艮斎閑話抄録 / 元寇と朝鮮の役に見る日本の武勇
神武天皇神聖英武を以海內を統壹し、億載の鴻基を建玉ひしより、日本武尊勇武を以東夷を平盪し、武內大臣精兵を提げ三韓を征討し、威稜百蠻に震ひ、外國より侵すとあたはず、唯蒙古の忽必烈吾使節を通ぜざるを憤どほり、范文虎を大將として十萬の兵を率ひ吾西陲を寇せしなり、忽必烈は一代の英主にて強悍の金源を滅し、跋扈の西夏を破り、遂に南宋を取て天下を一統す、其強大知べし、故に吾國を海心孤懸の小島なんど、輕侮し、其目中に六十餘州はなき物なりと、驕誇の心にて南宋を取し破竹の勢に乘じ、數百艘の軍艦鵬雲の起る如く攻來りしが、一敗地に塗し、十萬兵皆海底の魚腹に葬る、歸る者僅に三人なり、吾國武勇の盛りなるかくの如し、此時北條時宗鎌倉に在て指揮皆宜を得、西州の將士力戰して強敵を破りしは、吾邦萬世の名譽なり、太閤秀吉の朝鮮を征する、碧蹄館の戰ひに、小早川隆景、毛利秀包、立花宗茂は三四萬の兵にて明の李如松の二十萬の兵と格闘し、秋風の落葉を掃ふ如く猛虎の群羊を驅が如く、明兵大敗して死者四萬餘人、李如松も井上某に殆生獲せられんとす、
新字:神武天皇神聖英武を以海内を統壱し、億載の鴻基を建玉ひしより、日本武尊勇武を以東夷を平盪し、武内大臣精兵を提げ三韓を征討し、威稜百蠻に震ひ、外国より侵すとあたはず、唯蒙古の忽必烈吾使節を通ぜざるを憤どほり、范文虎を大将として十万の兵を率ひ吾西陲を寇せしなり、忽必烈は一代の英主にて強悍の金源を滅し、跋扈の西夏を破り、遂に南宋を取て天下を一統す、其強大知べし、故に吾国を海心孤懸の小島なんど、軽侮し、其目中に六十余州はなき物なりと、驕誇の心にて南宋を取し破竹の勢に乗じ、数百艘の軍艦鵬雲の起る如く攻来りしが、一敗地に塗し、十万兵皆海底の魚腹に葬る、帰る者僅に三人なり、吾国武勇の盛りなるかくの如し、此時北条時宗鎌倉に在て指揮皆宜を得、西州の将士力戦して強敵を破りしは、吾邦万世の名誉なり、太閤秀吉の朝鮮を征する、碧蹄館の戦ひに、小早川隆景、毛利秀包、立花宗茂は三四万の兵にて明の李如松の二十万の兵と格闘し、秋風の落葉を掃ふ如く猛虎の群羊を駆が如く、明兵大敗して死者四万余人、李如松も井上某に殆生獲せられんとす、
書き下し
神武天皇神聖英武を以海內を統壹し、億載の鴻基を建玉ひしより、日本武尊勇武を以東夷を平盪し、武內大臣精兵を提げ三韓を征討し、威稜百蠻に震ひ、外國より侵すとあたはず、唯蒙古の忽必烈吾使節を通ぜざるを憤どほり、范文虎を大將として十萬の兵を率ひ吾西陲を寇せしなり、忽必烈は一代の英主にて強悍の金源を滅し、跋扈の西夏を破り、遂に南宋を取て天下を一統す、其強大知べし、故に吾國を海心孤懸の小島なんど、輕侮し、其目中に六十餘州はなき物なりと、驕誇の心にて南宋を取し破竹の勢に乘じ、數百艘の軍艦鵬雲の起る如く攻來りしが、一敗地に塗し、十萬兵皆海底の魚腹に葬る、歸る者僅に三人なり、吾國武勇の盛りなるかくの如し、此時北條時宗鎌倉に在て指揮皆宜を得、西州の將士力戰して強敵を破りしは、吾邦萬世の名譽なり、太閤秀吉の朝鮮を征する、碧蹄館の戰ひに、小早川隆景、毛利秀包、立花宗茂は三四萬の兵にて明の李如松の二十萬の兵と格闘し、秋風の落葉を掃ふ如く猛虎の群羊を驅が如く、明兵大敗して死者四萬餘人、李如松も井上某に殆生獲せられんとす、
現代語訳
