明訓一班抄抄録 / 夷狄を近付べからざる事・油断と備えの教訓を元寇と朝鮮の例から読む
其後人皇八十九代龜山院御宇、文永年中鎌倉將軍七代目惟京、執事時宗代、蒙古國北狄起て中華を治め元と號す、日本を從へんと、度々書翰を贈り使を立てけれども、日本にて不請、是に依て日本の武勇試に、兵船千艘渡し、九州の內を亂妨すれども、はか〱しき一戰もなく、矢種盡し故、千艘の船無事に歸帆して、日本の武威聞しよりも患也とて、建治四年(元本の儘に認るといへども弘安四年の誤りなるべし)に蒙古兵船六萬艘渡し、平戶五龍山へ着岸す、然るに八月朔日大風吹て蒙古の船こと〲く海中に吹流し、生殘る兵をば八方に散す、是偏に元の世祖弓箭に取ほこりたる故也、文永の千艘の船を手痛く當らざるは日本弓箭のおくれ也、是を手痛當ては建治の兵船は渡海せまじきぞ、右の大風は頼にならざるぞ、然る時は良將を撰み九州に置て手痛く當てよ、尤萬里の海上一帆に來る間油斷する事なかれ、乘ての覺悟第一ぞ、仔細は身に灸をすると、又飛火の心得にて、油斷と油斷せざるとはよろづ心得少々もあらば、木曾判官を釜山浦に置き日本勢を押へさせば、朝鮮進發むなしと有べけれ共、朝鮮數年治平にて、武勇悉く取失ひ、柔弱美麗なりし故、何の仔細なく攻亡されたり、秀吉彼の柔弱成事を內に聞て、弓矢に取ほこつての事なり、總て用心は太平の時成ぞ、寸善尺魔とて、異國太平成時は日本より攻か、日本治平なる時は異國より攻か、平家太平成時は源氏より攻め、源氏太平なれば平家より攻るぞ、譬へば隣家の焼るに我家の用心せざるは愚なりとの上意也、同上意に、日本國共に武道の捨らざる事、我が朝の本意なり、其故は日本太平にして武道怠る時は異國より日本を窺へ、又異國太平にして武道怠る時は韃靼日本より大唐を伺ぞ、彼の秀吉朝鮮の軍も是也、然ば日本武將は此心得第一也、
新字:其後人皇八十九代亀山院御宇、文永年中鎌倉将軍七代目惟京、執事時宗代、蒙古国北狄起て中華を治め元と号す、日本を従へんと、度々書翰を贈り使を立てけれども、日本にて不請、是に依て日本の武勇試に、兵船千艘渡し、九州の内を乱妨すれども、はか〱しき一戦もなく、矢種尽し故、千艘の船無事に帰帆して、日本の武威聞しよりも患也とて、建治四年(元本の儘に認るといへども弘安四年の誤りなるべし)に蒙古兵船六万艘渡し、平戸五竜山へ着岸す、然るに八月朔日大風吹て蒙古の船こと〲く海中に吹流し、生残る兵をば八方に散す、是偏に元の世祖弓箭に取ほこりたる故也、文永の千艘の船を手痛く当らざるは日本弓箭のおくれ也、是を手痛当ては建治の兵船は渡海せまじきぞ、右の大風は頼にならざるぞ、然る時は良将を撰み九州に置て手痛く当てよ、尤万里の海上一帆に来る間油断する事なかれ、乗ての覚悟第一ぞ、仔細は身に灸をすると、又飛火の心得にて、油断と油断せざるとはよろづ心得少々もあらば、木曽判官を釜山浦に置き日本勢を押へさせば、朝鮮進発むなしと有べけれ共、朝鮮数年治平にて、武勇悉く取失ひ、柔弱美麗なりし故、何の仔細なく攻亡されたり、秀吉彼の柔弱成事を内に聞て、弓矢に取ほこつての事なり、総て用心は太平の時成ぞ、寸善尺魔とて、異国太平成時は日本より攻か、日本治平なる時は異国より攻か、平家太平成時は源氏より攻め、源氏太平なれば平家より攻るぞ、譬へば隣家の焼るに我家の用心せざるは愚なりとの上意也、同上意に、日本国共に武道の捨らざる事、我が朝の本意なり、其故は日本太平にして武道怠る時は異国より日本を窺へ、又異国太平にして武道怠る時は韃靼日本より大唐を伺ぞ、彼の秀吉朝鮮の軍も是也、然ば日本武将は此心得第一也、
書き下し
