実武一家言抄録 / 鹿島沖の異国船
(三)西洋諸國の夷人等日本の古猛將の遺烈を畏れて手を出す事能はずと雖も、然共時々出沒して不斷に皇國の樣子を窺ふ趣に視ゆる事にて底氣味の惡き事にぞ在りける、近來每年三月十日頃には常陸國の鹿島沖に西洋船必ず來て鯨を獵し油を搾る事を業とす、土地の漁船其近邊に近寄れば甚此を尊敬し、硝子器哆羅絨等を與へ是を親み懷ん事を欲す、此夷人等何れの國人は知らずと雖も、其內心計るべからず、文政九丙戌の夏予釣子江に遊びし時に友人に誘はれて彼蠻船を觀に行たり、銚子の長崎と云所より望遠鏡を用て是を觀れば、頗る廣大の黑船にて猩紅色の旗等錺立て、其美成事花の如く、甚近々と見得たり、大概陸より六七里も隔りたるべし、或日此黑船二艘銚江の邊に來りし事有て、土人は入津するかとて大騷せし事有り、然共入津もせずして、復舊の沖に歸れり、此船每年八月下旬には皆去て行方を知らずと云、今に每年時に違へず來る事故に、今にては土人も馴て疑ふ者も無に至れり、然れども此等の船も捨置べきにあらざるべし、
新字:(三)西洋諸国の夷人等日本の古猛将の遺烈を畏れて手を出す事能はずと雖も、然共時々出没して不断に皇国の様子を窺ふ趣に視ゆる事にて底気味の悪き事にぞ在りける、近来毎年三月十日頃には常陸国の鹿島沖に西洋船必ず来て鯨を猟し油を搾る事を業とす、土地の漁船其近辺に近寄れば甚此を尊敬し、硝子器哆羅絨等を与へ是を親み懐ん事を欲す、此夷人等何れの国人は知らずと雖も、其内心計るべからず、文政九丙戌の夏予釣子江に遊びし時に友人に誘はれて彼蠻船を観に行たり、銚子の長崎と云所より望遠鏡を用て是を観れば、頗る広大の黒船にて猩紅色の旗等錺立て、其美成事花の如く、甚近々と見得たり、大概陸より六七里も隔りたるべし、或日此黒船二艘銚江の辺に来りし事有て、土人は入津するかとて大騷せし事有り、然共入津もせずして、復旧の沖に帰れり、此船毎年八月下旬には皆去て行方を知らずと云、今に毎年時に違へず来る事故に、今にては土人も馴て疑ふ者も無に至れり、然れども此等の船も捨置べきにあらざるべし、
書き下し
(三)西洋諸國の夷人等日本の古猛將の遺烈を畏れて手を出す事能はずと雖も、然共時々出沒して不斷に皇國の樣子を窺ふ趣に視ゆる事にて底氣味の惡き事にぞ在りける、近來每年三月十日頃には常陸國の鹿島沖に西洋船必ず來て鯨を獵し油を搾る事を業とす、土地の漁船其近邊に近寄れば甚此を尊敬し、硝子器哆羅絨等を與へ是を親み懷ん事を欲す、此夷人等何れの國人は知らずと雖も、其內心計るべからず、文政九丙戌の夏予釣子江に遊びし時に友人に誘はれて彼蠻船を觀に行たり、銚子の長崎と云所より望遠鏡を用て是を觀れば、頗る廣大の黑船にて猩紅色の旗等錺立て、其美成事花の如く、甚近々と見得たり、大概陸より六七里も隔りたるべし、或日此黑船二艘銚江の邊に來りし事有て、土人は入津するかとて大騷せし事有り、然共入津もせずして、復舊の沖に歸れり、此船每年八月下旬には皆去て行方を知らずと云、今に每年時に違へず來る事故に、今にては土人も馴て疑ふ者も無に至れり、然れども此等の船も捨置べきにあらざるべし、
現代語訳
(三)西洋諸国の外国人らが、日本の古い猛将の遺した威烈を恐れて手を出すことができないとはいえ、しかし時折出没して、絶えず日本の様子をうかがうように見えることは、薄気味悪いことであった。近年、毎年三月十日ごろには、常陸国の鹿島沖に西洋船が必ず来て、鯨を獲って油を搾ることを業としている。土地の漁船がその近くに寄れば、たいへん尊敬し、ガラス器や羅紗などを与えて、親しみ懐かせようとする。この外国人らがどこの国の人かは知らないが、その内心は計り知れない。文政九年丙戌の夏、私が銚子に遊んだとき、友人に誘われてその外国船を見に行った。銚子の長崎という所から望遠鏡でこれを見ると、たいへん広大な黒船で、猩紅色の旗などを飾り立て、その美しさは花のようで、非常にすぐ近くに見えた。おおよそ陸から六、七里は隔たっているだろう。ある日、この黒船が二艘、銚子江の辺に来たことがあって、土地の人は入港するのかと大騒ぎしたが、入港もせず、また元の沖に帰っていった。