神武天皇が神聖で英武にして国内を統一し、末永い大きな基礎を築かれて以来、日本武尊は武勇によって東の異民族を平らげ、武内大臣は精兵を率いて三韓を征討し、その威光は多くの異民族に震い、外国から侵されることはありませんでした。ただ、蒙古の忽必烈(フビライ)が、我が国が使節を通じないことを憤り、范文虎を大将として十万の兵を率いて我が西の辺境を侵したことがありました。忽必烈は一代の英主で、強悍な金を滅ぼし、跋扈する西夏を破り、ついに南宋を取って天下を統一しました。その強大さは知るべきです。そのため、我が国を海に孤立した小島などと軽んじ侮り、目の中には六十余州はないものと考え、おごり誇る心で、南宋を取った破竹の勢いに乗り、数百艘の軍艦が大鵬の雲のように攻め寄せてきましたが、一度の敗北で地に塗れ、十万の兵はみな海底の魚の腹に葬られ、帰ったのはわずか三人でした。我が国の武勇の盛んなことはこのようです。このとき北条時宗は鎌倉にあって、指揮はすべて適切で、西国の将兵が力戦して強敵を破ったことは、わが国の永遠の名誉です。太閤秀吉が朝鮮を征討したとき、碧蹄館の戦いで、小早川隆景、毛利秀包、立花宗茂は三、四万の兵で明の李如松の二十万の兵と格闘し、秋風が落ち葉を掃うように、猛虎が羊の群れを追うようにして、明兵は大敗して死者は四万余人にのぼり、李如松も井上某にもう少しで生け捕りにされるところでした。
解説
この章句が説くこと
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・油断と備えの教訓を元寇と朝鮮の例から読む其後人皇八十九代龜山院御宇、文永年中鎌倉將軍七代目惟京、執事時宗代、蒙古國北狄起て中華を治め元と號す、日本を從へんと、度々書翰を贈り使を立てけれども、日本にて不請、是に依て日本の武勇試に、兵船千艘渡し、九州の內を亂妨すれども、はか〱しき一戰もなく、矢種盡し故、千艘の船無事に歸帆して、日本の武威聞しよりも患也とて、建治四年(元本の儘に認るといへども弘安四年の誤りなるべし)に蒙古兵船六萬艘渡し、平戶五龍山へ着岸す、然るに八月朔日大風吹て蒙古の船こと〲く海中に吹流し、生殘る兵をば八方に散す、是偏に元の世祖弓箭に取ほこりたる故也、文永の千艘の船を手痛く當らざるは日本弓箭のおくれ也、是を手痛當ては建治の兵船は渡海せまじきぞ、右の大風は頼にならざるぞ、然る時は良將を撰み九州に置て手痛く當てよ、尤萬里の海上一帆に來る間油斷する事なかれ、乘ての覺悟第一ぞ、仔細は身に灸をすると、又飛火の心得にて、油斷と油斷せざるとはよろづ心得少々もあらば、木曾判官を釜山浦に置き日本勢を押へさせば、朝鮮進發むなしと有べけれ共、朝鮮數年治平にて、武勇悉く取失ひ、柔弱美麗なりし故、何の仔細なく攻亡されたり、秀吉彼の柔弱成事を內に聞て、弓矢に取ほこつての事なり、總て用心は太平の時成ぞ、寸善尺魔とて、異國太平成時は日本より攻か、日本治平なる時は異國より攻か、平家太平成時は源氏より攻め、源氏太平なれば平家より攻るぞ、譬へば隣家の焼るに我家の用心せざるは愚なりとの上意也、同上意に、日本國共に武道の捨らざる事、我が朝の本意なり、其故は日本太平にして武道怠る時は異國より日本を窺へ、又異國太平にして武道怠る時は韃靼日本より大唐を伺ぞ、彼の秀吉朝鮮の軍も是也、然ば日本武將は此心得第一也、
