十八史略 / 『十八史略』唐・太宗・房杜の協力と魏徴の良臣論
故事軍國大事中書舍人各執所見雜署其名謂之五花判事中書侍郎中書令省審之給事中黃門侍郎駮正之上謂王珪曰國家本置中書門下以相檢察卿曹勿雷同也時珪為侍中房玄齡杜如晦為僕射魏徵守祕書監參預朝政玄齡謀事必曰非如晦不能決及如晦至卒用玄齡策蓋玄齡善謀如晦善斷二人同心徇國故唐世稱賢相推房杜焉徵嘗告上曰願使臣為良臣勿使臣為忠臣上曰忠良異乎徵曰稷契皋陶君臣協心俱享尊榮所謂良臣龍逢比干面折廷爭身誅國亡所謂忠臣上悅
新字:故事軍国大事中書舎人各執所見雑署其名謂之五花判事中書侍郎中書令省審之給事中黄門侍郎駮正之上謂王珪曰国家本置中書門下以相検察卿曹勿雷同也時珪為侍中房玄齢杜如晦為僕射魏徴守秘書監参預朝政玄齢謀事必曰非如晦不能決及如晦至卒用玄齢策蓋玄齢善謀如晦善断二人同心徇国故唐世称賢相推房杜焉徴嘗告上曰願使臣為良臣勿使臣為忠臣上曰忠良異乎徴曰稷契皋陶君臣協心倶享尊栄所謂良臣竜逢比干面折廷争身誅国亡所謂忠臣上悦
書き下し
故事、軍国の大事は、中書舎人各おの見る所を執り、雑署して其の名を五花判事と謂う。中書侍郎・中書令之を省審し、給事中・黄門侍郎之を駮正す。上、王珪に謂いて曰く、国家本と中書・門下を置くは、以て相い検察せしむるなり。卿が曹、雷同する勿かれ、と。時に珪は侍中と為り、房玄齢・杜如晦は僕射と為り、魏徴は秘書監を守りて朝政に参預す。玄齢事を謀れば必ず曰く、如晦に非ざれば決する能わず、と。如晦至るに及びて、卒に玄齢の策を用う。蓋し玄齢は謀るに善く、如晦は断ずるに善し。二人心を同じくして国に徇う。故に唐世賢相を称するに、房・杜を推す。徴嘗て上に告げて曰く、願わくは臣をして良臣と為らしめ、臣をして忠臣と為らしむる勿かれ、と。上曰く、忠と良と異なるか、と。徴曰く、稷・契・皋陶は君臣心を協せ、倶に尊栄を享く。所謂良臣なり。龍逢・比干は面折廷争し、身は誅せられ国は亡ぶ。所謂忠臣なり、と。上悦ぶ。
現代語訳
慣例として、国家の重大事は、中書舎人がそれぞれ自分の考えを示して連名で署し、これを「五花判事」と呼びました。中書侍郎や中書令がこれを審査し、給事中や黄門侍郎が誤りを正します。太宗は王珪に言いました。「国家がもともと中書省と門下省を置いたのは、互いに点検させるためだ。諸君、安易に同調してはならない」。このとき王珪は侍中、房玄齢と杜如晦は僕射、魏徴は秘書監として朝政に参与していました。玄齢は事を相談するたびに「如晦でなければ決められない」と言い、如晦が来ると、結局は玄齢の策が採られました。玄齢は計画に長じ、如晦は決断に長じていたからです。二人は心を一つにして国のために尽くし、唐の世で賢相を言えば、房・杜が第一に挙げられました。魏徴はあるとき太宗に申し上げました。「どうか私を良臣にしてください。忠臣にはしないでください」。太宗は言いました。「忠と良は違うのか」。魏徴は答えました。「稷・契・皋陶は、君主と臣下が心を合わせて、ともに尊い栄えを受けました。これがいわゆる良臣です。龍逢や比干は、面と向かって主君を諫め、朝廷で争い、自分は殺され、国は亡びました。これがいわゆる忠臣です」。太宗は喜びました。
解説

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貞観政要・直諫貞観六年、人有りて尚書右丞魏徴を告げ、其の親戚に阿党すと言う。太宗は御史大夫温彦博をして其の事を案験せしむ。乃ち言う者の不直なり。彦博奏して称す、徴は既に人の道(い)う所と為る。私無きに在りと雖も、亦た責むべき有り、と。遂に彦博をして徴に謂わしめて曰く、「爾は我を諫正すること数百条。豈に此の小事を以て、便ち衆美を損なわんや。今より已後、形跡を存せざるを得ず」と。数日を居(お)き、太宗徴に問いて曰く、「昨来、外に在りて、何の不是の事有るを聞くや」と。徴曰く、「前日、彦博をして勅を宣べて臣に語らしめて云う、『何に因りてか形跡を存せざる』と。此の言は大いに不是なり。臣聞く、君臣は気を同じくし、義は一体に均し、と。未だ公道を存せずして、惟だ形跡を事とするを聞かず。