この船は毎年八月下旬にはみな去って行方が知れないという。今も毎年時を違えず来るので、今では土地の人も慣れて疑う者もいなくなった。しかしこれらの船も、放っておいてよいものではないだろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『実武一家言抄録』・水寨と護国の策以後來寇を爲すものは年々次第に多くなるべきは必定の事也、然れば防海の備を怠るは優々しき後の大患を招くべし、故に異國の船の來る每に嚴しく是を打攘て、益々日本の武威を示し、以て夷狄の魂魄を奪ふは、護國第一の良策なるべし、故に予彼賊を取の武備を工夫して玆に其用意を論ず、凡海國の津港には必ず水寨を建て水軍を調練すべし、調練熟習せざれば以て用を爲すべからざるなり、總て天地間の事勢、其力の餘りある者は嫌に人を倒し、其力の足らざる者は恆に人に制せらる、故に護國の最も嚴重なるは、恆に他國を攻伐を以て自國の護りとするより嚴重なるはなし、予が云、此書に論ずる所は只是自國を護るの事のみ、若夫他國を攻伐する法を知らん事を欲せば、予が先年著したる混同秘策四卷あり、今の時代に當ては予が此一家言すら能く用る者有事なし、是永く一家言たる所以也、況や混同秘策に於てをや、豐臣大閤已に死す、嗚呼已ぬる哉、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・制度の見直しと許容の限度を考える御深意有之儀とは恐察し侍れ共、貳百餘年の御恩澤にて、三家、御普代大名は勿論、外樣迄も異議有之間敷、たとへ萬々一心得違の者有たり共、此方大名の船位を御防ぎ不相成程にては、とても異船千萬艘押來りたるをば、如何にして防禦し給ふべきや、されば公邊は格別、三家共初は本船の分數を以定りて成りとも製造をゆるし給ひ、常ゝは其領主自分船の事故(三家は本船三十艘位其外大名右に順て夫ゝ御濟を可然、小舟之儀は數の定りなくて可然)公邊御船の外、御失費も無是、非常の節は大小名に命じ給はゞ、直に御用に立べき也、其上公邊にも大名にも戰艦なきは、双方有之も同樣にて、萬々一只今にも心得違の人有之浦賀より乘込むとする日に至ては、やはり是迄の船にても乘込べし、大名を御氣遣ひの爲海防迄麁にし、船の製造御免無之、遺憾といふべし、異國船の患薄き時は兎もあれ、近頃の勢にては右船の制度變通し給はずんばあるべからず、くれ〱も堅事は船双方に無之双方有之と同樣にて、大名へ掛念し給ふ所にも當らずして、唯異國船防禦御手薄にのみ當れるは國家の長策にあらず、何分にも明君の明斷を奉仰所也、扨又近頃紅毛本國より便船差こせしより、戰爭の仕組と見へざれば、定て難題申上たるべけれど、一切許容し給はざるにしかざるべし、先年打拂の御止め命令有し時、本異國渡來の患みへきよし乍不及建白せしが、如案日本國武勇衰へたるを見拔て來りし事と見へたり、(打拂止めてより漂流人お前にて受ず又浦賀にて受ず)たとへ此の度も來り種々願出るとも、
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『実武一家言抄録』・日本の地勢と外圧(一)我日本の國たるや、支那の東南海中に在て、西は京都の偏西十度餘りなる琉球の入表島より起りて東は京都の偏東十六度程なる蝦夷の厄獨渡布島に至り、南は赤道下を北に距ると廿五度に當れる琉球の宮古島より起て、五十度程なる蝦夷の葛隸弗多島の中央に至る、東西廿六度南北廿五度の海中に盤踞し、山水香麗、氣候溫和、土地極て膏腴にして、物產甚だ豐饒なり、四邊皆海に濱するを以、其漕運の便利なる事天下に比すべきの國なし、誠に世界無双の富饒地也、是を以中古は蒙古の世祖忽必烈なる者混同の志を起し、其後に波爾杜尾爾の波天連等種々奸計を行ひ、近來は魯西亞諳厄利亞等の□□も又皆晴に併呑の念を懷きて、不斷に罅隙を窺ふ事既に年久敷事也、海邊諸國は警めずんばあるべからず、
