十八史略 / 『十八史略』漢・叔孫通・礼を整えて皇帝の貴きを知る
帝懲秦苛法為簡易群臣飲酒爭功醉或妄呼拔劍擊柱叔孫通說上曰儒者難與進取可與守成願徵魯諸生共起朝儀上從之魯有兩生不肯行曰禮樂積德而後可興也通與所徵及上左右與弟子百餘人為縣蕝野外習之七年長樂宮成諸侯群臣皆朝賀謁者治禮引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀莫不振恐肅敬禮畢置法酒御史執法舉不如儀者輒引去竟朝罷酒無敢讙譁失禮者上曰吾乃今日知為皇帝之貴也拜通為太常
新字:帝懲秦苛法為簡易群臣飲酒争功酔或妄呼抜剣撃柱叔孫通説上曰儒者難与進取可与守成願徴魯諸生共起朝儀上従之魯有両生不肯行曰礼楽積徳而後可興也通与所徴及上左右与弟子百余人為県蕝野外習之七年長楽宮成諸侯群臣皆朝賀謁者治礼引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀莫不振恐粛敬礼畢置法酒御史執法舉不如儀者輒引去竟朝罷酒無敢讙譁失礼者上曰吾乃今日知為皇帝之貴也拝通為太常
書き下し
帝、秦の苛法を懲り、簡易を為す。群臣、酒を飲みて功を争い、酔いて或いは妄りに呼び、剣を抜きて柱を撃つ。叔孫通、上に説きて曰く、儒者は与に進み取り難きも、与に成を守るべし。願わくは魯の諸生を徴して、共に朝儀を起こさん、と。上、之に従う。魯に両生有り、行くを肯んぜず、曰く、礼楽は徳を積みて而る後に興すべきなり、と。通、徴する所と上の左右と弟子百余人と与に、為に蕝を縣げて野外に之を習う。七年、長楽宮成り、諸侯・群臣皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王より以下、吏六百石に至るまで、次を以て賀を奉ず。振恐し肅敬せざる莫し。礼畢わりて、法酒を置く。御史、法を執り、儀の如くならざる者を挙げ、輒ち引き去る。朝を竟り酒を罷むるまで、敢えて讙譁し礼を失う者無し。上曰く、吾乃ち今日、皇帝の貴きを知れり、と。通を拝して太常と為す。
現代語訳
高祖は秦の厳しい法に懲りて、手続きや規則を簡素にしました。すると群臣は酒を飲んで手柄を争い、酔って大声を出したり、剣を抜いて柱を打ったりするようになりました。叔孫通は高祖に進言しました。「儒者は、先頭に立って攻め取るには向きませんが、成し遂げたものを守るのには役立ちます。どうか魯の学者たちを召して、一緒に朝廷の儀礼を作らせてください」。高祖はこれに従いました。魯には二人の学者がいて、行くことを承知せず、「礼楽は徳を積んだのちに興すものです」と言いました。叔孫通は、召した学者たちと高祖の側近と自分の弟子など百人余りで、縄を張り茅を立てて野外で儀礼を稽古しました。七年、長楽宮が完成し、諸侯や群臣がみな朝賀に参内しました。謁者が儀礼を取り仕切り、諸侯王から六百石の役人まで順に祝賀を捧げ、みな畏れ慎んで敬意を表さない者はいませんでした。儀式が終わって酒宴となっても、御史が法を執り、作法に外れた者がいればすぐに連れ出しました。朝賀が終わり酒宴を終えるまで、騒ぎ立てたり礼を失ったりする者はいませんでした。高祖は言いました。「私は今日になって、はじめて皇帝の貴さを知った」。そして叔孫通を太常に任じました。
解説