若し君臣上下、同じく此の路に遵(したが)わば、則ち邦国の興喪は、或いは未だ知るべからず」と。太宗矍然として容を改めて曰く、「前に此の語を発するも、尋いで已に之を悔ゆ。実に大いに不是なり。公も亦た遂に隠避を懐くを得ざれ」と。徴乃ち拝して言いて曰く、「臣は身を以て国に許す。直道にして行う。必ず敢えて欺負する所有らず。但だ願わくは陛下、臣をして良臣と為らしめよ。臣をして忠臣と為らしむる勿かれ」と。太宗曰く、「忠と良とに異なる有るか」と。徴曰く、「良臣は身をして美名を獲しめ、君は顕号を受く。子孫は世を伝え、福禄は疆り無し。忠臣は身は誅夷を受け、君は大悪に陥る。家と国と並びに喪び、独り其の名有るのみ。此を以て言えば、相い去ること遠し」と。太宗曰く、「君は但だ此の言に違う莫かれ。我は必ず社稷の計を忘れず」と。乃ち絹二百匹を賜う。
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貞観政要・任賢杜如晦は、京兆万年の人なり。武徳の初め、秦王府兵曹参軍と為り、俄(にわ)かに陝州総管府長史に遷る。時に府中に英俊多く、外に遷さるる者衆し。太宗之を患う。記室房玄齢曰く、「府僚の去る者多しと雖も、蓋し惜しむに足らず。杜如晦は聡明識達、王佐の才なり。若し大王藩を守りて端拱せば、之を用うる所無し。必ず四方を経営せんと欲せば、此の人に非ざれば可なる莫し」と。太宗此より弥ます礼重を加え、寄するに心腹を以てす。遂に奏して府属と為し、常に帷幄に参謀せしむ。時に軍国事多く、剖断すること流るるが如し。深く時輩の服する所と為る。累ねて天策府従事中郎、兼ねて文学館学士を除せらる。隠太子の敗るるや、如晦と玄齢と功第一なり。遷りて太子右庶子に拝せらる。俄かに兵部尚書に遷り、進みて蔡国公に封ぜられ、実封一千三百戸。貞観二年、本官を以て侍中を検校す。三年、尚書右僕射に拝せられ、兼ねて吏部の選事を知る。仍お房玄齢と共に朝政を掌る。台閣の規模、典章文物に至りては、皆な二人の定むる所なり。甚だ当時の誉れを獲、時に房・杜と称せらる。
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貞観政要・任賢房玄齢は、斉州臨淄(りんし)の人なり。初め隋に仕え、隰城(しゅうじょう)の尉と為る。事に坐し、名を除かれて上郡に徙(うつ)さる。太宗地を渭北に徇(とな)うるや、玄齢は策を杖つきて軍門に謁す。太宗一たび見て、便ち旧識の如く、渭北道行軍記室参軍に署す。玄齢既に知己に遇い、遂に心力を罄竭(けいけつ)す。是の時、賊寇平らぐ毎に、衆人は競いて金宝を求む。玄齢独り先ず人物を収め、之を幕府に致す。謀臣猛将有るに及びては、之と潜かに相申結し、各々死力を致さしむ。累ねて秦王府記室、兼ねて陝東道大行台考功郎中を授かる。玄齢は秦府に在ること十余年、恒に管記を典(つかさど)る。隠太子・巣刺王は、玄齢及び杜如晦の太宗の親礼する所と為るを以て、甚だ之を悪み、之を高祖に譖(そし)る。是に由りて如晦と並びに駆斥(くせき)に遭う。隠太子将に変有らんとするに及び、太宗は玄齢・如晦を召し、道士の服を衣(き)しめ、潜かに引きて閤に入れて謀議す。事平らぐに及び、太宗春宮に入り、擢(ぬ)きて太子左庶子に拝す。貞観元年、中書令に遷る。三年、尚書左僕射に拝せられ、国史を監修し、梁国公に封ぜられ、実封一千三百戸。既に百司を総任し、虔恭(けんきょう)夙夜、心を尽くし節を竭くし、一物も所を失うを欲せず。人に善有るを聞けば、己に之れ有るが若し。吏事に明達にして、飾るに文学を以てす。法令を審定し、意は寛平に在り。備わるを求むるを以て人を取らず、己の長を以て物を格(ただ)さず。能に随いて収叙し、疎賎を隔つる無し。論者称して良相と為す。十三年、太子少師を加う。玄齢自ら一たび端揆(たんき)に居ること十有五年なるを以て、頻りに表を抗して位を辞す。優詔もて許さず。十六年、進みて司空に拝せられ、仍お朝政を総べ、旧に依りて国史を監修す。玄齢復た年老いたるを以て致仕を請う。太宗使いを遣わして謂いて曰く、「国家久しく相として任使す。一朝にして忽ち良相無くんば、両手を失うが如し。公若し筋力衰えずんば、此の譲を煩わす無かれ。自ら衰謝を知らば、当に更に奏聞すべし」と。玄齢遂に止む。太宗又た嘗て王業の艱難、佐命の匡弼(きょうひつ)を追思し、乃ち《威鳳賦》を作りて以て自ら喩え、因りて玄齢に賜う。其の称せらるること類(おおむ)ね此くの如し。