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『艮斎閑話抄録』・外国との戦いに見る覚悟と士気李如松は名將李成梁の子にて、北邊にては屢戰功を顯はし、一世の名將と稱せられたる者なれども、吾國の勇武に敵し難く、一戰大敗僅に身を以て免かれ、數萬の精兵を失なひ、神氣沮喪し徹夜痛哭し、疾と稱し代りを請、亟に遁去、吾國武勇の盛りなるかくの如し、尤此時吾將士は百戰鍊磨の餘なれども、一體日出の國東方精華の氣の萃まる所、人物雄毅英武忠直の風、所謂大和魂なる者は、萬古變ずるとなく、國內の戰爭とは違ひ、外國との戰ひなれば見苦しく敗走して六十餘州總體の恥辱となるを深く恥て、皆身命を棄、英名を身後に留めんと覺悟せしなり、此時の戰ひに小早川隆景は我渡海するより吾國に還る心なし、明兵と戰ふて屍を戰塲に曝は老年の幸なりと云り、立花宗茂も前夜に兵士に向ふて、明日は十死一生の戰ひと思ひ定めたり、皆も其心得あるべしと云り、かく必死を極めて戰ひしは、外國との戰ひは日本國の榮辱に關係すればなり、雄毅英武忠直の風は吾國の美俗にて、萬古不磨の士氣なれば、益ゝ鼓舞振勵して、武備を精練し、邦家を守るべきなり、
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『実武一家言抄録』・外寇なき実拠と倭寇(二)右に說たる如く、海外の□□皆我日本の豐饒なるを羨みて併呑せんと欲る者多し、然共是迄數百年來絶て外寇といふ者無りし事は何の故ぞと考るに大に實據の有事なり、其實據とは古し神功皇后親く兵を將ひて大海を渡り、高麗新羅百濟任那等を征伐し玉ひて、悉く其酋を降し、日本の屬國と爲し、威名一時西土を震動す、其後四五百年の間、朝鮮は皇國の屬地にして、時々叛く者有每に兵を出して是を討ち、三韓の間に勇戰せし事幾度といふ事を知らず、其後後宇多天皇の弘安年中に、蒙古の世祖忽必烈既に南宋を滅して支那を一統し、連勝の勢に乘じて皇國をも取らん事を欲して、十餘萬の精兵を以て西海道に寇せしが、九州の武士に打破られて全軍悉く沒し、死せずして逃歸る者僅に三人也き、其後伊豫國の住人久留島野島因島の鄕士等、各其一族を集め徒黨を相結び年々船を海外に出し、外國を劫妨して財物賃品を奪取、以て各自の家を富し、是を以て産業として海賊を働きし事多年の事也、
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『尚武論』・太平に慣れて武を忘れる危うさ天下の命をして、独り一人に制せしむ。諸を祖宗の世に致すも、亦猶ほ姓を更め物を改むるがごときなり、云云。吁、封建の政、郡県と為り、国体変ぜり。古は聖王の世、民は戎政に藉り、柄は常に上に在り。故に四方に事有れば、則ち天子親征す。中世に迨び、文辞を弄ぶに至れば、則ち干戈を観ること敵属のごとく、一に之を武臣に委ね、自ら視ること尊大、武臣を卑しみて奴隷と為す。上下隔遠し、文武日に離離たり。武国の実安くに在らんや。是を以て朝廷自づから衰へて武臣興り、国勢も亦変ず。我が邦は武の在る所、則ち勢の存する所なり。武有る者は盛んに、武無き者は衰ふ。帝大友は文なり、竟に天武の武に克つこと能はず。平家は文なり、終に源氏の武に勝つ能はず。南朝は文なり、卒に足利の武に克つ能はず。夫れ新田・楠は武臣なり。躬ら南朝に属すれば、則ち志を得ること克はざるは、勢の自然のみ。或ひと曰く、尊氏の西奔するや、義貞追ひて之を撃たず、殆ど事機を誤れり。楠、奏言して報いられず、憤激して早く歿す。南朝の振はざる所以なり、と。余謂へらく、義貞・正成、知勇有りと雖も、悪くんぞ天の助くる所に勝たんや。天の助くる所は、智も測る能はず、勇も奪ふ能はざるのみ。天の助くる所は、即ち武に在り。神代、諾冊の二神、瓊矛もて天下を定むるも、歴世の久しきに、天下復た乱る。神武天皇、一旦にして之を戡定す。所謂一治一乱是れなり。爾後も亦朝廷文弱、足利氏の季に臻りて、衰乱極まれり。