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史記 劉敬叔孫通列伝遂に徵す所の三十人と西し、及び上の左右の學を為す者と其の弟子百餘人と、綿蕞(めんぜつ)を野外に為す。之を習ふこと月餘、叔孫通曰く、「上試みに觀るべし」と。上既に觀て、禮を行はしめて曰く、「吾能く此を為さん」と。乃ち群臣をして習肄せしめ、十月に會す。漢の七年、長樂宮成り、諸侯群臣皆十月に朝す。儀は、平明に先だち、謁者禮を治め、引きて次を以て殿門に入らしむ。廷中には車騎步卒を陳ねて宮を衛らしめ、兵を設け旗志を張る。傳へて「趨れ」と言ふ。殿下には郎中陛を俠み、陛ごとに數百人。功臣・列侯・諸將軍・軍吏は次を以て西方に陳なりて東鄉し、文官は丞相以下東方に陳なりて西鄉す。大行九賓を設け、臚傳す。是に於いて皇帝輦にて房を出づ。百官職を執りて警を傳へ、諸侯王以下吏六百石に至るまでを引きて次を以て賀を奉ぜしむ。諸侯王より以下、振恐して肅敬せざる莫し。禮畢はるに至りて、復た法酒を置く。諸々の殿上に侍坐する者、皆伏して首を抑へ、尊卑の次を以て起ちて壽を上る。觴九たび行き、謁者「酒を罷めよ」と言ふ。御史法を執り、儀の如くならざる者を舉げて輒ち引き去る。朝を竟へて酒を置くに、敢へて讙譁して禮を失ふ者無し。是に於いて高帝曰く、「吾乃ち今日皇帝為るの貴きを知れり」と。乃ち叔孫通を拜して太常と為し、金五百斤を賜ふ。叔孫通因りて進みて曰く、「諸弟子儒生、臣に隨ふこと久し。臣と共に儀を為す。願はくは陛下之を官とせよ」と。高帝悉く以て郎と為す。叔孫通出でて、皆五百斤の金を以て諸生に賜ふ。諸生乃ち皆喜びて曰く、「叔孫生は誠に聖人なり。當世の要務を知る」と。漢の九年、高帝叔孫通を徙して太子太傅と為す。漢の十二年、高祖趙王如意を以て太子に易へんと欲す。叔孫通上を諫めて曰く、「昔者晉の獻公、驪姬の故を以て太子を廢し、奚齊を立つ。晉國亂るること數十年、天下の笑ひと為る。
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史記 劉敬叔孫通列伝漢の五年、已に天下を并す。諸侯共に漢王を定陶に尊びて皇帝と為す。叔孫通其の儀號を就す。高帝悉く秦の苛なる儀法を去りて、簡易と為す。群臣酒を飲みて功を爭ひ、醉ひて或いは妄りに呼び、劍を拔きて柱を擊つ。高帝之を患ふ。叔孫通、上の益々之を厭ふを知るや、上に說きて曰く、「夫れ儒者は與に進取し難きも、與に守成すべし。臣願はくは魯の諸生を徵し、臣の弟子と共に朝儀を起こさん」と。高帝曰く、「難きこと無きを得んや」と。叔孫通曰く、「五帝は樂を異にし、三王は禮を同じくせず。禮なる者は、時世人情に因りて之が節文を為す者なり。故に夏・殷・周の禮の因りて損益する所知るべき者は、相復せざるを謂ふなり。臣願はくは頗る古禮と秦儀とを采りて之を雜へ就さん」と。上曰く、「試みに之を為すべし。知り易からしめ、吾が能く行ふ所を度りて之を為せ」と。
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史記 劉敬叔孫通列伝是に於いて叔孫通使ひして魯の諸生三十餘人を徵す。魯に兩生の行くを肯ぜざる有り。曰く、「公の事ふる所の者且に十主ならんとす。皆面諛して以て親貴を得たり。今天下初めて定まり、死者未だ葬られず、傷者未だ起たず。又禮樂を起こさんと欲す。禮樂の由りて起こる所は、德を積むこと百年にして而る後に興すべきなり。吾公の為す所を為すに忍びず。公の為す所は古に合はず。吾行かず。公往け。我を汙すこと無かれ」と。叔孫通笑ひて曰く、「若は真に鄙儒なり。時の變を知らず」と。
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史記 劉敬叔孫通列伝秦は蚤く扶蘇を定めざるを以て、趙高をして詐りて胡亥を立つるを得しめ、自ら祀を滅ぼさしむ。此れ陛下の親しく見る所なり。今太子は仁孝にして、天下皆之を聞く。呂后は陛下と苦を攻め啖(たん)を食らふ。其れ背くべけんや。陛下必ず適を廢して少を立てんと欲せば、臣願はくは先づ誅に伏し、頸血を以て地を汙さん」と。高帝曰く、「公罷めよ。吾直だ戲るるのみ」と。叔孫通曰く、「太子は天下の本なり。本一たび搖らげば天下振動す。柰何ぞ天下を以て戲と為さん」と。