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十八史略・『十八史略』唐・玄宗・姚崇と宋璟の補い合い四年、姚崇罷め、宋璟黄門監と為る。璟、相と為りて、務めて人を択び、百官各おの其の職を得たり。好んで顔を犯して正諫し、上甚だ之を敬憚す。璟と姚崇は相継ぎて政を為す。崇は変に応ずるに善く、璟は文を守るに善し。志操同じからざるも、然れども心を協せて輔佐し、賦役は寛平、刑罰は清省にして、百姓富庶なり。唐世の賢相、前には房・杜を称し、後には姚・宋を称す。佗は得て比ぶる莫し。二人毎に進見すれば、上輒ち之が為に起つ。去れば則ち軒に臨みて之を送る。
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貞観政要・任賢魏徴は、鉅鹿(きょろく)の人なり。近ごろ家を相州の内黄に徙(うつ)す。武徳の末、太子洗馬(せんば)と為る。太宗と隠太子と陰かに相い傾奪するを見て、毎に建成に勧めて早く之が謀を為さしむ。太宗既に隠太子を誅し、徴を召して之を責めて曰く、「汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや」と。衆皆な之が為に危懼す。徴、慷慨自若として、従容として対えて曰く、「皇太子若し臣の言に従わば、必ず今日の禍無からん」と。太宗之が為に容を斂(おさ)め、厚く礼異を加え、擢(ぬきん)でて諫議大夫に拝す。数々之を臥内に引き、訪うに政術を以てす。徴は雅(もと)より経国の才有り、性又た抗直にして、屈撓する所無し。太宗毎に之と言い、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦た知己の主に逢うを喜び、其の力用を竭くす。又た之を労いて曰く、「卿の諫むる所、前後二百余事、皆な朕が意に称(かな)う。卿の忠誠もて国に奉ずるに非ずんば、何ぞ能く是くの若くならんや」と。三年、累遷して秘書監となり、朝政に参預す。深謀遠算、弘益する所多し。太宗嘗て謂いて曰く、「卿の罪は鉤に中(あ)つるより重く、我の卿に任ずるは管仲に逾(こ)ゆ。近代の君臣相い得ること、寧ぞ我の卿に於けるに似たる者有らんや」と。六年、太宗九成宮に幸し、近臣を宴す。長孫無忌曰く、「王珪・魏徴は、往(さき)に息隠に事う。臣之を見ること讎(あだ)の若し。謂わざりき、今者(いま)又た此の宴を同じくせんとは」と。太宗曰く、「魏徴は往者(さき)には実に我が讎とする所なり。但だ其の心を事うる所に尽くすは、嘉するに足る者有り。朕能く擢でて之を用う。何ぞ古烈に慚じんや。徴は毎に顔を犯して切諫し、我の非を為すを許さず。我の之を重んずる所以なり」と。徴再拝して曰く、「陛下、臣を導きて言わしむ。臣の敢えて言う所以なり。若し陛下臣の言を受けずんば、臣も亦た何ぞ敢えて龍鱗を犯し、忌諱に触れんや」と。太宗大いに悦び、各々銭十五万を賜う。七年、王珪に代わりて侍中と為り、累ねて鄭国公に封ぜらる。尋いで疾を以て職とする所を辞せんことを乞い、散官と為らんことを請う。太宗曰く、「朕は卿を讎虜の中より抜き、卿に任ずるに枢要の職を以てす。朕の非を見れば、未だ嘗て諫めずんばあらず。公独り見ずや、金の鉱に在るは、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶鍛えて器と為せば、便ち人の宝とする所と為る。朕は方(まさ)に自ら金に比し、卿を以て良工と為す。疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾(しか)るを得んや」と。