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『実武一家言抄録』・外寇なき実拠と倭寇(二)右に說たる如く、海外の□□皆我日本の豐饒なるを羨みて併呑せんと欲る者多し、然共是迄數百年來絶て外寇といふ者無りし事は何の故ぞと考るに大に實據の有事なり、其實據とは古し神功皇后親く兵を將ひて大海を渡り、高麗新羅百濟任那等を征伐し玉ひて、悉く其酋を降し、日本の屬國と爲し、威名一時西土を震動す、其後四五百年の間、朝鮮は皇國の屬地にして、時々叛く者有每に兵を出して是を討ち、三韓の間に勇戰せし事幾度といふ事を知らず、其後後宇多天皇の弘安年中に、蒙古の世祖忽必烈既に南宋を滅して支那を一統し、連勝の勢に乘じて皇國をも取らん事を欲して、十餘萬の精兵を以て西海道に寇せしが、九州の武士に打破られて全軍悉く沒し、死せずして逃歸る者僅に三人也き、其後伊豫國の住人久留島野島因島の鄕士等、各其一族を集め徒黨を相結び年々船を海外に出し、外國を劫妨して財物賃品を奪取、以て各自の家を富し、是を以て産業として海賊を働きし事多年の事也、
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『実武一家言抄録』・露英の膨張と弱みを見せる害(四)魯西亞國は、我享保元文の頃次第に東方を經略し、止白亞の地を取盡して葛謨撒都加に大港を開き、此港より船軍を出して鳩刻里斯吉亞の諸島を取、我蝦夷の辣苴哇島に至り、東は亞列烏多斯吉亞の諸島を取、北亞墨利加州の角利句里尼亞國の北境より亞尼俺峽の邊迄を經畧せり、其地本國の都伯多路勃爾孤の城を距事啻に萬里のみに非ず、又諳厄利亞國は兵威頻りに强くして他國を切取し事極て多く、近來南海諸島を經略し、日本の正南千二百里許隔りたる大國を取本國より數萬の軍兵を移して是を新諳厄利亞國と名づけ、所々に城郭を築き守令を置て土人を敎化歸服せしめ、此國を以て基根として近隣の諸島を經略し、國土を切取事次第に廣くし、今の世に當て世界の事體は右の如く吞併の倉の强國多きを以、油斷して萬一弱身を見せ、彼等に日本の武威も最早衰弱せりと思はるゝに至ては、其評判忽ち世界中に流聞して、
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『海国兵談抄録』・自序・ロシアの動きと文武両全の勧め竊に憶へば、若くは此以後の清主、無內患の時に乘じ、且つ元の古業を思合せて、如何なる無主義を起す間じきにもあらず、其時に至ては、貪欲を本とすれば、日本の仁政にも不可懐、又兵馬億萬の多きを恃めば、日本の武威にも不可畏、是明迄の唐山と、同じからざるわけ也、又近頃歐羅巴の莫斯哥未亞、其勢ひ無雙にして、遠く韃靼の北地を侵掠し、此ごろは室韋の地方を略して、東の限り加模西葛杜加(即カムサスカ也蝦夷の東北に在)迄、押領したり、然ルに加模西葛杜加より東には此上取べき國土なし、此故に又西に顧みて蝦夷國の東なる千島を手に入るべき機しありと聞及べり、既に明和辛卯の年、莫哥斯未亞より加模西葛杜加え遣し置る豪傑、バロンマオリッツ、アラアダルハン、ベンゴロウといふ者、加模西葛杜加より船を發して、日本え押渡り、港々え下繩して、其の深サを計りながら、日本を過半乘廻したる事あり、就中、土佐の國に於ては、日本國に在合、阿蘭陀人えと認し書を遺置たることもある也、是等の事、其心根可憎可恐、是海國なるがゆへに、來る間敷船も乘る人の機轉次第にて、心易く來らるゝなりと察すべし、さて海國のわけと唐山の時勢とを辨じ得たる上に、又一ッの心得あり、其心得といふは偏武に不陷して、文武兩全なるべき事を欲し願ふべし、偏武なれば野也、無智也、元より兵者凶器也、然れども死生存亡の係る所にして、國の大事是に過るものはなきゆへ、野にして無智なる偏武の輩に任せ難き事也、此故に日本の古代は都には鼓吹司と淳和、獎學の兩院を置、國々には軍團と鄕學とを置て、皆文武を敎られたり、又孔子も文武兩全の意を述て、

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