其後人皇八十九代龜山院御宇、文永年中鎌倉將軍七代目惟京、執事時宗代、蒙古國北狄起て中華を治め元と號す、日本を從へんと、度々書翰を贈り使を立てけれども、日本にて不請、是に依て日本の武勇試に、兵船千艘渡し、九州の內を亂妨すれども、はか〱しき一戰もなく、矢種盡し故、千艘の船無事に歸帆して、日本の武威聞しよりも患也とて、建治四年(元本の儘に認るといへども弘安四年の誤りなるべし)に蒙古兵船六萬艘渡し、平戶五龍山へ着岸す、然るに八月朔日大風吹て蒙古の船こと〲く海中に吹流し、生殘る兵をば八方に散す、是偏に元の世祖弓箭に取ほこりたる故也、文永の千艘の船を手痛く當らざるは日本弓箭のおくれ也、是を手痛當ては建治の兵船は渡海せまじきぞ、右の大風は頼にならざるぞ、然る時は良將を撰み九州に置て手痛く當てよ、尤萬里の海上一帆に來る間油斷する事なかれ、乘ての覺悟第一ぞ、仔細は身に灸をすると、又飛火の心得にて、油斷と油斷せざるとはよろづ心得少々もあらば、木曾判官を釜山浦に置き日本勢を押へさせば、朝鮮進發むなしと有べけれ共、朝鮮數年治平にて、武勇悉く取失ひ、柔弱美麗なりし故、何の仔細なく攻亡されたり、秀吉彼の柔弱成事を內に聞て、弓矢に取ほこつての事なり、總て用心は太平の時成ぞ、寸善尺魔とて、異國太平成時は日本より攻か、日本治平なる時は異國より攻か、平家太平成時は源氏より攻め、源氏太平なれば平家より攻るぞ、譬へば隣家の焼るに我家の用心せざるは愚なりとの上意也、同上意に、日本國共に武道の捨らざる事、我が朝の本意なり、其故は日本太平にして武道怠る時は異國より日本を窺へ、又異國太平にして武道怠る時は韃靼日本より大唐を伺ぞ、彼の秀吉朝鮮の軍も是也、然ば日本武將は此心得第一也、
現代語訳
その後、人皇八十九代亀山院の御代、文永年中、鎌倉将軍七代目の惟京、執事時宗の代に、蒙古国という北狄が起こって中華を治め、元と号しました。日本を従えようと、たびたび書翰を贈り使者を立てましたが、日本では受け入れませんでした。そこで日本の武勇を試そうと、兵船千艘を渡し、九州の内を乱妨しましたが、はかばかしい一戦もなく、矢種が尽きたため、千艘の船は無事に帰帆し、日本の武威は聞いていたよりも患うほどでもないと、建治四年(元の本のままに記すが、弘安四年の誤りであろう)に蒙古の兵船六万艘が渡り、平戸の五竜山へ着岸しました。ところが八月朔日に大風が吹いて蒙古の船はことごとく海中に吹き流され、生き残った兵は八方に散りました。これはひとえに元の世祖が弓箭に誇ったためである。文永の千艘の船に手痛く当たらなかったのは、日本の弓箭が遅れたのである。これに手痛く当たっていれば、建治の兵船は渡海しなかったであろう。右の大風は頼りにならない。そうであれば、良将を選んで九州に置き、手痛く当たらせよ。もっとも、万里の海上を一帆で来る間、油断してはならない。乗って(渡ってくる)覚悟が第一である。その理由は、身に灸をすえるのと飛び火の心得で、油断と油断しないことは、すべての心得に少しでもあれば、木曽判官(義仲)を釜山浦に置いて日本勢を押さえさせれば、朝鮮への進発は空しくなったであろうが、朝鮮は数年治平で、武勇をことごとく取り失い、柔弱美麗であったため、何の仔細もなく攻め滅ぼされた。秀吉がその柔弱であることを内々に聞き、弓矢に誇ってのことである。すべて用心は太平の時にするものだ。寸善尺魔といって、異国が太平のときは日本から攻めるか、日本が治平のときは異国から攻めるか。平家が太平のときは源氏から攻め、源氏が太平であれば平家から攻める。