徴乃ち止む。後に復た固辞す。侍中を解くを聴(ゆる)し、授くるに特進を以てし、仍お門下省の事を知らしむ。十二年、太宗、皇孫の誕(う)まるるを以て、詔して公卿を宴す。帝極めて歓び、侍臣に謂いて曰く、「貞観以前、我に従いて天下を平定し、艱険に周旋するは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし、忠讜(ちゅうとう)を献納し、国を安んじ人を利し、我が今日の功業を成し、天下の称する所と為る者は、惟だ魏徴のみ。古の名臣も、何を以て加えんや」と。是に於いて親ら佩刀を解きて以て二人に賜う。庶人承乾は春宮に在りて、徳業を修めず。魏王泰は寵愛日に隆く、内外の庶寮、咸な疑議有り。太宗聞きて之を悪(にく)み、侍臣に謂いて曰く、「当今の朝臣、忠謇(ちゅうけん)は魏徴に如くは無し。我遣わして皇太子に傅たらしめ、用て天下の望みを絶たん」と。十七年、遂に太子太師を授け、門下の事を知ること故の如し。徴自ら疾有るを陳ぶ。太宗謂いて曰く、「太子は宗社の本なり。須らく師傅有るべし。故に中正を選びて、以て輔弼と為す。公の疹病を知る。臥して之を護るべし」と。徴乃ち職に就く。尋いで疾に遇う。徴の宅内には先に正堂無し。太宗時に小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟(や)めて為に造らしめ、五日にして就る。中使を遣わして賜うに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。後数日にして薨ず。太宗親ら臨みて慟哭し、司空を贈り、謚して文貞と曰う。太宗親ら為に碑文を制し、復た自ら石に書す。特に其の家に食実封九百戸を賜う。太宗後に嘗て侍臣に謂いて曰く、「夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正すべし。古を以て鏡と為せば、以て興替を知るべし。人を以て鏡と為せば、以て得失を明らかにすべし。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過ちを防ぐ。今、魏徴殂逝(そせい)し、遂に一鏡を亡えり」と。因りて泣下すること之を久しくす。乃ち詔して曰く、「昔惟だ魏徴のみ、毎に予が過ちを顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰わるる莫し。朕豈に独り往時に非有りて、皆な茲の日に是ならんや。故に亦た庶僚苟(いやしく)も順い、龍鱗に触れ難き者か。所以に己を虚しくして外に求め、迷いを披きて内に省みる。言いて用いざるは、朕の甘心する所なり。用いて言わざるは、誰の責ぞや。今より已後、各々乃(なんじ)の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠す無かれ」と。
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貞観政要・直諫貞観八年、左僕射房玄齢・右僕射高士廉、路に於て少府監竇徳素に逢い、北門に近来更に何をか営造すると問う。徳素以て聞(もう)す。太宗乃ち玄齢に謂いて曰く、「君は但だ南衙の事を知れ。我が北門に少しく営造有るは、何ぞ君が事に預(あずか)らんや」と。玄齢等拝謝す。魏徴進みて曰く、「臣は陛下の責むるを解せず。亦た玄齢・士廉の拝謝するを解せず。玄齢は既に大臣に任ず。即ち陛下の股肱耳目なり。営造する所有らば、何ぞ知らざるを容(ゆる)さんや。其の官司に訪問するを責むるは、臣の解せざる所なり。且つ為す所には利害有り、役工には多少有り。陛下の為す所善ならば、当に陛下を助けて之を成すべし。為す所是ならずんば、営造すと雖も、当に陛下に奏して之を罷むべし。此れ乃ち君の臣を使い、臣の君に事(つか)うるの道なり。玄齢等の問うは既に罪無し。而るに陛下之を責む。臣の解せざる所なり。玄齢等は守る所を識らず、但だ拝謝するを知る。臣も亦た解せず」と。太宗深く之を愧ず。