高帝曰く、「吾公の言を聽かん」と。上酒を置くに及び、留侯の招く所の客の太子に從ひて入り見ゆるを見て、上乃ち遂に太子を易ふるの志無し。高帝崩じ、孝惠位に即く。乃ち叔孫生に謂ひて曰く、「先帝の園陵寢廟、群臣習ふ莫し」と。徙して太常と為し、宗廟の儀法を定めしむ。稍く漢の諸儀法を定むるに及び、皆叔孫生の太常為りて論箸する所なり。孝惠帝東のかた長樂宮に朝するを為し、及び閒に往くに、數々蹕(ひつ)して人を煩はす。乃ち複道を作り、方に武庫の南に筑く。叔孫生事を奏し、因りて閒を請ひて曰く、「陛下何ぞ自ら複道を高寢に筑きたまふ。衣冠月ごとに出でて高廟に游ぶ。高廟は漢の太祖なり。柰何ぞ後世の子孫をして宗廟の道の上に乘りて行かしめん」と。孝惠帝大いに懼れて曰く、「急ぎ之を壞て」と。叔孫生曰く、「人主に過舉無し。今已に作り、百姓皆之を知る。今此を壞たば、則ち過舉有るを示す。願はくは陛下、原廟を渭北に為り、衣冠月ごとに出でて之に游ばしめよ。益々宗廟を廣め多くするは、大孝の本なり」と。上乃ち有司に詔して原廟を立てしむ。原廟の起こるは、複道の故を以てなり。孝惠帝曾て春に離宮に出游す。叔孫生曰く、「古は春に果を嘗むる有り。方今櫻桃孰す。獻ずべし。願はくは陛下出でて、因りて櫻桃を取りて宗廟に獻ぜよ」と。上乃ち之を許す。諸果の獻は此に由りて興る。
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史記 礼書秦の天下を有つに至りて、悉く六国の礼儀を内れ、其の善を采択す、聖制に合はずと雖も、其の君を尊び臣を抑へ、朝廷済済たるは、古より以来に依る。高祖に至りて、光に四海を有ち、叔孫通頗る増益減損する所有れども、大抵皆秦の故を襲ふ。天子の称号より下は佐僚及び宮室官名に至るまで、変改する所少なし。孝文即位し、有司議して儀礼を定めんと欲す、孝文は道家の学を好み、以為へらく繁礼飾貌は治に益無し、躬化するは謂何ぞやと、故に之を罷め去る。孝景の時、御史大夫晁錯は世務刑名に明らかにして、数々孝景に干諫して曰く、「諸侯藩輔は、臣子と一例なるは、古今の制なり。今大国は専ら治めて政を異にし、京師に稟けず、恐らくは後に伝ふべからず」と。孝景其の計を用ひて、六国畔逆し、錯を以て首名と為す、天子錯を誅して以て難を解く。事は袁盎の語中に在り。是の後官者は交はりを養ひ禄に安んずるのみ、敢へて復た議する莫し。今上即位し、儒術の士を招致し、共に儀を定めしむるも、十余年就らず。或ひと言ふ、古者太平にして、万民和喜し、瑞応辨く至り、乃ち風俗を采りて、制作を定むと。上之を聞き、御史に制詔して曰く、「蓋し命を受けて王たるは、各々由りて興る所有り、路を殊にして帰を同じくす、民に因りて作り、俗を追ひて制を為すを謂ふなり。議者咸太古を称す、百姓何をか望まん。漢も亦一家の事なり、典法伝はらずんば、子孫を謂何せん。化の隆なる者は閎博、治の浅き者は褊狭、勉めざるべけんや」と。乃ち太初の元を以て正朔を改め、服色を易へ、太山を封じ、宗廟百官の儀を定め、以て典常と為し、之を後に垂ると云ふ。礼は人より起こる。人生まれて欲有り、欲して得ざれば則ち忿り無き能はず、忿りて度量無ければ則ち争ひ、争へば則ち乱る。
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『長短経』卑政故に叔孫通礼を起こさんと欲す。漢の高帝曰く「難きこと無きを得んか」と。対えて曰く「夫れ礼なる者は、時世人情に因りて之が節文を為す者なり」と。張釈之、便宜の事を言う。文帝曰く「之を卑くせよ。甚だしき高論無く、今施行すべからしめよ」と。是に由りて之を言えば、夫れ理むる者の、時俗の務めに因らずして奇異を貴ぶは、是れ餓者に百日以て粱肉を待たしめ、人に金玉を仮して以て溺子を救うの説なり。