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神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇

世の中みだれ立にし。次の年癸酉の春、忍て御船にたてまつりて、隠岐をいでゝ伯耆につかせ給。其国に源長年と云者あり。御方にまゐりて船上と云山寺にかりの宮をたてゝぞすませたてまつりける。彼あたりの軍兵しばらくはきほひておそひ申けれど、みなゝびき申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつはものより〳〵うちいづれば、合戦もたび〳〵になりぬ。京中さわがしくなりては、上皇も新主も六波羅にうつり給。伯耆よりも軍をさしのぼせらる。ここに畿内・近国にも御志ある輩、八幡山に陣をとる。坂東よりのぼれる兵の中に藤原の親光と云者も彼山にはせくはゝりぬ。つぎ〳〵御方にまゐる輩おほくなりにけり。源高氏ときこえしは、昔の義家朝臣が二男、義国と云しが後胤なり。彼義国が孫なりし義氏は平義時朝臣が外孫なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心をゝきければにや、おしすゑたるやうなりしに、これは外孫なれば取立て領ずる所などもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。

書き下し

世の中みだれ立にし。次の年癸酉の春、忍て御船にたてまつりて、隠岐をいでゝ伯耆につかせ給。其国に源長年と云者あり。御方にまゐりて船上と云山寺にかりの宮をたてゝぞすませたてまつりける。彼あたりの軍兵しばらくはきほひておそひ申けれど、みなゝびき申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつはものよりよりうちいづれば、合戦もたびたびになりぬ。京中さわがしくなりては、上皇も新主も六波羅にうつり給。伯耆よりも軍をさしのぼせらる。ここに畿内・近国にも御志ある輩、八幡山に陣をとる。坂東よりのぼれる兵の中に藤原の親光と云者も彼山にはせくはゝりぬ。つぎつぎ御方にまゐる輩おほくなりにけり。源高氏ときこえしは、昔の義家朝臣が二男、義国と云しが後胤なり。彼義国が孫なりし義氏は平義時朝臣が外孫なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心をゝきければにや、おしすゑたるやうなりしに、これは外孫なれば取立て領ずる所などもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。

現代語訳

世の中は乱れ立った。次の年、癸酉(一三三三年)の春、(天皇は)ひそかに御船にお乗りになり、隠岐を出て伯耆にお着きになった。その国に源長年(名和長年)という者がいた。味方に参じて、船上という山寺に仮の宮を建ててお住まい申しあげた。そのあたりの軍兵はしばらくは勢い込んで攻めかかり申したが、みな(天皇方に)なびき従った。都に近い所々でも、志ある国々の兵が折々に打って出たので、合戦もたびたびになった。京中が騒がしくなると、上皇も新帝も六波羅に移られた。伯耆からも軍勢を上らせられた。そこで畿内・近国の志ある者たちが八幡山に陣をとった。坂東から上ってきた兵の中の藤原親光という者も、その山に馳せ加わった。次々と味方に参じる者が多くなった。源高氏(足利尊氏)と聞こえた者は、昔の源義家朝臣の次男、義国という者の子孫である。その義国の孫であった義氏は、平義時朝臣(北条義時)の外孫である。義時らの世になって、源氏の号を持つ勇士には用心したからであろうか、(彼らを)押さえつけるようであったが、これ(義氏)は外孫なので取り立てて、領地なども多く取り計らっておき、代々に至るまで分け隔てなく扱っていた。

解説

後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆の船上山に拠り、各地で天皇方が立ち上がっていく段である。名和長年、八幡山に集まった畿内の武士たち、坂東から寝返って加わった者と、味方が増えていく様子が短い文で積み重ねられる。そのなかで親房は、足利高氏の家系の説明にわざわざ筆を割いている。足利氏は源義家の子孫だが、義氏が北条義時の外孫であったため、北条氏は他の源氏には用心しながらも、足利氏だけは取り立てて領地を与え、代々分け隔てなく扱ってきたという。この説明は次の段への伏線である。北条氏から厚く遇されてきた家が、どう振る舞ったか。親房は恩を受けた相手への態度で人を測っており、のちに高氏を厳しく批判する根拠を、ここで先に並べているのである。

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