たとえば、隣家が焼けるのに自分の家の用心をしないのは愚かである、との上意である。同じく上意に、日本国とも武道を捨てないことが、わが朝の本意である。その理由は、日本が太平で武道を怠るときは異国から日本を窺い、また異国が太平で武道を怠るときは韃靼が日本から大唐を窺うのである。あの秀吉の朝鮮の戦もこれである。そうであれば、日本の武将はこの心得が第一である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『艮斎閑話抄録』・元寇と朝鮮の役に見る日本の武勇神武天皇神聖英武を以海內を統壹し、億載の鴻基を建玉ひしより、日本武尊勇武を以東夷を平盪し、武內大臣精兵を提げ三韓を征討し、威稜百蠻に震ひ、外國より侵すとあたはず、唯蒙古の忽必烈吾使節を通ぜざるを憤どほり、范文虎を大將として十萬の兵を率ひ吾西陲を寇せしなり、忽必烈は一代の英主にて強悍の金源を滅し、跋扈の西夏を破り、遂に南宋を取て天下を一統す、其強大知べし、故に吾國を海心孤懸の小島なんど、輕侮し、其目中に六十餘州はなき物なりと、驕誇の心にて南宋を取し破竹の勢に乘じ、數百艘の軍艦鵬雲の起る如く攻來りしが、一敗地に塗し、十萬兵皆海底の魚腹に葬る、歸る者僅に三人なり、吾國武勇の盛りなるかくの如し、此時北條時宗鎌倉に在て指揮皆宜を得、西州の將士力戰して強敵を破りしは、吾邦萬世の名譽なり、太閤秀吉の朝鮮を征する、碧蹄館の戰ひに、小早川隆景、毛利秀包、立花宗茂は三四萬の兵にて明の李如松の二十萬の兵と格闘し、秋風の落葉を掃ふ如く猛虎の群羊を驅が如く、明兵大敗して死者四萬餘人、李如松も井上某に殆生獲せられんとす、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・木刀をさす武士と外への備えの先手東照宮上意に、武家は武道を忘れざるが能ぞ、仔細は、太平なりとて、武家公家の如くに成て柔弱美麗を好むは、たとへば眞劔は用なしとて木刀をさすに似たり、又將軍を始め國主領主勇を好み軍法を不用は木刀を使ふに刀をさすに同じ、武道を好まずして柔弱を事とするは木刀に木小刀をさすに同じ、如斯の武士は、大身程味方にして災と成り、敵にして味方に大利あり、又小身たりとも武道の達人は、敵にして慢られず、味方にして頼みあり、少人數にて大高の先手に用ひてもおしからず、大勢なりとて武道不案內の大將を先手に用る事なかれ、先手の大軍の崩れかゝりたるが味方の禍と成ば、自然の事有る時は先手を能ゝ詮議せよ、昔し異國より日本を攻んとはかる時は、武內大臣九州に有て夷國を押へられたるも、是則劔の利をかたどりての事なり、劔は切先のかねを第一に吟味するぞ、仔細は、切先は先早く逢て或は切り或は突き肝要の處なり、此故に日本の大先手に、神代には住吉大明神、人代に武內大臣を置れたるぞ、今以此心を失ふべからず、右にも云ひ聞せるが如く、異國亂るゝと聞ば、九州に能武將を撰み、異國を押させよ、日本中の軍は勝負ともに其一家ばかりの盛衰ぞ、和漢のあらそひは、負たる時は日本國の恥、勝てば日本の譽れぞ、異國の取あひ程大事なることなし、若し異國亂れば此心得にて押へを撰び給へといふとぞ、文永弘安に異國人渡りしも、日本數代治平の事を元の世祖聞、蒙古武勇に誇りての事ぞ、文錄の朝鮮征伐の事も、朝鮮數代治平成る故柔弱にして武道の事を忘れしと、秀吉武勇に誇られての事ぞ、然るに武道不案內のものは太平には武道を取失ひ彼の木刀を用ゆるに似たり、木刀も形は刀に似たれども眞の用には立ず、武道不案內の武士は形は武士にして用は百姓町人に劣れり、此故に武家武道に達するを家職を知るといふ、天下の大寶也、云々、」
