貞観政要 / 直諫
貞觀十二年,太宗謂魏徵曰:「比來所行得失政化,何如往前?」對曰:「若恩威所加,遠夷朝貢,比於貞觀之始,不可等級而言。若德義潛通,民心悅服,比於貞觀之初,相去又甚遠。」太宗曰:「遠夷來服,應由德義所加。往前功業,何因益大?」徵曰:「昔者四方未定,常以德義為心,旋以海內無虞,漸加驕奢自溢。所以功業雖盛,終不如往初。」太宗又曰:「所行比往前何為異?」徵曰:「貞觀之初,恐人不言,導之使諫。三年已後,見人諫,悅而從之。一二年來,不悅人諫,雖勉強聽受,而意終不平,諒有難色。」太宗曰:「於何事如此?」對曰:「即位之初,處元律師死罪,孫伏伽諫曰:『法不至死,無容濫加酷罰。』遂賜以蘭陵公主園,直錢百萬。人或曰:『所言乃常事,而所賞太厚。』答曰:『我即位來,未有諫者,所以賞之。』此導之使言。也徐州司戶柳雄於隋資妄加階級。人有告之者,陛下令其自首,不首與罪。遂固言是實,竟不肯首。大理推得其偽,將處雄死罪,少卿戴胄奏法止合徒。陛下曰:『我已與其斷當訖,但當與死罪。』胄曰:『陛下既不然,即付臣法司。罪不合死,不可酷濫。』陛下作色遣殺,胄執之不已,至於四五,然後赦之。乃謂法司曰:『但能為我如此守法,豈畏濫有誅夷。』此則悅以從諫也。往年陜縣丞皇甫德參上書大忤聖旨,陛下以為訕謗。臣奏稱上書不激切,不能起人主意,激切即似訕謗。於時雖從臣言,賞物二十段,意甚不平,難於受諫也。」太宗曰:「誠如公言,非公無能道此者。人皆苦不自覺,公向未道時,都自謂所行不變。及見公論說,過失堪驚。公但存此心,朕終不違公語。」
新字:貞観十二年,太宗謂魏徴曰:「比来所行得失政化,何如往前?」対曰:「若恩威所加,遠夷朝貢,比於貞観之始,不可等級而言。若徳義潜通,民心悅服,比於貞観之初,相去又甚遠。」太宗曰:「遠夷来服,応由徳義所加。往前功業,何因益大?」徴曰:「昔者四方未定,常以徳義為心,旋以海內無虞,漸加驕奢自溢。所以功業雖盛,終不如往初。」太宗又曰:「所行比往前何為異?」徴曰:「貞観之初,恐人不言,導之使諫。三年已後,見人諫,悅而従之。一二年来,不悅人諫,雖勉強聴受,而意終不平,諒有難色。」太宗曰:「於何事如此?」対曰:「即位之初,処元律師死罪,孫伏伽諫曰:『法不至死,無容濫加酷罰。』遂賜以蘭陵公主園,直銭百万。人或曰:『所言乃常事,而所賞太厚。』答曰:『我即位来,未有諫者,所以賞之。』此導之使言。也徐州司戶柳雄於隋資妄加階級。人有告之者,陛下令其自首,不首与罪。遂固言是実,竟不肯首。大理推得其偽,将処雄死罪,少卿戴胄奏法止合徒。陛下曰:『我已与其断当訖,但当与死罪。』胄曰:『陛下既不然,即付臣法司。罪不合死,不可酷濫。』陛下作色遣殺,胄執之不已,至於四五,然後赦之。乃謂法司曰:『但能為我如此守法,豈畏濫有誅夷。』此則悅以従諫也。往年陜県丞皇甫徳参上書大忤聖旨,陛下以為訕謗。臣奏稱上書不激切,不能起人主意,激切即似訕謗。於時雖従臣言,賞物二十段,意甚不平,難於受諫也。」太宗曰:「誠如公言,非公無能道此者。人皆苦不自覺,公向未道時,都自謂所行不変。及見公論説,過失堪驚。公但存此心,朕終不違公語。」
書き下し
貞観十二年、太宗魏徴に謂いて曰く、「比来の行う所の得失・政化は、往前に何如」と。対えて曰く、「若し恩威の加うる所、遠夷の朝貢は、貞観の始めに比すれば、等級を以ては言うべからず。若し徳義の潜かに通じ、民心の悦服は、貞観の初めに比すれば、相い去ること又た甚だ遠し」と。太宗曰く、「遠夷来服するは、応に徳義の加うる所に由るべし。往前の功業は、何に因りてか益ます大なる」と。徴曰く、「昔者、四方未だ定まらざるとき、常に徳義を以て心と為す。旋(や)がて海内虞(うれ)い無きを以て、漸く驕奢自溢を加う。所以に功業は盛なりと雖も、終に往初に如かず」と。太宗又た曰く、「行う所は往前に比して何ぞ異なる」と。徴曰く、「貞観の初め、人の言わざるを恐れ、之を導きて諫めしむ。三年已後、人の諫むるを見れば、悦びて之に従う。一二年来、人の諫むるを悦ばず。勉強して聴受すと雖も、意は終に平らかならず、諒(まこと)に難色有り」と。太宗曰く、「何の事に於て此くの如き」と。対えて曰く、「即位の初め、元律師を死罪に処す。孫伏伽諫めて曰く、『法は死に至らず。濫りに酷罰を加うるを容(ゆる)す無かれ』と。遂に蘭陵公主の園を賜う。直(あたい)は銭百万。人或いは曰く、『言う所は乃ち常事なるに、賞する所は太(はなは)だ厚し』と。答えて曰く、『我は即位より来、未だ諫むる者有らず。賞する所以なり』と。此れ之を導きて言わしむるなり。徐州司戸柳雄は隋の資に於て妄りに階級を加う。人の之を告ぐる者有り。陛下は其れをして自首せしめ、首せずんば罪を与うとす。遂に固く是れ実なりと言い、竟に首するを肯んぜず。大理は推して其の偽を得、将に雄を死罪に処せんとす。少卿戴冑奏す、法は止だ徒に合うのみと。陛下曰く、『我は已に其れと断当し訖(お)われり。但だ当に死罪を与うべし』と。冑曰く、『陛下既に然らずんば、即ち臣が法司に付せ。罪は死に合わず。酷濫なるべからず』と。陛下色を作して殺すを遣(し)む。冑之を執りて已まざること、四五に至る。然る後に之を赦す。乃ち法司に謂いて曰く、『但だ能く我が為に此くの如く法を守らば、豈に濫りに誅夷有るを畏れんや』と。此れ則ち悦びて以て諫に従うなり。往年、陝県の丞皇甫徳参は書を上りて大いに聖旨に忤らう。陛下は以て訕謗と為す。臣奏して称す、上書は激切ならずんば、人主の意を起こす能わず。激切なれば即ち訕謗に似たりと。時に臣の言に従うと雖も、物二十段を賞す。意は甚だ平らかならず、諫を受くるに難(かた)んず」と。太宗曰く、「誠に公の言の如し。公に非ずんば能く此を道う者無し。人は皆な自ら覚らざるに苦しむ。公が未だ道わざる時に向(さき)んじては、都(すべ)て自ら行う所は変わらずと謂えり。公の論説を見るに及び、過失は驚くに堪えたり。公は但だ此の心を存せよ。朕は終に公の語に違わず」と。
現代語訳
貞観十二年、太宗が魏徴に言った。「近頃の政治の得失や教化は、以前と比べてどうか」。答えて言った。「恩と威の及ぶところ、遠方の異民族の朝貢は、貞観の初めと比べれば、等級では語れないほど良くなっています。しかし徳義がひそかに通じ、民心が悦んで服する点では、貞観の初めと比べて、はるかに劣ります」。太宗は言った。「遠方の異民族が来て服するのは、徳義が及んだからだろう。以前の功業は、どうしてますます大きくなったのか」。魏徴は言った。「昔、四方がまだ定まらなかった時は、常に徳義を心としておられました。やがて天下に憂いがなくなると、次第に驕り奢りが増しました。だから功業は盛んでも、結局は当初に及ばないのです」。太宗はまた言った。「行いは、以前と比べてどう違うのか」。魏徴は言った。「貞観の初めは、人が言わないことを恐れ、導いて諫めさせました。三年以後は、人が諫めるのを見れば、喜んで従われました。この一、二年は、人が諫めるのを喜ばれない。無理に聞き入れられても、心は平らかでなく、明らかに不快の色があります」。太宗は言った。「どういう件でそうなのか」。答えて言った。「即位のはじめ、元律師を死罪にしようとされた時、孫伏伽が『法は死罪に至りません。むやみに酷い罰を加えてはなりません』と諫めました。すると蘭陵公主の園を賜った。値は銭百万。ある者が『言ったことは平凡なのに、賞が厚すぎる』と言いました。陛下は『私は即位以来、諫める者がなかった。だから賞したのだ』と答えられました。これは導いて言わせたのです。徐州司戸の柳雄が隋の経歴を偽って位階を上げた件では、告発した者があり、陛下は自首させ、しなければ罪を与えるとされた。柳雄は事実だと言い張り、自首しませんでした。大理寺が調べて偽りを突き止め、死罪にしようとした。少卿の戴冑が、法では徒刑にとどまると奏上しました。陛下は『私はすでに処断を決めた。死罪にせよ』と言われた。戴冑は『陛下がそう仰らないなら、臣の法司にお任せください。罪は死に当たりません。酷い扱いはなりません』と言った。陛下は顔色を変えて殺せと命じられた。戴冑は四、五度も譲らず、その後ようやく赦されました。そして法司に『私のためにこう法を守ってくれるなら、むやみな誅殺を恐れることはない』と言われた。これは喜んで諫めに従われたのです。先年、陝県の丞である皇甫徳参が上書して大いに意に逆らった時、陛下は誹謗とされた。臣は、上書は激しくなければ君主の心を動かせず、激しければ誹謗に似ると申し上げました。その時、臣の言葉には従われ、絹二十段を賞されましたが、心は甚だ平らかでなく、諫めを受けるのを難しく思っておられました」。太宗は言った。「まことにあなたの言うとおりだ。あなたでなければ、こう言える者はいない。人はみな、自分では気づかないことに苦しむ。あなたが言うまで、私は自分の行いは変わっていないと思っていた。あなたの論を聞いて、過失に驚いた。あなたはこの心を持ち続けてくれ。私は決してあなたの言葉に背かない」。