号を受く。子孫は世を伝え、福禄は疆り無し。忠臣は身は誅夷を受け、君は大悪に陥る。家と国と並びに喪び、独り其の名有るのみ。此を以て言えば、相い去ること遠し」と。太宗曰く、「君は但だ此の言に違う莫かれ。我は必ず社稷の計を忘れず」と。乃ち絹二百匹を賜う。
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貞観政要・直諫貞観五年、持書侍御史権万紀・侍御史李仁発、倶に告訐(こくけつ)譖毀(しんき)を以て、数(しばしば)引見を蒙る。心に任せて弾射し、其の欺罔を肆(ほしいまま)にす。上をして震怒せしめ、臣下は以て自ら安んずる無し。内外は其の不可なるを知るも、能く論諍する莫し。給事中魏徴、正色して之を奏して曰く、「権万紀・李仁発は並びに是れ小人。大体を識らず。譖毀を以て是と為し、告訐を以て直と為す。凡そ弾射する所は、皆な罪有るに非ず。陛下は其の短ずる所を掩い、其の一切を収む。乃ち其の奸計を騁(は)せ、下に附き上を罔(あざむ)き、多く無礼を行い、以て強直の名を取る。房玄齢を誣(し)い、張亮を斥退す。粛厲する所無く、徒らに聖明を損なう。道路の人、皆な謗議を興す。臣、伏して聖心を度るに、必ずしも謀慮深長にして、棟梁の任を委ぬべしと為さざらん。将に其の避忌する所無きを以て、群臣を警厲せんと欲するならん。若し回邪を信狎せば、猶お小を以て大を謀るべからず。群臣は素より矯偽無きに、空しく臣下をして離心せしむ。玄齢・亮の徒を以てすら、猶お其の枉直を伸ぶるを得ず。其の余の疏賤は、孰か能く其の欺罔を免れんや。伏して願わくは陛下、意を留めて再び思え。二人を駆使してより以来、一の弘益有らば、臣は即ち斧鉞に甘心し、不忠の罪を受けん。陛下は縦(たと)い未だ善を挙げて徳を崇くする能わずとも、豈に奸を進めて自ら損なうべけんや」と。太宗欣然として之を納れ、徴に絹五百匹を賜う。其の万紀は又た奸状漸く露わる。仁発も亦た解黜せらる。万紀は連州司馬に貶せらる。朝廷は咸な相い慶賀す。
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貞観政要・誠信太宗嘗て長孫無忌等に謂いて曰く、「朕の即位の初め、書を上る者は一に非ず。或いは言う、人主は必ず須らく威権を独り任ずべし。群下に委任するを得ず、と。或いは兵を耀かし武を振るい、四夷を懾服せんことを欲す。惟だ魏徴のみ朕に勧む、『革を偃(ふ)せて文を興し、徳を布き恵を施さば、中国既に安く、遠人自ら服せん』と。朕は此の語に従う。天下大いに寧し。絶域の君長、皆な来たりて朝貢す。九夷は重訳し、道に相い望む。凡そ此等の事は、皆な魏徴の力なり。朕の任用、豈に人を得ざらんや」と。徴拝謝して曰く、「陛下の聖徳は天より、心を政術に留む。実に庸短を以て、承受するに暇あらず。豈に聖明に益有らんや」と。
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貞観政要・任賢魏徴は、鉅鹿(きょろく)の人なり。近ごろ家を相州の内黄に徙(うつ)す。武徳の末、太子洗馬(せんば)と為る。太宗と隠太子と陰かに相い傾奪するを見て、毎に建成に勧めて早く之が謀を為さしむ。太宗既に隠太子を誅し、徴を召して之を責めて曰く、「汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや」と。衆皆な之が為に危懼す。徴、慷慨自若として、従容として対えて曰く、「皇太子若し臣の言に従わば、必ず今日の禍無からん」と。太宗之が為に容を斂(おさ)め、厚く礼異を加え、擢(ぬきん)でて諫議大夫に拝す。数々之を臥内に引き、訪うに政術を以てす。徴は雅(もと)より経国の才有り、性又た抗直にして、屈撓する所無し。太宗毎に之と言い、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦た知己の主に逢うを喜び、其の力用を竭くす。又た之を労いて曰く、「卿の諫むる所、前後二百余事、皆な朕が意に称(かな)う。卿の忠誠もて国に奉ずるに非ずんば、何ぞ能く是くの若くならんや」と。三年、累遷して秘書監となり、朝政に参預す。深謀遠算、弘益する所多し。太宗嘗て謂いて曰く、「卿の罪は鉤に中(あ)つるより重く、我の卿に任ずるは管仲に逾(こ)ゆ。近代の君臣相い得ること、寧ぞ我の卿に於けるに似たる者有らんや」と。六年、太宗九成宮に幸し、近臣を宴す。