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『明訓一班抄抄録』・奢侈を禁ずべき事・非常に備え、姑息を避ける決断非常の節に臨み、御用を缺間敷策有べからず、惶多も三代將軍有德公は不及申、其他三親藩にて尾州の源敬、紀州の源南、祖宗の威儀を初、諸大名何れも名將の聞えたる者は、皆常々儉約して武備を勵し家中に空く祿を食む者なき樣にせしなり、遊女出家の遊民の外、君に祿を給る家中祿を空しくする事有べからず、非常の事あらんには、其家中には國主領主に附從ひ、國主領主は我先にと幕府の御用に立樣、常々心掛、幕府にては常々御旗本に武備を勵し給ふて、國主領主を賴みに不思召樣、双方折合時は、夷船何程渡來るとも、又は萬々一國持大名に異變有之とも、更に恐るゝに不足事なり、右樣武備の手當調たる上は人々相應の美はくるしくも有之間敷なれども、儉約を守り一生取かゝりてさへ行屆兼候はん、たとへば十分手當出來し上は十一分にも十二分にも手厚き樣心掛べき事故、いつとても奢りてよきと言時は有之間敷、且日本中の事と違ひ、異國より渡來の戰爭はいつ何時有之も難計、出火と戰爭は前日より分りたる事は有まじ、公邊を初奉り、三親藩は勿論、諸大名とも、生るゝより死る迄、我皇國の道を本とし、佛法の異端邪道を退け、常々異國船來りたり共手筈不違樣申合せ置、兼て覺悟第一たるべし、異端の道を惡きとは知ながら、苟安姑息して近付る事なかれ、苟安姑息と言事は見通しなきと不決斷より出る事にて黑白の見拔なき故なり、黑白の見拔なき時は、たとへ賢明有者の正論を聞一度尤と思ひ、又愚闇不當の邪論を聞ても成程と惑ひ、兩方の説を取用ひて黑ともならず白ともならずと言如く、中を取て中庸と思ひ誤る事の少なからず、是を色に譬れば鼠色の所を用ゆるにひとし、鼠色は白くは一切なる事なし、黑く成によりて姑息を用る人惡き方に成行、此理とくれ〱も非常の卓見をもて永世までも無用の奢を禁じ、文道武道を勵みぬるぞ、人君の急務なるべし、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・一度の妥協が続く難題を生むと考える萬一姑息の御沙汰にて、其中一ケ條たりとも許容し給はゞ、其尾に取つき年々歳々難題申上、其中には御許容成がたくしてこれをこばみ給はゞ、是機會に乘じて戰爭を起し、彼が十分の欲をとげんとの企なるべければ、一切當路の有司少しも臆せずして、日本の武勇を示し度事也、兵法にも我領分へ入て不案內なる中に打結ぶ如き奸人あるも測りがたければ、以前のごとく見懸次第無二念打拂べきむね號令し給ふ事、國家の上策にて、たとへ打拂ひて、其節一戰有りとも、其後になり、度々來し上案內をも詳にし、又內通の者等出來て、邪宗門をも自分行れ、彼へ付添奸人多く成たる上にて、戰爭起りなば、天下の大變なるべし、昔は兎も角も○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○皆一つ穴の狐と見通し、無二念打拂ひぬる事、肝要なるべし、只今にて千万歳萬國に孤立して武勇を奮ひたる神妙、德川家の御代に至り、塵芥ばかりも蠻夷へ贈り物等有之樣成行ては、決て不相濟事なれば、篤と心を用ひ給ふべき事なり、凡制度法令のたぐひに、萬世動すべからざるものと、又時勢によりて變通すべきものあり、武勇を尊び夷狄を近付くべからざるは、神代より大道にて、しかも三代將軍御始精々戒め給ふ所にて、萬世の大法なり、荷船の外大船を禁じ給ふたぐひは、時によつて定め給ふ事にて、後世の變通を得處也、然るに今の有司一時の法令をば堅くとりて動さず、萬世の大法をも手易く動して、異船の打拂を止め給ふなど、如何にも齊昭が苦心する所也、何卒本文東照宮大猷公の尊意能く〱御服膺あらまほしき御事也、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・九州の守りを担う者と役割の意味づけ大猷公甲斐庄喜左衛門長崎奉行被仰付時日本の內にては御當家御亡び他へ天下を取ても是は御一分の御恥ばかりなり、異國へ日本の地一寸たりとも遺しては日本の恥なり、左候得ば大切の事なる事ぞ、隨分油斷仕るまじき山仰也、土井利勝が家老早川彌五左衛門物語りに、利勝道春に尋けるが、近年黑田鍋島に異國の押を被仰付るなり、加古も箇樣なる事度々是有事歟と申され候へば、道春申けるは公方樣は(大猷公也)名譽不例の明君にてましますと恐れながら奉存候、上代にも九州の押は代々御座候、異國に押と申は、人皇十五代神功皇后三韓御退治なされ、大矢田宿禰を朝軍として新羅に留置、三韓の下知をさせ給ふ、武內を九州に留置れ異國を押させ給ふ、筑後の高良大明神とて是なり、然れども異國の押故、十月此神は出雲に至り給ずとて、筑後にては十月を神月と言よし語りければ、利勝申は、扨〱公方樣は神功皇后にて、黑田鍋島は高良大明神にて候、目出度御事と申されける時、道春御尤の儀に候、むかし神功皇后の御宇、吳の孫權弓矢にほこり、日本へ大軍を渡す、武內九州に在故、日本へ着岸せず歸帆す、是日本の譽也、文永に渡る蒙古の船無事にて歸帆は日本の恥也、仔細は、千艘の船無事にて歸帆せし故、重て建治に大兵渡りたり、然れども日本運強くあるや、八月朔日大風吹て、蒙古の船悉く海中へ沈たりけれども、重ての事は有ても、大風は頼みにならずと相考吟味の由、去程に文永建治にも文王の矢を渡せしも、秀吉の朝鮮進發も同じ事也、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・主の立場が広がるほど用心の範囲も広がる同上意に、人は大小上下共に用心をなすこと第一也、仔細は、予岡崎一城の主たりし時は近所に用心せしぞ、三州の主たる時は近國に用心せしぞ、關八州の主たる時は東海東山北陸三道の治亂を考へしぞ、今更日本の主と成ては諸異國の治亂を聞するぞ、仔細は、異國亂るゝに日本治りたりとて油斷するは、東山義政の茶の湯、大內義隆が學問、今川氏眞の歌道ぞとは、諸異國も治平なれば日本の政道迄なり、若し異國亂とも聞ば、其時に當て能武將を撰び九州に置、異國を押へさすべし、旣に上古神功皇后異國を退治の後、九州に中國との筑後の國に武內大臣を差置れ異國を押へさせ給ふ、是異國の王孫權(齊昭案ずるに、孫權の神明を改んとせし事、後日も林道春の物語あれば、東照宮は道春より聞給ひしなるべけれども、何の書にはへたる事かや、いまだ其書を見ずとなん、上意一に的當の御事故舊記の儘に記すなり)日本を攻むとて數萬人をわたす、しかれども神功皇后三韓退治の後武內大臣九州に居り政道明白高大成る事を聞し、日本の兵と戰ふとも勝利なからんと軍勢竊にかたりしとぞ、異國の兵船半より歸帆す、偏に武內筑紫に有故也、此大臣人皇十二代景行天皇より十七代仁德天皇迄六代の政務二百四十四年棟梁の臣なり、誠に目出度大臣、片時も大內を離れべき大臣ならざれども如此也、尤日本大臣の始にて、歲三百六十にして死なれたり、筑後國高良大明神是也

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