神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
承久より関東の方人にて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅ぬれば、運のしからしむることゝはおぼゆれど、弘仁に死罪をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申はべりけれ。戚里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令もあるに、うけ給おこなふ輩のあやまりなりとぞきこえし。高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。追討のために、中務卿尊良親王を上将軍として、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくの兵をくだされしに、十二月に官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子の春正月十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。
書き下し
承久より関東の方人にて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅ぬれば、運のしからしむることゝはおぼゆれど、弘仁に死罪をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申はべりけれ。戚里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令もあるに、うけ給おこなふ輩のあやまりなりとぞきこえし。高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。追討のために、中務卿尊良親王を上将軍として、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくの兵をくだされしに、十二月に官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子の春正月十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。
現代語訳
(西園寺家は)承久以来、関東の味方として七代になったであろうか。高時も七代で滅んだので、運がそうさせたことと思われるが、弘仁に死罪を止められて後、(藤原)信頼の時にこそ(公卿の死罪を)珍しいことと申したほどである。外戚としての縁も久しくなり、大納言以上に至った人に対しては、同じ死罪であっても表立たない法令もあるのに、(そうしなかったのは)命を受けて執行した者たちの過ちであったと聞こえた。高氏は願い出て東国に向かったが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望んだけれども、征東将軍に任じられて、ことごとくは許されなかった。ほどなく東国は鎮まったが、高氏は望むところが達せられず、謀反を起こすとの噂が聞こえた。十一月十日過ぎであったか、義貞を追討すべき旨の奏状を奉り、すぐに討手が上ってきたので、京中は騒動した。追討のために中務卿尊良親王を上将軍として、しかるべき人々も大勢遣わされた。武家では義貞朝臣をはじめとして多くの兵を下されたが、十二月に官軍は退いた。関所を固められたけれども、次の年、丙子の春正月十日に官軍はまた敗れて、朝敵はすでに都に近づいた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇一とせ彼下文を持て奏聞する人の有けるに、褒美の詞のはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことゝ口々にほめあへりける。いかに心えてほめけんといとをかし。是までの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。ありし世の東国の風儀もかはりはてぬ。公家のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍る輩もありときこえしかど、中一とせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞり集て都の中はえばえしくこそ侍りけれ。建武乙亥の秋の比、滅にし高時が余類謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河国までのがれにき。兵部卿護良親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑せられける中に権大納言公宗卿召おかれしも、このまぎれに誅せらる。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇高氏も都へさしのぼせられけるに、疑をのがれんとにや、告文をかきおきてぞ進発しける。されど冥見をもかへりみず、心がはりして御方にまゐる。官軍力をえしまゝに、五月八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝おなじく御ゆきあり。近江国馬場と云所にて、御方に心ざしある輩うちいでにければ、武士はたゝかふまでもなく自滅しぬ。両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり申き。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になん。東にも上野国に源義貞と云者あり。高氏が一族也。世の乱におもひをおこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、高時等運命きはまりにければ、国々の兵つきしたがふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月の二十二日にや、高時をはじめとして多の一族みな自滅してければ、鎌倉又たひらぎぬ。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申の儀あり。御前にめし勅語ありて御衣御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。同十二月左馬頭直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野大守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給抑彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務・守護およびあまたの郡庄を給る。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇世の中みだれ立にし。次の年癸酉の春、忍て御船にたてまつりて、隠岐をいでゝ伯耆につかせ給。其国に源長年と云者あり。御方にまゐりて船上と云山寺にかりの宮をたてゝぞすませたてまつりける。彼あたりの軍兵しばらくはきほひておそひ申けれど、みなゝびき申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつはものよりよりうちいづれば、合戦もたびたびになりぬ。京中さわがしくなりては、上皇も新主も六波羅にうつり給。伯耆よりも軍をさしのぼせらる。ここに畿内・近国にも御志ある輩、八幡山に陣をとる。坂東よりのぼれる兵の中に藤原の親光と云者も彼山にはせくはゝりぬ。つぎつぎ御方にまゐる輩おほくなりにけり。源高氏ときこえしは、昔の義家朝臣が二男、義国と云しが後胤なり。彼義国が孫なりし義氏は平義時朝臣が外孫なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心をゝきければにや、おしすゑたるやうなりしに、これは外孫なれば取立て領ずる所などもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申伝たる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などゝて優恕することもなし。たゞ家人の列なりき。実朝公八幡宮に拝賀せし日も、地下前駈二十人の中に相加れり。たとひ頼朝が後胤なりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人なり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞せらるべきとあやしみ申輩もありけりとぞ。関東の高時天命すでに極て、君の御運をひらきしことは、更に人力といひがたし。武士たる輩、いへば数代の朝敵也。御方にまゐりて其家をうしなはぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運の望をも企はべるべき。しかるを、天の功をぬすみておのれが功とおもへり。介子推がいましめも習しるものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬ輩もあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもありき。されば或人の申されしは、「公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中々猶武士の世に成ぬる。」とぞ有し。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇近ごろ伏見の御時、源為頼と云をのこ内裏にまゐりて自害したりしが、かねて諸社に奉る矢にも、その夜射ける矢にも、大政大臣源為頼とかきたりし、いとをかしきことに申めれど、人の心のみだりになり行すがたはこれにておしはかるべし。義時などはいかほどもあがるべくやありけん。されど正四位下右京権大夫にてやみぬ。まして泰時が世になりては子孫の末をかけてよくおきておきければにや。滅びしまでもつひに高官にのぼらず、上下の礼節をみだらず。近く維貞といひしもの吹挙によりて修理大夫になりしをだにいかがと申ける。まことに其の身もやがてうせ侍りにき。父祖のおきてにたがふは家門をうしなふしるしなり。人は昔をわするゝものなれど、天は道をうしなはざるなるべし。さらばなど天は正理のまゝにおこなはれぬと云こと、うたがはしけれど、人の善悪はみづからの果報也。世のやすからざるは時の災難なり。
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