神君龍興するに迨び、其の用ふる所熊羆の士に非ざる莫く、遂に天下を克服して、天下一に帰し、海内安寧、以て今日に至る。亦盛んならずや。是れ則ち天地神明の祐くる所なり。神武天皇の後、亘ること数千載、皇統繁衍し、継続して絶えず。乃ち我が神君の如きも、亦其の種胤にして、奕葉蔓衍して天下に充つ。武徳の盛んなること、実に前古に度越す。神明の祐くる所、以て知るべし。乃ち知る、武威は皇統と並び立つこと幾百万歳、天地と悠久なること、固より占卜を俟たざるなり。唯だ恐る、大平の久しきに、人逸楽に就き、驕奢に流れ、義を忘れ利を求め、実を去りて虚を務め、誠を喪ひて詐を懐き、懋を離れて便に随ひ、其の極み武徳を失ふに至らんことを。今、世上の俗を察するに、僧徒極めて衆くして武士少なく、商賈常に盛んにして農民減じ、游民自づから多くして工職耗す。国自づから貧乏を取る。
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『実武一家言抄録』・武威の評判と秀吉の功西は大明國の山東江南福建廣東廣西より、南は安南廣南古城東玻塞暹羅等の諸國及呂宋澈泥諸島に至る迄、皆此海賊に困まざるはなし、外國の書に倭寇と稱して畏れたる者は即此海賊の事也、其後文祿元年より豐臣關白秀吉公朝鮮國を征伐して其國王を追出し、大明國の大軍と戰ひ數々是を打破り、其威を世界に轟かせり、其後慶長十四年に肥前國島原の城主有馬修理太夫晴信、亞馬港船を燒打して波爾杜瓦爾國の人數四五百を長崎の西海に燒沈たり、此頃薩摩の國主島津修理太夫義久水軍を出し、南海の諸島を經略し次第に南征して琉球國を攻打終に其王を降し、琉球を薩摩の屬國とせり、二百年以前迄の日本の武威は萬國の震ひ恐れたる事也、元來其時代の人は何れも軍事に考練し極て血戰に勇猛なりしを以て、西洋諸國の夷人等も皆其評判を傳へ聞て今に其餘威を畏れ敢て手を出す事能はざる也、是に由て是を觀れば秀吉公の朝鮮を征伐有しは日本總國に於て無窮の大功たる事を知る、盛んなる哉、
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『艮斎閑話抄録』・武家は武家の風を守る昔し漢と匈奴と和親を結び、衣服飮食の類を贈りしに、匈奴の臣衞律其主に勸め、中國の衣服飮食は華靡に過ぎて匈奴の物に及ばざるを國人に示し、夷狄勇悍の風を守しは遠識ありと謂べし、契丹の阿保機は五代の亂に乘じ、屢中國に亂入し勢盛なり、唐の明宗の時、姚坤を使に遣せしとき、阿保機云、吾れ漢語を能すれども士卒に向てこれを言はず、漢人に倣て怯弱になるを恐ると、是も卓見なり、蒙古は此理に通ぜざるゆへ既に中國を一統せし後は中國の風俗と成り、浮華を喜び舊俗の勇悍を失ひしゆへ八九十年にて亡ぶ、今の淸朝も北狄より起り中國の主となる、然るに唐山一統に韃靼の剃頭辮髮の俗に盡く變じ、中國華奢輕薄の風を學ばざるゆへ、國勢の強き版圖の廣き千古に超軼す、これは北魏蒙古の弊に懲り、夷狄を以て華夏を變ぜしは雄偉非常の遠謀と謂べし、(趙の武靈王の群臣の說を排し胡服騎射せしも、是と同じ、)衣冠文物の類は禮文の末なり、國勢を強くし紀綱を正ふし風俗敦樸ならば、衣冠文物は質野にても何の害あらんや、虛文を慕ふて國勢を柔弱にするは甚だ不可なり、吾邦鎌倉將軍以來天下の大勢一變せり、武家は武家の風俗を守り、英武忠貞を主とすべし、然るに武家の衣冠官名の典雅ならざるを嫌ひ、制度を變ぜんと思ふ者は、大なる心得違にて、王安石が新法と同かるべし、

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