十八史略 / 『十八史略』周・文王・文王の徳と太公望の登用
西伯脩德諸侯歸之虞芮爭田不能決乃如周入界見畊者皆遜畔民俗皆讓長二人慙相謂曰吾所爭周人所恥乃不見西伯而還俱讓其田不取漢南歸西伯者四十國皆以為受命之君三分天下有其二有呂尚者東海上人窮困年老漁釣至周西伯將獵卜之曰非龍非彲非熊非羆非虎非貔所獲霸王之輔果遇呂尚於渭水之陽與語大悅曰自吾先君太公曰當有聖人適周周因以興子真是耶吾太公望子久矣故號之曰太公望載與俱歸立為師
新字:西伯脩徳諸侯帰之虞芮争田不能決乃如周入界見畊者皆遜畔民俗皆譲長二人慚相謂曰吾所争周人所恥乃不見西伯而還倶譲其田不取漢南帰西伯者四十国皆以為受命之君三分天下有其二有呂尚者東海上人窮困年老漁釣至周西伯将猟卜之曰非竜非彲非熊非羆非虎非貔所獲覇王之輔果遇呂尚於渭水之陽与語大悦曰自吾先君太公曰当有聖人適周周因以興子真是耶吾太公望子久矣故号之曰太公望載与倶帰立為師
書き下し
西伯、徳を脩め、諸侯之に帰す。虞・芮、田を争いて決すること能わず。乃ち周に如き、界に入りて耕す者の皆な畔を遜るを見、民俗の皆な長を譲るを見る。二人慙じて相謂いて曰く、「吾が争う所は、周人の恥ずる所なり」と。乃ち西伯を見ずして還り、倶に其の田を譲りて取らず。漢南の西伯に帰する者、四十国。皆な以て命を受くるの君と為す。天下を三分して其の二を有つ。呂尚なる者有り、東海の上の人なり。窮困し年老い、漁釣して周に至る。西伯将に猟せんとし、之を卜して曰く、「龍に非ず、彲に非ず、熊に非ず、羆に非ず、虎に非ず、貔に非ず。獲る所は覇王の輔ならん」と。果たして呂尚に渭水の陽に遇い、与に語りて大いに悦びて曰く、「吾が先君太公より曰く、『当に聖人有りて周に適くべし。周因りて以て興らん』と。子は真に是れか。吾が太公、子を望むこと久し」と。故に之を号して太公望と曰い、載せて与に倶に帰り、立てて師と為す。
現代語訳
西伯が徳を修めると、諸侯が従ってきました。虞と芮の二国が田地を争って決着がつかず、周を訪ねました。その国境に入ると、耕す人々は皆あぜ道を譲り合い、民の習俗は皆年長者を譲っていました。二人は恥じ入って互いに言いました。「私たちが争っていることは、周の人々が恥とすることだ」。そこで西伯に会わずに引き返し、ともに争った田を譲り合って取りませんでした。漢水の南で西伯に帰順する者は四十国にのぼり、皆が西伯こそ天命を受けた君主だと考えました。天下を三つに分けた、その二つを西伯が得たのです。呂尚という人がいました。東海のほとりの人で、困窮し年老いて、魚釣りをしながら周に来ていました。西伯が狩りに出ようとして占うと、「獲物は龍でも彲でも熊でも羆でも虎でも貔でもない。得るのは覇王を補佐する人物だ」と出ました。はたして渭水の北岸で呂尚に出会い、語り合って大いに喜び、言いました。「わが先君の太公が、『聖人が現れて周に来る。周はその人によって興るだろう』と言っていた。あなたこそその人ではないか。わが太公があなたを待ち望んで久しい」。そこで彼を太公望と呼び、車に乗せて一緒に帰り、師としました。
解説

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