長孫無忌曰く、「王珪・魏徴は、往(さき)に息隠に事う。臣之を見ること讎(あだ)の若し。謂わざりき、今者(いま)又た此の宴を同じくせんとは」と。太宗曰く、「魏徴は往者(さき)には実に我が讎とする所なり。但だ其の心を事うる所に尽くすは、嘉するに足る者有り。朕能く擢でて之を用う。何ぞ古烈に慚じんや。徴は毎に顔を犯して切諫し、我の非を為すを許さず。我の之を重んずる所以なり」と。徴再拝して曰く、「陛下、臣を導きて言わしむ。臣の敢えて言う所以なり。若し陛下臣の言を受けずんば、臣も亦た何ぞ敢えて龍鱗を犯し、忌諱に触れんや」と。太宗大いに悦び、各々銭十五万を賜う。七年、王珪に代わりて侍中と為り、累ねて鄭国公に封ぜらる。尋いで疾を以て職とする所を辞せんことを乞い、散官と為らんことを請う。太宗曰く、「朕は卿を讎虜の中より抜き、卿に任ずるに枢要の職を以てす。朕の非を見れば、未だ嘗て諫めずんばあらず。公独り見ずや、金の鉱に在るは、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶鍛えて器と為せば、便ち人の宝とする所と為る。朕は方(まさ)に自ら金に比し、卿を以て良工と為す。疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾(しか)るを得んや」と。徴乃ち止む。後に復た固辞す。侍中を解くを聴(ゆる)し、授くるに特進を以てし、仍お門下省の事を知らしむ。十二年、太宗、皇孫の誕(う)まるるを以て、詔して公卿を宴す。帝極めて歓び、侍臣に謂いて曰く、「貞観以前、我に従いて天下を平定し、艱険に周旋するは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし、忠讜(ちゅうとう)を献納し、国を安んじ人を利し、我が今日の功業を成し、天下の称する所と為る者は、惟だ魏徴のみ。古の名臣も、何を以て加えんや」と。是に於いて親ら佩刀を解きて以て二人に賜う。庶人承乾は春宮に在りて、徳業を修めず。魏王泰は寵愛日に隆く、内外の庶寮、咸な疑議有り。太宗聞きて之を悪(にく)み、侍臣に謂いて曰く、「当今の朝臣、忠謇(ちゅうけん)は魏徴に如くは無し。我遣わして皇太子に傅たらしめ、用て天下の望みを絶たん」と。十七年、遂に太子太師を授け、門下の事を知ること故の如し。徴自ら疾有るを陳ぶ。太宗謂いて曰く、「太子は宗社の本なり。須らく師傅有るべし。故に中正を選びて、以て輔弼と為す。公の疹病を知る。臥して之を護るべし」と。徴乃ち職に就く。尋いで疾に遇う。徴の宅内には先に正堂無し。太宗時に小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟(や)めて為に造らしめ、五日にして就る。中使を遣わして賜うに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。後数日にして薨ず。太宗親ら臨みて慟哭し、司空を贈り、謚して文貞と曰う。太宗親ら為に碑文を制し、復た自ら石に書す。特に其の家に食実封九百戸を賜う。太宗後に嘗て侍臣に謂いて曰く、「夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正すべし。古を以て鏡と為せば、以て興替を知るべし。人を以て鏡と為せば、以て得失を明らかにすべし。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過ちを防ぐ。今、魏徴殂逝(そせい)し、遂に一鏡を亡えり」と。因りて泣下すること之を久しくす。乃ち詔して曰く、「昔惟だ魏徴のみ、毎に予が過ちを顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰わるる莫し。朕豈に独り往時に非有りて、皆な茲の日に是ならんや。故に亦た庶僚苟(いやしく)も順い、龍鱗に触れ難き者か。所以に己を虚しくして外に求め、迷いを披きて内に省みる。言いて用いざるは、朕の甘心する所なり。用いて言わざるは、誰の責ぞや。今より已後、各々乃(なんじ)の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠す無かれ」と。
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